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「田舎教師」と行田


  
「田舎教師」と行田


11月の桜



11月に桜が咲いている!
ビックリしました。
間違いなく桜の一種です。
小百合さんもビックリしていました。
名前は分かりません。



バンクーバーやバーナビーの植物園のように名札をつけてくれればいいのに!
小百合さんは、そう言っていましたね。
ごもっともです。

旧秋元別邸(最後の館林藩主・秋元家の別邸)の菖蒲園(しょうぶえん)のすぐそばにある橋の近くに
白鳥が3羽居ました。
泳ぎ疲れたのか3羽とも岸辺に上がって草原(くさはら)の上で羽を繕(つくろ)って
これから昼寝するところでした。
小百合さんは近寄るのが怖いと言うのですよう。

40代の女性の怖さを持っている小百合さんにも
こういう童女のような繊細さがあるのですよね。
小百合さんの“かわゆい”ところです。

僕は50センチまで近寄りましたが
その白鳥たちも、人に慣れているようで
全くビクビクしませんでした。

旧秋元別邸の近くに田山花袋が9歳から14歳まで住んでいたという旧居が保存されていました。



田山花袋の『田舎教師』を読んだ事がありますが、
僕の記憶では、主人公は羽生の田舎にあるお寺に下宿して僕の母校・熊谷高校(当時の旧制熊谷中学)に毎日、朝4時から5時ごろに起きて4時間歩いて通っていた、というような事を読んだことがあります。
初めて読んだ時、信じがたい事をしていたものだと驚きました。
僕が通ってた頃、校長室の前の廊下にガラス張りのケースがあって、
その中に旧熊谷中学校第三回卒業生の写真の中に、
田山花袋(訂正: 小林秀三)の少年時代の姿を見たことがあります。

小百合さんが卒業した館林女子高校は田山花袋の旧居から歩いて5分のところにありました。
女子高時代、校門の近くの食べ物屋さんで
ラーメンだか、うどんだか、あるいはカップヌードルだったか。。。
それを買って戻って来る時に校門のすぐ前で、それをぶちまけてしまい、
後片付けをしなければと思ったけれど、
結局、何もしないでそのままにして教室に戻ってしまった。
そんな事をいつだったか小百合さんが書いていました。

12月にバンクーバーに戻るまでに
小百合さんの面白いエピソードが、もっともっと聞けるような気がするのです。
楽しみにしていま~♪~す。

では、小百合さんに捧げる短歌を。。。





館林

季節外れの

桜咲き

かわゆいきみに

胸ときめかせ






『愛しい人 (2008年11月14日)』より




デンマンさん。。。、今日は小百合さんがビキニではござ~♪~ませんわね!?



あのねぇ、小百合さんのビキニ姿を僕はもう一度出そうと思ったのだけれど、卑弥子さんが小百合さんに対抗意識をムラムラと燃やして裸になるから、僕は思いとどまったのですよう。

あたくしが裸になっては、いけないのでござ~♪~ますか?

ダメですよう。

どうして。。。?

あのねぇ~、卑弥子さんのビキニ姿は見ごたえがありすぎるのですよう。もう一度卑弥子さんのビキニ姿をだしたら、成りすまし馬鹿が絶対に嫌がらせのコメントを書くのですよう。

なぜ、そのような事をおっしゃるのでござ~♪~ますか? 

めれんげさんの『即興の詩』サイトで成りすまし馬鹿が次のようなコメントを書いたのを僕は良~く覚えているからですよう。




こんにちは!久しぶりです!
めれんげさんの写真見たけど結構際どいのあって興奮しました!



早く新しいの投稿して下さいね!
楽しみに待ってますよー!!

by 煎餅 (別名: 成りすまし馬鹿)

2009/06/01 1:52 PM




『即興の詩 新たな気持ちで♪』のコメント欄より

『絶望的な愚か者 (2009年7月7日)』に掲載


最近、僕は『即興の詩』サイトに長いコメントを書いていないのですよう。

なぜでござ~♪~ますか?

