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クラシック鑑賞 5


 

クラシック鑑賞 5

 


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デンマンさん。。。、最近、クラシックにハマっているのですかァ~?


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僕はクラシックは、どちらかと言えば苦手なんだよ。。。

それなのに、どういうわけで、最近オイラと たびたびクラシックを鑑賞するのですか?

オマエは不満なのォ~?

いいえ。。。 デンマンさんと共にクラシックを鑑賞することができるなんてぇ~、天にも昇るよな気持ちですよ。。。 この際、スキップして喜んでもいいですか?

あのさァ~、いくらなんでも、それはオーバーじゃないのォ~? オマエが以前のようにスキップして喜んだら、この記事を読みにやって来たネット市民の皆様が呆れて他のブログへ飛んでしまうのだよ!

分かりました。。。 じゃあ、スキップして喜びたいのですけれど、デンマンさんが そのように言うのであれば、じっと我慢したいと思います。。。で、いったいどのようなクラシックの曲を鑑賞するのですか?

オマエが“前奏曲集”の中で書いていた記事から選んだのだよ。。。 ちょっと読んでごらんよ!


9.2 Arnold Schoenberg

かつて、人は、私が為したことで私を非難した。今日では、私がそれを為さないことで私を非難している。これは、A. Schoenberg自身が十二音技法について語った言葉である。この言葉故に、私は、彼を、彼の生涯のあり方を尊敬している。世間などというものは、そんなものだ、と私も思っているからでもある。
音楽だけではない。所謂<普通の人>たちの知的怠慢は、社会を腐らせ、ときの前衛を阻めて歴史を歪めている。これは一過性では無い。人類史の全般にわたって、これの繰り返しではなかったか。それに較べるならば、強盗、強姦、いや殺人でさえも一過性である。<普通の人>たちの知的怠慢こそ、戦争、侵略、植民地支配などを許し、起したのである。私は、ここで、私自身の知的水準などについては、何も述べてはいない。ただ、少なくとも、知的怠慢ではないように心がけて、努めて、この歳まで過ごしてきた。その結果としての、ここらに書いてあることが私の傲慢であるかどうかは、読み手、聴き手の判断に委せよう。
自分自身というのは、一番に身近にある未知なる存在であろう。それ故に、何かの実験に使うのに最も手っ取り早い。それ故に、自分自身について語る、という誘惑に私も陥り易い。それ故に、私自身のことではなく、私の考えていることに話を移そう。
考えてもみよう。この宇宙には、様々な質量の物体が、様々な速度で、様々なEnergieをおびて、様々な軌道を運動している。あたかも、天地創造の際に、Big – Bangの時に、何らの設計図もなかった如くではないか。この地球での海と大陸と配置のし方にしても同様である。更に、個々の人間も、何らの規格もなかった創造物に見えないか。ここで、思考実験になる。もし、丸でも四角でも、球体でも立方体でも、何でもよい、そのように全てが配置され、運動するようにこの宇宙が設計されていたのならば(草子地:過去完了形の仮定文である)その幾何学的に規格された世界は理想的であろうか。生まれてくる子供も同じ身長、同じ体重で同じ性格であったとしたならば、怖ろしくはないか。そうではないが故に、人、一人一人がかけがえがなく、もし天地の創造者がいたとしたならば、その創造物の多様性は、むしろ、彼の祝福ではなかったか。
