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クラシック鑑賞 17


 

クラシック鑑賞 17

 


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デンマンさん。。。、最近、クラシックにハマっているのですかァ~?


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僕はクラシックは、どちらかと言えば苦手なんだよ。。。

それなのに、どういうわけで、最近オイラと たびたびクラシックを鑑賞するのですか?

オマエは不満なのォ~?

いいえ。。。 デンマンさんと共にクラシックを鑑賞することができるなんてぇ~、天にも昇るような気持ちです。。。 この際、スキップして喜んでもいいですか?


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あのさァ~、いくらなんでも、それはオーバーじゃないのォ~? オマエが以前のようにスキップして喜んだら、この記事を読みにやって来たネット市民の皆様が呆れて他のブログへ飛んでしまうのだよ!

分かりました。。。 じゃあ、スキップして喜びたいのですけれど、デンマンさんが そのように言うのであれば、じっと我慢したいと思います。。。で、いったいどのクラシックの曲を鑑賞するのですか?

オマエが“後奏曲集”の中で書いていた記事から選んだのだよ。。。 ちょっと読んでごらんよ!


3.4 André Campra (1660 – 1744)

W.A. Mozartのd-mollの<<Requiem>>は、M. HaydnのG-durの<<Requiem>>と、調性こそ異なれ、形がそっくりである。特に、<Offertorium>中の、Quam olim Abrahae promisisti et semini ejusの執拗な繰り返しなどが。
私が非常に好感をもった梅沢敬一の文章があるのでここに記す:
モーツァルトの名作については今さら説明の必要はないだろう。奇蹟とも言い得る傑作だが、私はあまり好きではない。モーツァルトにしては異常すぎて、尋常には楽しめないのだ。それはジュスマイアの補筆のせいもあるのかも知れないが、根本的にはモーツァルト自身の精神の動揺ではないか。内容が山ほどあってしかも常にせいいっぱいで、バランスが崩れそうなギリギリのところで成り立っている感じがする。気安くは聞けない作品だ。
全くその通りだ。正直で、正確で、良い文章ではないか。ただ、私としては、Mozartの<<Requiem>>は、好きとか嫌いとかいう作品の彼方にある創造物ではないか、と思うのである(草子地:梅沢さん、すみません。私は、貴方と同じことを逆の順序で言っているのに過ぎないのかもしれません)。言ってみれば、異端のrequiemであろう。それは、あの例外的に激しい<Kyrie>や、その循環としての<Communio>を聴くだけで感じとられる。あたかも、Mozartの生の声、悲鳴が聞こえてくるようではないか。この<Communio>への循環は、W.A. Mozartからの指示か、それともF.X. Süssmayerの着想か、どちらにしても、卓越したIdeeである。しかし、この作品は、あまりにも作曲家の個人的な心情を発露しているのではないか、という意味でも、作品の成立過程を考慮しても、実際の典礼音楽としては向いていないとも言えるのではないであろうか。私は、この作品を、葬儀の式次第に使用するのは、悪趣味だ、とすら考えているのである。それにしても、ただ、この作品については、それが存在すること自体が奇跡である、とも思いつつ、それを享受しているのである。
さて、その梅沢敬一が、名作であり復活してほしいレコード、と言ったA. Campraの<<Messe de Requiem>>のCDが手に入ったので、それについて書きたい。このJean-Claude Malgoireたちによる演奏は、多分、彼の言ったそれとは違う、と思われるのであるが、何せ、今のところ、これ(Musique à Versailles、WMD Classique 334 592223)しか見当たらないのである。今は、他の演奏と比較することができないが、私はこの演奏に好感を持った。
結論を書けば、私は、この静寂な作品がで好きである。雄弁なMozartの作品のように騒々しくはないからである。むしろ、今現在は、全てのmissa pro defunctisのなかで、一番に好きである。tractusとsequentiaを欠いてはいるが、それは、この時代のrequiemとしては、さほど、例外的ではない。むしろ、benedictusが無いことの方が、後のG. Fauréの<< Requiem>>(Op. 48)にも共通している。これは、フランスの作曲家による伝統か、とも想像したのであるが、Cantus Gregorianus に詳しいM. Durufréの<< Requiem>>(Op. 9)では、それが、二度あるHosanna in excelsisの間に、一度だけ、流すように唱われているので、そうでもないらしい。
そもそも、benedictusはsanctusの一部なのかどうなのか。私はhosannaの繰り返しの故に、sanctusの一部だと思っていたのであるが、さまざまなrequiemを聴いていると、作曲家によって、その取り扱いは異なっている、と見る方が実際的であろう、と眺めるようになってきた。
Campraの清澄な<<Requiem>>のなかで、特に耳を欹てるところは、<Offeroire>の部分の響きである。Ne absorbeat eas tartarus; Ne cadant in obscurumが、その前後とは違って、textの意味の通りに暗く、不協和音をもって表出されている箇所である。それ以外は、清みきった音楽が静かに唱われ、奏かれている。
私が常々疑問に思っていることであるが、missa defunctorumのtextでの単数代名詞と複数のそれの混在である。Missa pro defunctisが、個人の為なのか、全ての死者の為なのか、誰の為の葬儀なのか、一瞬、戸惑うことがある。その双方にしては、その混在の在り様に首を傾げたくなるのである。
それと、これは、requiemには当てはまらないが、ましてCampraの<<Requiem>>には当てはまらないが、一般のmissaのcredoに於けるetの頻度の多さである。そして、…そして、…そして、と続く文体などは駄文の例になるのではないか、と思われるほどである。ラテン語で聴いているから荘重に聞こえるとしたならば、それは、錯覚なのではないか。誰かが、古いラテン語のtextには単語を分ける空白が無かった故だ、と説明していたが、それでは、同じく長い章であるmissa defunctorum のsequentiaではどうであろうか。それには、ほとんどetはない。credoは、元来は、その意味からしても、唱えられる文であって、唱われる文ではなかったかのではないか。ただ、しかし、これらは、作曲家たちに、直接には関係ないことであろう。
Mozartの<<Requiem>>の<Sequenz>のような、言語を絶する例もあるが、私は、一般的には、Campraの<<Requiem>>のように、それがない作品の方が好感が持てる。