めれんげさんがヒステリーを起こして「コメント書いちゃイヤ!」と喚(わめ)いたので、僕は書くのを控(ひか)えているのですよう。

つまり、成りすまし馬鹿さんは『即興の詩』サイトでやる事が無いものだからデンマンさんのブログを見守っているのでござ~♪~ますか?

そうなのですよう。。。だから、ここで卑弥子さんが際(きわ)どいビキニ姿を見せたら、成りすまし馬鹿が狂喜して上のようなコメント書くのですよう。

いいではござ~♪~ませんかア!?。。。そうなったら賑(にぎ)やかになって楽しゅうござ~♪~ますわ。うふふふふ。。。

僕はヤダよう!

どうしてでござ~♪~ますか?

卑弥子さん!。。。いい加減にしてください!。。。成りすまし馬鹿を取り上げている場合じゃないのですよう。。。記事が長くなるから本題に入らなければならないのですよう。

分かりましたわ。。。んで、今日は「田舎教師」の何についてお話になるのでござ~♪~ますか?

あのねぇ~。。。思い違いについてですよう。

あらっ。。。デンマンさんは思い違いをなさっていたのでござ~♪~ますか?

そうなのですよう。。。まだ誰も僕の思い違いを指摘したコメントを書いていないけれど、多くの人が“デンマンは、ずいぶんと思い違いをして記事を書きまくっているなあああァ~!”と呆れ返っている人が居ると思うのですよう。

あたくしは、全く気づきませんでしたわ。。。いったい、何を思い違いしていたのでござ~♪~ますか?

僕は「田舎教師」のモデルの小林秀三さんが行田に住んでいたことをすっかり忘れていたのですよう。

あらっ。。。小林秀三さんはデンマンさんと同郷でしたの?

実は、秀三さんの生まれは栃木県の足利(あしかが)なのですよう。



裕福な呉服屋に生まれたのだけれど、お人よしの父親が骨董に手を出して失敗し、没落してしまった。

それでどうしたのでござ~♪~ますか?

明治26年、秀三さんが 7才の時に熊谷に引っ越したのです。何事も裏目に出ると、しばらくはうまく行かないもので、明治33年、14才(中学2年)の時に家族は熊谷から夜逃げして行田に移ったのです。

なぜ。。。?

借金取りに攻められたからですよう。

。。。んで、それからどうしたのでござ~♪~ますか?

以後3年間、秀三さんは行田から熊谷中学に歩いて通ったのです。

デンマンさんは羽生から熊谷まで歩いて通ったと思い込んでいたのですか?

そうなのですよう。小説では主人公・林清三が旧制熊谷中学を卒業後、明治34年に羽生の小学校の代用教員として採用されてから、明治37年に結核に冒(おか)され、死ぬまでの約3年半の生活を描いているのですよう。だから、僕は主人公が羽生のお寺に下宿しながら熊谷中学にも羽生から歩いて通っていたと思い込んでいたのですよう。

。。。んで、記事を書くので「田舎教師」を調べて、その事が分かったのでござ~♪~ますか?

そうなのですよう。。。確かに、行田に僕が住んでいた頃は、「田舎教師」の事が良く話題にのぼったものです。僕は「坊っちゃん」のモデル(弘中先生)が熊谷中学で19年間も教えていたという事をすっかり忘れていた。

でも、「田舎教師」のモデルの小林秀三さんの事は熊谷高校に在校当時からデンマンさんはずっと覚えていたのでござ~♪~ますか?

そうなのですよう。。。行田に住んでいる頃に「田舎教師」の話を耳にする機会がしばしばあったのですよう。だから、忘れることがなかったのです。

それで、小林秀三さんは行田のどの辺に住んでいたのでござ~♪~ますか?