そこまでは、私も同意する。私の思考実験の結果であるから当然であろう。やはり、人は、人それぞれであろう。しかしである。私が、何かにつけ、ギリギリに考えた結果、こうこうこういう結果になった、と誰につけ話したようなときに、相手は、ギリギリには程遠いところの返事を返してきたとしたら、それは、公平であろうか。私は、冗談を言っているのではない。例えば、選挙に於いても、ギリギリに考えて投票した一票も、金で買われた一票も、一票は一票であるというような、丸でも四角でも、球体でも立方体でも、何でもよい、というのが民主主義と謂われる社会制度ではないか。もしも、超越的な創造者が存在しないのであれば、ということは、自然科学的な意味でのBig – Bangで、この宇宙、世界が出来上がったのであれば、民主主義なんぞはバベルの塔であろう(草子地:私は、ここで、Big – Bangが正しくない、とか、進化論は嘘だ、などとは書いていない。民主主義も、たかだか、我々には他に選択肢がない、というのに過ぎない)。
柴田南雄は、芸術家の番付を試みるのは愚行だが、筆者(草子地:柴田のこと)は作曲家の重要度と作品の質、量を考慮に入れた場合、Debussy、Schoenberg、Stravinskyの三人の偉大さは、Webern、Berg、Bartókの三人を凌駕すると考える、と書いている(音楽は何を表現するか、青土社、1981年)。私は、私なんぞに較べたならば、いや、較べるべくもなく、この六人全部が偉大だと思っている。それぞれの分野で戦い抜いた彼らの生涯であったからである。特に、Schoenbergには敵が多かった、と聞いている(草子地:私は、ここで、彼には敵が多かったから偉大であった、などとは書いてはいない。所謂<普通の人>、つまり俗物たちと最後まで戦った、その感慨の言葉に、彼の音楽と共に、感銘を受けたからである)。
しかし、また、十二音技法のSerieというのは記憶し難い。一作品の中でだけではなく、同じ作品を日を隔てて聴くと、また初めて聴く作品のようで、過去からの積み上げが期待できず、聴き手としても進歩し難い。楽譜を手に入れて、色鉛筆でも使って、あちらこちらにmarkでもしなければならないのだろうか。A. Bergの<<Violinkonzert>>のそれが、例外的に、記憶しやすいのは、あれは、調性音楽の旋律そのものでもあるからではないか。
Schoenbergが過渡期の作曲家であったとしたならば、私もまた過渡期の聴き手なのかも知れない。私が好きな彼の作品は、Melodramsの<<Pierrot Lunaire >>(Op. 21)や<<Streichquartett Nr.2 in fis-moll>>(Op. 10)などの、この過渡期の作曲家の過渡期の時期にある作品である。それらは、それ以後しばらくの作品のようにはdogmatischではなく、一曲一曲が、かけがえなくeigenartigであるからである。彼の晩年の作品では、何と言っても、小倉朗が、現代音楽の数少ない傑作の一つ、と絶賛した<<A Survivor from Warsow >>(OP. 46)であろう。その作曲技術に関しては小倉の記述(現代音楽を語る、岩波新書、167)などに譲るとして、ここでは、作曲家自身による、非情、残酷、残忍、悲惨な事件のtextに拮抗する音楽は、感動などの心情的な興奮の彼方にあるべきであるにも拘らず、最後の男声合唱による<Shema Yisroel>(聴け、イスラエル)が響いた瞬間、言語を絶する衝撃を感じる、と私は記したい。

蛇足(コーダ):
過日、家内に、君の記憶力は、いいとか、わるいとか、と言うのではなくて、要するに、無いんではないか。と言ったところ、それを家内は、彼女の友人に話したそうである。ひどいことを言うわねぇ、というのがその人の反応だったそうである。彼女たちは、あいみたがいであったのであろう。
このようにして、<<A Survivor from Warsow >>の悪夢から醒めた私もまた俗物なのであろうか。それとも、<日常>というものは、そうでしかないのか。




42-43ページ
『前奏曲集―あるアマチュアの覚書-作品 1の1』より




振り返ってみると、デンマンさんと共にクラシックを鑑賞するなんて今年になってから3度目のことですねぇ~。。。



確かに、そうなのだよ! でもさァ~、オマエの上の文章は とにかく読みづらいのだよ! おそらく、この記事を読み始めたネット市民の皆様の半分以上が、オマエの読みづらい文章を途中まで読んで 他のブログへ飛んでしまったと思うのだよ!

それほどオイラの文章は悪文でしょうか?