コーダ (遺言):
私は、自己中心的な人間であるので、私自身が死ぬ時に一番哀しく感じるのではないか、と確信している。その次が家族で、次に、私のような者に対しても好意をもってくれた人々になるのではないか、と思う。そこが、むしろ、少し、淋しく感じられている。

59-60ページ
『後奏曲集―後書きばかり-作品 3』より




あのさァ~、いつも思うのだけれど、オマエの文章はとっても読みづらいのだよ! 英語やドイツ語やフランス語やラテン語が入り混じっている。。。



デンマンさん! 人のことは言えませんよ! デンマンさんの文章だってぇ、長くて読み始めると、じきに飽きてしまうのですよ。。。

それは、オマエの極めて個人的な見解だと思うのだよ! むしろ独断と偏見だと言っていい。。。 僕の記事は、日本語が解る世界のネット市民の 多くの皆様に読まれているのだよ!

134ヵ国のネット市民の皆様に読まれていることを自慢したいのですか?

いや。。。 自慢したいわけじゃない! オマエが「デンマンさんの文章だってぇ、長くて読み始めると、じきに飽きてしまうのですよ」と言ったから、僕の長い記事でも まめに読んでくれる常連さんが居る、と言いたかったまでだよ。。。 とにかく、オマエの文章は読みづらいので、多くの人が上の文章を読み飛ばしたと思うのだよ。。。

マジで。。。?