オマエの文章ほど読みづらい悪文を 僕は他に見たことがないよ!

マジで。。。?

僕には、到底、オマエの文章を最後まで読む気になれず、仕方がないから次のように楽しく、面白く読めるように編集し直したのだよ。。。 オマエも読んでごらんよ。。。


9.2 アルノルト・シェーンベルク


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(1874年9月13日 - 1951年7月13日)

 


かつて、人は、私が為したことで私を非難した。

今日では、私がそれを為さないことで私を非難している。


これは、アルノルト・シェーンベルク自身が十二音技法について語った言葉である。

この言葉故に、私は、彼を、彼の生涯のあり方を尊敬している。
世間などというものは、そんなものだ、と私も思っているからでもある。

音楽だけではない。
しょせん<普通の人>たちの知的怠慢は、社会を腐らせ、ときの前衛を阻めて歴史を歪めている。

これは一過性では無い。
人類史の全般にわたって、これの繰り返しではなかったか。
それに較べるならば、強盗、強姦、いや殺人でさえも一過性である。

<普通の人>たちの知的怠慢こそ、戦争、侵略、植民地支配などを許し、起したのである。
私は、ここで、私自身の知的水準などについては、何も述べてはいない。

ただ、少なくとも、知的怠慢ではないように心がけて、努めて、この歳まで過ごしてきた。
その結果としての、ここらに書いてあることが私の傲慢であるかどうかは、読み手、聴き手の判断に委せよう。

自分自身というのは、一番に身近にある未知なる存在であろう。
それ故に、何かの実験に使うのに最も手っ取り早い。
それ故に、自分自身について語る、という誘惑に私も陥り易い。
それ故に、私自身のことではなく、私の考えていることに話を移そう。

考えてもみよう。
この宇宙には、様々な質量の物体が、様々な速度で、様々なエネルギーをおびて、様々な軌道を運動している。
あたかも、天地創造の際に、ビッグバンの時に、何らの設計図もなかった如くではないか。
この地球での海と大陸と配置のし方にしても同様である。

更に、個々の人間も、何らの規格もなかった創造物に見えないか。
ここで、思考実験になる。

もし、丸でも四角でも、球体でも立方体でも、何でもよい、そのように全てが配置され、運動するようにこの宇宙が設計されていたのならば(草子地:過去完了形の仮定文である)その幾何学的に規格された世界は理想的であろうか。
生まれてくる子供も同じ身長、同じ体重で同じ性格であったとしたならば、怖ろしくはないか。

そうではないが故に、人、一人一人がかけがえがなく、もし天地の創造者がいたとしたならば、その創造物の多様性は、むしろ、彼の祝福ではなかったか。
そこまでは、私も同意する。
私の思考実験の結果であるから当然であろう。

やはり、人は、人それぞれであろう。
しかしである。私が、何かにつけ、ギリギリに考えた結果、こうこうこういう結果になった、と誰につけ話したようなときに、相手は、ギリギリには程遠いところの返事を返してきたとしたら、それは、公平であろうか。
私は、冗談を言っているのではない。

例えば、選挙に於いても、ギリギリに考えて投票した一票も、金で買われた一票も、一票は一票であるというような、丸でも四角でも、球体でも立方体でも、何でもよい、というのが民主主義と謂われる社会制度ではないか。
もしも、超越的な創造者が存在しないのであれば、ということは、自然科学的な意味でのビッグバンで、この宇宙、世界が出来上がったのであれば、民主主義なんぞはバベルの塔であろう。

(草子地:私は、ここで、ビッグバンが正しくない、とか、進化論は嘘だ、などとは書いていない。民主主義も、たかだか、我々には他に選択肢がない、というのに過ぎない。)

柴田南雄は、芸術家の番付を試みるのは愚行だが、筆者(草子地:柴田のこと)は作曲家の重要度と作品の質、量を考慮に入れた場合、ドビッシー、シェーンベルク、ストラヴィンスキーの三人の偉大さは、アントン・ヴェーベルン、ベルク、バルトークの三人を凌駕すると考える、と書いている(音楽は何を表現するか、青土社、1981年)。

私は、私なんぞに較べたならば、いや、較べるべくもなく、この六人全部が偉大だと思っている。
それぞれの分野で戦い抜いた彼らの生涯であったからである。

特に、アルノルト・シェーンベルクには敵が多かった、と聞いている。

(草子地:私は、ここで、彼には敵が多かったから偉大であった、などとは書いてはいない。所謂<普通の人>、つまり俗物たちと最後まで戦った、その感慨の言葉に、彼の音楽と共に、感銘を受けたからである)。

しかし、また、十二音技法のセリエル音楽というのは記憶し難い。
一作品の中でだけではなく、同じ作品を日を隔てて聴くと、また初めて聴く作品のようで、過去からの積み上げが期待できず、聴き手としても進歩し難い。
楽譜を手に入れて、色鉛筆でも使って、あちらこちらに印(しるし)でもしなければならないのだろうか。

アルバン・ベルクの<<ヴァイオリン協奏>>のそれが、例外的に、記憶しやすいのは、あれは、調性音楽の旋律そのものでもあるからではないか。



アルバン・ベルクのヴァイオリン協奏

 

アルノルト・シェーンベルクが過渡期の作曲家であったとしたならば、私もまた過渡期の聴き手なのかも知れない。

私が好きな彼の作品は、メロドラマの<<月に憑かれたピエロ>>(Op. 21)や<<弦楽四重奏曲第2番>>(Op. 10)などの、この過渡期の作曲家の過渡期の時期にある作品である。



月に憑かれたピエロ(Op. 21)



弦楽四重奏曲第2番(Op. 10)

 

それらは、それ以後しばらくの作品のようには教条的ではなく、一曲一曲が、かけがえなく一風変わった感じであるからである。

彼の晩年の作品では、何と言っても、小倉朗が、現代音楽の数少ない傑作の一つ、と絶賛した<<ワルシャワの生き残り>>(OP. 46)であろう。



ワルシャワの生き残り(OP. 46)

その作曲技術に関しては小倉の記述(現代音楽を語る、岩波新書、167)などに譲るとして、ここでは、作曲家自身による、非情、残酷、残忍、悲惨な事件のテクストに拮抗する音楽は、感動などの心情的な興奮の彼方にあるべきであるにも拘らず、最後の男声合唱による<聴け、イスラエル>が響いた瞬間、言語を絶する衝撃を感じる、と私は記したい。

 

蛇足(コーダ):



 

過日、家内に、「君の記憶力は、いいとか、わるいとか、と言うのではなくて、要するに、無いんではないか」と、言ったところ、それを家内は、彼女の友人に話したそうである。

「ひどいことを言うわねぇ~」、というのがその人の反応だったそうである。
彼女たちは、あいみたがいであったのであろう。

このようにして、<<ワルシャワの生き残り>>の悪夢から醒めた私もまた俗物なのであろうか。
それとも、<日常>というものは、そうでしかないのか。




42-43ページ
『前奏曲集―あるアマチュアの覚書-作品 1の1』より

『前奏曲集』より




やっぱり、クラシックに関心がない人にとっても 文章は解かり易く 楽しく 面白く読めるように書く必要があるのですか?



あのさァ~、はっきり言ってオマエが書いた悪文を見ると、何が書いてあろうと まったく読む気が起こらないのだよ!  しかも、僕はもともとクラシックには、あまり興味がない!

それなのに、どういうわけでオイラを呼び出してクラシック鑑賞をするのですか?

オマエが書いた文章の中にも、時たま僕の興味をそそることが書いてあるからだよ!

たとえば。。。?

次の箇所を読むと、僕はオマエの鋭い見方に共感するのだよ!