僕だってぇ、読みたくなかった。。。 でも、この記事を書く都合があるので、次のように読み易くして読んだのだよ。


3.4 アンドレ・カンプラ

    (1660 – 1744)



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モーツァルトの二短調の<<レクイエム(死者のためのミサ曲)>>は、ミヒャエル・ハイドンのト長調の<<レクイエム>>と、調性こそ異なれ、形がそっくりである。

特に、<奉献唱>中の、「かつて、あなたがアブラハムとその子孫に約束されたように」の執拗な繰り返しなどが。



私が非常に好感をもった梅沢敬一の文章があるのでここに記す:



(mozart30.jpg)

 

モーツァルトの名作については今さら説明の必要はないだろう。

奇蹟とも言い得る傑作だが、私はあまり好きではない。

モーツァルトにしては異常すぎて、尋常には楽しめないのだ。

それはジュスマイアの補筆のせいもあるのかも知れないが、根本的にはモーツァルト自身の精神の動揺ではないか。

内容が山ほどあってしかも常にせいいっぱいで、バランスが崩れそうなギリギリのところで成り立っている感じがする。

気安くは聞けない作品だ。


全くその通りだ。
正直で、正確で、良い文章ではないか。

ただ、私としては、モーツァルトの<<レクイエム>>は、好きとか嫌いとかいう作品の彼方にある創造物ではないか、と思うのである。
(草子地:梅沢さん、すみません。私は、貴方と同じことを逆の順序で言っているのに過ぎないのかもしれません)

言ってみれば、異端のレクイエムであろう。
それは、あの例外的に激しい<憐れみの賛歌>や、その循環としての<聖餐>を聴くだけで感じとられる。
あたかも、モーツァルトの生の声、悲鳴が聞こえてくるようではないか。
この<聖餐>への循環は、モーツァルトからの指示か、それともフランツ・クサーヴァー・ジュースマイヤーの着想か、どちらにしても、卓越したモチーフである。

しかし、この作品は、あまりにも作曲家の個人的な心情を発露しているのではないか、という意味でも、作品の成立過程を考慮しても、実際の典礼音楽としては向いていないとも言えるのではないであろうか。
私は、この作品を、葬儀の式次第に使用するのは、悪趣味だ、とすら考えているのである。
それにしても、ただ、この作品については、それが存在すること自体が奇跡である、とも思いつつ、それを享受しているのである。

さて、その梅沢敬一が、名作であり復活してほしいレコード、と言ったカンプラの<<レクイエム(死者のためのミサ曲)>>のCDが手に入ったので、それについて書きたい。



このジャン=クロード・マルゴワールたちによる演奏は、多分、彼の言ったそれとは違う、と思われるのであるが、何せ、今のところ、これ(Musique à Versailles、WMD Classique 334 592223 【太田氏が所有するCDの制作番号】)しか見当たらないのである。

今は、他の演奏と比較することができないが、私はこの演奏に好感を持った。

結論を書けば、私は、この静寂な作品がで好きである。
雄弁なモーツァルトの作品のように騒々しくはないからである。

むしろ、今現在は、全ての死者のためのミサ曲のなかで、一番に好きである。
詠唱と続唱を欠いてはいるが、それは、この時代のレクイエムとしては、さほど、例外的ではない。

むしろ、ベネディクトゥス(短い賛歌で、普通「サンクトゥス」と併せて一つの曲にまとめられる事が多い)が無いことの方が、後のガブリエル・フォーレの<<レクイエム>>(Op. 48)にも共通している。



これは、フランスの作曲家による伝統か、とも想像したのであるが、

グレゴリオ聖歌に詳しいモーリス・デュリュフレの<<レクイエム>>(Op. 9)では、

それが、二度ある「天のいと高きところにホザンナ」の間に、

一度だけ、流すように唱われているので、そうでもないらしい。



そもそも、ベネディクトゥスは三聖頌の一部なのかどうなのか。私はホザンナの繰り返しの故に、三聖頌の一部だと思っていたのであるが、さまざまなレクイエムを聴いていると、作曲家によって、その取り扱いは異なっている、と見る方が実際的であろう、と眺めるようになってきた。