しょせん<普通の人>たちの知的怠慢は、社会を腐らせ、ときの前衛を阻めて歴史を歪めている。

これは一過性では無い。

人類史の全般にわたって、これの繰り返しではなかったか。

それに較べるならば、強盗、強姦、いや殺人でさえも一過性である。

<普通の人>たちの知的怠慢こそ、戦争、侵略、植民地支配などを許し、起したのである。


(atombomb.jpg)




デンマンさんとオイラの考え方は、水と油だと思っていたのに、オイラの考え方に マジで共感してくれるのですか?



そうだよ! だから、僕も<普通の人>たちの知的怠慢を知ってもらおうと思って次の記事を書いたのだよ!


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『戦争絶対反対よね』



つまり、オイラが書いたクラシックの事については興味がないのですか?



あのさァ~、アルノルト・シェーンベルクが次のように言ったのだよ!


(Schoenberg.jpg)



 

If it is art, it is not for all,

and if it is for all, it is not art.

 

Arnold Schoenberg




この上の言葉を読んで僕は完全に納得する事ができたのだよ。。。



。。。と言うと。。。?

アルノルト・シェーンベルクの音楽が 芸術だと言うのなら、それはすべての人間が理解できるものではないのだよ!

つまり、デンマンさんにはアルノルト・シェーンベルクの音楽は理解できないのですか?

ちっともいい音楽だとは思えない! 僕には、理解できない! つうかあああァ~、僕には彼の音楽が好きになれないのだよ! 雑音に近い。。。 全曲聴く気になれないのだよ!

要するに、猫に小判なのですねぇ~。。。 確かに芸術とは、そういうものかもしれません。。。 すべての人間が理解できるものではないのでしょうねぇ~。。。 でも、理解できないのは、<普通の人>たちの知的怠慢だと思いますよ!

あのさァ~、何事もすべての人が理解できるという事はあり得ないという事なんだよ!

そうでしょうか?

オマエは、幸か不幸か? アルノルト・シェーンベルクの音楽が理解できる。。。 しかし、女心が理解できないのだよ!

あれっ。。。 どのような根拠の元に、そのようなエゲツナい事をデンマンさんは言うのですか?

だってぇ~、オマエは次のように言っているのだよ!


蛇足(コーダ):



 

過日、家内に、「君の記憶力は、いいとか、わるいとか、と言うのではなくて、要するに、無いんではないか」と、言ったところ、それを家内は、彼女の友人に話したそうである。

 


(angrygal.gif)

「ひどいことを言うわねぇ~」、というのがその人の反応だったそうである。

 

彼女たちは、あいみたがいであったのであろう。




オイラが家内に対して「君の記憶力は、いいとか、わるいとか、と言うのではなくて、要するに、無いんではないか」と、言ったは、オイラが女心を理解できないからだ、とデンマンさんは解釈したのですか?



その通りだよ! オマエはアルノルト・シェーンベルクの音楽が理解できても、女心は理解できない!

その証拠でもあるのですか?

オマエは自分でも 次のように書いてたじゃないかァ!




 

私は、この曲集を書き終えたとき、老人見習いから、正真正銘の老人になるのではないか、と思うこの頃である。
真の老人とは、もはや、失うべき何ものも無くなった人のことを言うのではないか。

長女は、私から去った。
次女は、中立を保つ為に、この家に寄りつかない。
家内と言えば、日本語も通じなくなってから何年にもなる。


私には、S.Kierkegaard の言った、一番易しく一番難しいこと、すべてを捨てること、が、案外、無理なくできるのではないか。
いや、その時には、捨てるべき何ものも見当たらなくなった境地であろう。

その意味では、老人になる前に、不慮の死で亡くなった人は気の毒である。
私は、若い時に、死ぬのはいいが風邪をひくのは嫌だ、などと言って、粋がって与太をほざいていた。
今も、願わくは、あまり苦しむことなく死を迎えられたなら、それにこしたことはない、と考えている。

Kierkegaard は、また、永遠とは有限が無限に出会う瞬間である、と言っていた。
私の人生に、かつて、そのような瞬間があったであろうか。
いや、それもまた、超越の命題であろう。