カンプラの清澄な<<レクイエム>>のなかで、特に耳を欹てるところは、<奉献唱>の部分の響きである。
「深淵が彼らを飲み込んでしまいませんように…、彼らが闇の底に落ちてしまいませんように…」が、その前後とは違って、テクストの意味の通りに暗く、不協和音をもって表出されている箇所である。
それ以外は、清みきった音楽が静かに唱われ、奏かれている。

私が常々疑問に思っていることであるが、死者のためのミサ曲のテクストでの単数代名詞と複数のそれの混在である。
死者のためのミサ曲が、個人の為なのか、全ての死者の為なのか、誰の為の葬儀なのか、一瞬、戸惑うことがある。
その双方にしては、その混在の在り様に首を傾げたくなるのである。

それと、これは、レクイエムには当てはまらないが、ましてカンプラの<<レクイエム>>には当てはまらないが、一般のミサの信仰宣言に於けるetの頻度の多さである。
そして、…そして、…そして、と続く文体などは駄文の例になるのではないか、と思われるほどである。
ラテン語で聴いているから荘重に聞こえるとしたならば、それは、錯覚なのではないか。

誰かが、古いラテン語のテクストには単語を分ける空白が無かった故だ、と説明していたが、それでは、同じく長い章である死者のためのミサ曲の続唱ではどうであろうか。
それには、ほとんどetはない。

信仰宣言は、元来は、その意味からしても、唱えられる文であって、唱われる文ではなかったかのではないか。
ただ、しかし、これらは、作曲家たちに、直接には関係ないことであろう。

モーツァルトの<<レクイエム>>の<続唱>のような、言語を絶する例もあるが、私は、一般的には、カンプラの<<レクイエム>>のように、それがない作品の方が好感が持てる。

 



コーダ (遺言):

 

私は、自己中心的な人間であるので、

私自身が死ぬ時に一番哀しく感じるのではないか、と確信している。

その次が家族で、次に、私のような者に対しても好意をもってくれた人々になるのではないか、と思う。

そこが、むしろ、少し、淋しく感じられている。




赤字はデンマンが強調)

59-60ページ
『後奏曲集―後書きばかり-作品 3』より




オマエが レクイエム(死者のためのミサ曲)を取り上げたので、なんだか葬式に参列しているようで湿っぽくなってきたのだけれど、僕はオマエのコーダ (遺言):を読んで、ちょっと意外な感じがしたのだよ。。。



どこが意外なのですか?

オマエは「私自身が死ぬ時に一番哀しく感じる」と書いているのだけれど、僕は自分が死ぬときに哀しく感じるということを これまでに考えてみたことがなかったのだよ。。。

マジで。。。?

だいたい、自分が死ぬ時というのは、哀しいとか、嬉しいとか、そういう喜怒哀楽は感じないのだと僕自身は思っていたのだよ。。。

何も感じないということですか?

いや。。。 僕が死ぬ時に感じるとしたら、「神様 (実は信じてないけれど、【宇宙の摂理様】というと馬鹿らしく聞こえるので、とりあえず、神様を持ち出すことにした)、まだやり残していることがあるので、今 死ぬのは、ちょっと残念です。。。 あと1年ぐらい、後始末のための時間をいただけませんか? そうすれば、喜んで死ねると思います」というぐらいの感慨しかないよ。。。

自分が死ぬ時に寂しいとか、哀しいとか デンマンさんは思わないのですか?

あのさァ~、哀しいとか、寂しいというのは、愛している人が亡くなる時に感じる感情だと僕は思うのだよ。。。 僕は母親の葬式に参列したときには、それほど寂しさも、哀しさも感じなかった。。。というのも、母親が入院していたり、介護施設でデイーサービスを受けていたりしていたので、そろそろ逝くだろうという実感があった。。。 だから、かなり以前からイメージ・トレーニングをしていたのだよ。。。

つまり、デンマンさん自身が母親の死に水を取るときのショックを和らげるために、あらかじめ悲しみや喪失感を感じ取って、涙に暮れたことがあったということですか?