私の人生は、無明に迷ったそれに終わるのかもしれない。
しかし、私の背後には、母の祈りがあった。

ある麻薬中毒患者が、お母さん、僕は、こんな遠くまで来てしまった、と淋しげに呟いていたが、私は、麻薬中毒者ではないけれど、その気持ちが解かっている、と思う。
どのみち、人生は、rehearsal無しの、ぶっつけ本番なのである。

しかし、私は、F.M.Dostoevsky の「白痴」にある、あの「イッポリトの告白」に書かれているように、もし、生まれる前に、この条件を知らされていたとしたならば、私は、生まれるてくることを肯(がえ)んじなかったであろう、とは思っていない。
私は、感謝して死ねるように、今からでも、心の準備をしておこう。

 

S.D.G

コーダ(蛇足):

私の懐疑なるものが、深いのか、深くないのか、私自身も知る由もない。
仮に、深かったとしても、そもそも、懐疑の深さというものは、誇るべきものであるのか、という疑問が残る。




【デンマン注:】 改行を加え読み易くしました。あしからず。

S.Kierkegaard: キルケゴール (1813-1855) デンマークの哲学者

S.D.G.: Soli Deo Gloria (ラテン語) To God Alone the Glory(英語) 神に栄光あれ。

F.M.Dostoevsky: ドストエフスキー (1821-1881) ロシアの小説家・思想家




56-57ページ Michel-Richard de Lalande
『後奏曲集(後書きばかり)』 作品3
著者: 太田将宏
初版: 1994年1月 改定: 2006年9月

『馬鹿やって人気?』にも掲載
(2015年8月18日)




デンマンさん! んもおおおォ~! いったい何度引用すれば気が済むのですかあああァ~。。。



オマエが「証拠を見せろ!」と言ったから、くどいとは思ったけれど引用したのだよ!

オイラは、それほど女心が解らないのでしょうか?

オマエには、女心が理解できないから、奥さんと日本語も通じなくなってから何年にもなるのだよ!



(laugh16.gif)


【レンゲの独り言】


(manila07.gif)

ですってぇ~。。。

これまで、太田さんはデンマンさんに さんざ馬鹿にされたので

そのお返しをしています。

だから、太田さんは次のサイトで抗議録を公開したのです!


(kogiroku9.png)

『実際の抗議録』

デンマン注:しかし太田将宏が上の抗議録を掲載したサイトは消滅してしまいました!

 

デンマンさんも上の抗議録を読んで ムキになって反論しています。

『嘘を書く日記』

 

太田さんはこれに対しては反論ができないのか、それ以降 無言で通しています。

でも、そのうち忘れた頃にまたコメントを書き込むかもしれません。。。

あなたは、どう思いますか?

とにかく、ネットには “めちゃキモい”人たちがウヨウヨしています。

太田将宏さんは、まだ良い方ですわ。

中には、まるで得意になって、愚かな事をして遊んでいる オツムの足りない人たちがたくさん居ます。

また、見かけは普通のブログでも、悪徳スパマーが手を変え品を変えて 悪徳サイトへ誘い込もうとしています。

スパムコメントで褒められると、ついついその気になって、

相手のブログへ飛んでゆき、お返しに、あるいはお礼にと思って

読者に登録してしまったりするものですわァ。

どうか スパマーの思う壺にはまらないでくださいね。

悪徳スパマーは悪徳サイトへ誘おうと

てぐすね引いて待っているのですから。。。

悪徳サイトを利用して、

メールアドレスで登録したりすると、

あなたのメールアドレスは第3者や第4者に売られてしまう危険性があります。

あなたは、そのようなスパム・コメントや 成りすましスパマーには

騙されないと思い込んでいるでしょう?

でもねぇ~、もしかすると騙されているかもよ。。。

とにかく気をつけてくださいね。

次回も、さらに面白い話題が続きます。

あなたも、どうか、また記事を読みに戻ってきてください。

では。。。


(hand.gif)


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