そうなのだよ。。。 行田市の実家に居る母親とは 太平洋を挟んで 遠く離れたバンクーバーのマンションで、母親の死をイメージして、僕はサメザメと悲しみの涙にくれたのだよ。。。


(mother002.jpg)


(cry007.gif)

『行田物語 母の懐』



つまり、予習していたということですかァ~?



そういうことなのだよ。。。 だから、母親の葬式の時には、涙は出なかった。。。 それまでに、かなりの涙を流していたから。。。


(soshiki02.png)



そういう人って、あまりいないのでは ありませんかァ?



僕は、自分の死よりも家族の死や、愛している人の死の方が悲しいのだよ。。。 だから、例えば、叔母が亡くなることを考えたり、軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが亡くなることとか、めれんげさんが亡くなるとか、卑弥子さんが亡くなるとか、ジューンさんが亡くなるとか。。。、そういう事を考えると、自分の死よりも はるかに、少なくとも50倍ぐらい哀しくなるのだよ。。。

なるほどォ~。。。 デンマンさんの言う事がオイラにも少しは解りますよ。。。

いや。。。 オマエの哀しみと僕の悲しみには、かなりの違いがあるように 僕には感じられるのだよ!

具体的には、どのような違いなのですか?

だいたい自分が死ぬときに哀しくなるなんて言うのは、僕にとっては、哀しみの内に入らないのだよ!

そうかなァ~。。。 デンマンさんは、自分が死ぬ時に哀しくならないのかなァ~?

だから、すでに言ったように、残念だと思う気持ちは湧くけれど、涙が出てくることはないよ。。。

そうでしょうか?

オマエの場合、家族は2の次なのだよなァ~?

そうです。。。 オイラは自己中心的な人間であるので、自分の死が一番哀しいのです!

オマエが、自己中心的な人間であることは、ずいぶん昔から知っていたけれど、家族の死の哀しみが2の次だと言うほど自己中心的な人間だとは思わなかったよ。。。

とにかく、オイラは自己中心的な人間なのです。。。

うん、うん、うん。。。 僕は改めて、そうだということが理解できたよ。。。

マジで。。。?

だってぇ~、オマエは次のように書いていたから。。。




私は、この曲集を書き終えたとき、老人見習いから、正真正銘の老人になるのではないか、と思うこの頃である。
真の老人とは、もはや、失うべき何ものも無くなった人のことを言うのではないか。

長女は、私から去った。
次女は、中立を保つ為に、この家に寄りつかない。
家内と言えば、日本語も通じなくなってから何年にもなる。


私には、S.Kierkegaard の言った、一番易しく一番難しいこと、すべてを捨てること、が、案外、無理なくできるのではないか。
いや、その時には、捨てるべき何ものも見当たらなくなった境地であろう。

その意味では、老人になる前に、不慮の死で亡くなった人は気の毒である。
私は、若い時に、死ぬのはいいが風邪をひくのは嫌だ、などと言って、粋がって与太をほざいていた。
今も、願わくは、あまり苦しむことなく死を迎えられたなら、それにこしたことはない、と考えている。


(kierke02.jpg)

Kierkegaard は、また、永遠とは有限が無限に出会う瞬間である、と言っていた。
私の人生に、かつて、そのような瞬間があったであろうか。
いや、それもまた、超越の命題であろう。

私の人生は、無明に迷ったそれに終わるのかもしれない。
しかし、私の背後には、母の祈りがあった。

ある麻薬中毒患者が、お母さん、僕は、こんな遠くまで来てしまった、と淋しげに呟いていたが、私は、麻薬中毒者ではないけれど、その気持ちが解かっている、と思う。
どのみち、人生は、rehearsal無しの、ぶっつけ本番なのである。



しかし、私は、F.M.Dostoevsky の「白痴」にある、あの「イッポリトの告白」に書かれているように、もし、生まれる前に、この条件を知らされていたとしたならば、私は、生まれるてくることを肯(がえ)んじなかったであろう、とは思っていない。
私は、感謝して死ねるように、今からでも、心の準備をしておこう。

S.D.G

コーダ(蛇足):

私の懐疑なるものが、深いのか、深くないのか、私自身も知る由もない。
仮に、深かったとしても、そもそも、懐疑の深さというものは、誇るべきものであるのか、という疑問が残る。




【デンマン注:】 改行を加え読み易くしました。あしからず。

S.Kierkegaard: キルケゴール (1813-1855) デンマークの哲学者

S.D.G.: Soli Deo Gloria (ラテン語) To God Alone the Glory(英語) 神に栄光あれ。

F.M.Dostoevsky: ドストエフスキー (1821-1881) ロシアの小説家・思想家




56ページ Michel-Richard de Lalande
『後奏曲集(後書きばかり)』 作品3
著者: 太田将宏
初版: 1994年1月 改定: 2006年9月

『馬鹿やって人気?』にも掲載
(2015年8月18日)




デンマンさん! んもおおおォ~。。。! 毎回、毎回、この文章を引用しないでくださいよゥ!



オマエが「オイラは自己中心的な人間なのです」と言うから、上の小文を引用したのだよ!

つまり、自己中心的な人間が家族を持つと、長女は、私から去り、次女は、中立を保つ為に、この家に寄りつかず、家内と言えば、日本語も通じなくなってから何年にもなってしまうのですか?

だってぇ~、オマエガ自分で、そう書いているじゃないかァ!

つまり、今日はこの事を言うために、わざわざアンドレ・カンプラを取り上げたのですか?

その通りだよ。。。 でも、別に悪意があったわけじゃなく、オマエがたまたまレクイエム(死者のためのミサ曲)を取り上げたので、こういう話になったのだよ。。。 あしからず。。。



(laugh16.gif)


【レンゲの独り言】


(manila07.gif)

ですってぇ~。。。

今日は、太田さんの奥さんと娘さんまで持ち出して 太田さんが自己中心的な人間である事を盛んに吹聴していますわァ。

太田さんは、迷惑そうな表情を浮かべています。

ところで、太田さんはクラシックについての造詣が深いですけれど、

お仕事はコンピューター関連ですわァ。。。

クラシックは趣味だそうです。。。

たいていデンマンさんは 太田さんに対して かなり辛らつな批判をしています。

太田さんにしてみれば、コケにされたと思えるようで、

次のサイトで抗議録を公開したのですわァ。。。


(kogiroku9.png)

『実際の抗議録』

デンマン注:しかし太田将宏が上の抗議録を掲載したサイトは消滅してしまいました!

 

デンマンさんも上の抗議録を読んで ムキになって反論しています。

『嘘を書く日記』

 

太田さんは、これに対しては反論ができないのか、それ以降 無言で通しています。

でも、そのうち 忘れた頃にまたコメントを書き込むかもしれません。。。

あなたは、どう思いますか?

とにかく、ネットには “めちゃキモい”人たちがウヨウヨしています。

太田将宏さんは、まだ良い方ですわ。

中には、まるで得意になって、愚かな事をして遊んでいる オツムの足りない人たちがたくさん居ます。

また、見かけは普通のブログでも、悪徳スパマーが手を変え品を変えて 悪徳サイトへ誘い込もうとしています。

スパムコメントで褒められると、ついついその気になって、

相手のブログへ飛んでゆき、お返しに、あるいはお礼にと思って

読者に登録してしまったりするものですわァ。

どうか スパマーの思う壺にはまらないでくださいね。

悪徳スパマーは悪徳サイトへ誘おうと

てぐすね引いて待っているのですから。。。

悪徳サイトを利用して、

メールアドレスで登録したりすると、

あなたのメールアドレスは第3者や第4者に売られてしまう危険性があります。

あなたは、そのようなスパム・コメントや 成りすましスパマーには

騙されないと思い込んでいるでしょう?

でもねぇ~、もしかすると騙されているかもよ。。。

とにかく気をつけてくださいね。

次回も、さらに面白い話題が続きます。

あなたも、どうか、また記事を読みに戻ってきてください。

では。。。


(hand.gif)


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