小説の中では次のように語られているのですよう。

「家は行田町の大通から、昔の城址の方に行く処にあった。

角に柳の湯という湯屋があって、

それと対して綺麗な女中のいる料理屋の入口が見える」


あのねぇ~、僕は何も知らずに、秀三さんが歩いた道を通って小学校へ通っていたのですよう。

マジで。。。?

僕は大真面目ですよう。“行田町の大通”というのは現在の「本町通り」のことですよう。





上の地図で見ると行田市の中心を東西に走っている茶色に塗られた道路が国道125号です。千葉県香取市から埼玉県熊谷市へ至る一般国道なのですよう。全長が129キロで、1963(昭和38)年に制定された国道です。

大長寺の近くにあったデンマンさんの家から125号線を歩いて中央小学校まで通っていたのでござ~♪~ますか?

そうなのですよう。子供の足で30分ほどかかりました。現在は行田市役所が建っている所に、僕が子供の頃には中央小学校の古い木造の2階建ての校舎が建っていた。玄関のそばには二宮金次郎の銅像がありましたよう。

マジで。。。?

マキを背中に背負って本を読みながら歩いている子供姿です。いつ取り壊されたのか記憶にないけれど。。。、

どうして取り壊されたのでござ~♪~ますか?

あのねぇ~、本を読みながら国道125号線を歩いたら交通事故にあうのですよう。それで、危(あぶ)ないし、教育上好ましくないというので取り壊してしまったのだと思うのですよう。うしししし。。。

。。。んで、「昔の城址」とは忍城跡のことでござ~♪~ますか?

そうです。



僕が小学生の頃は、この城が建っている所は行田市本丸球場だった。球場と言ってもグランドがあるだけで、観覧席などは何もなかった。

いつ上のお城が建ったのですか?

1988(昭和63年)年の2月にグランドを移転して、その跡に行田市郷土博物館が開館した。上の御三階櫓は、その時、博物館の一部として復元されたのですよう。ただし、外観や構造は実際にあった建物とは関係ないのです。位置も史実とは異なり、内部は展望室や行田の歴史を写真や資料で紹介する展示室になっています。

お城は太平洋戦争の空襲で焼けてしまったのですか?

いや。。。違うのですよう。明治維新の後、廃藩置県で忍県ができた。埼玉県ができる前です。その時の県庁が二の丸に置かれたのですよう。お城はその時にはあった。

。。。んで、その後どうなったのでござ~♪~ますか?

忍県が埼玉県に吸収合併された時に明治政府の命令で完全に破壊しつくされたのですよう。

なぜ。。。?

あのねぇ~。。。忍城は“忍の浮き城”として難攻不落の城だった。関東七名城の一つですよう。1590(天正18)年の豊臣秀吉の小田原征伐の時、忍城を攻めたのは、あの有名な石田三成。城主の成田氏長は小田原城に出向いて忍城を留守にした。でも、家臣と農民ら三千の兵が忍城に立てこもった。総大将の石田三成は、僕が子供の頃よく遊んだ丸墓山(埼玉古墳群の一つで、日本最大の円墳)に本陣を置き、近くを流れる利根川を利用して水攻めを実行した。長さ28kmにも及ぶ“石田堤”を築いて、水を流し込んだ。でも、忍城はついに落城しなかった。

それで。。。?

後北条氏の拠点である小田原城が先に落城したので、話し合いの末、開城することになった。その後、徳川家康が忍城を手に入れたのですよう。

つまり、明治政府が壊さなければ、忍城は現在まで無傷で建っていたのでござ~♪~ますか?

そうですよう。

それなのに、どうして明治政府は壊してしまったのですか?

明治政府は、まだ日本全国を統治する自信がなかった。もし、明治政府に反抗する者たちが忍城に立てこもって反乱を起こしたらどうなるか?

明治政府は小田原征伐の時の石田三成の失敗を思い起こしたのでござ~♪~ますか?

そうですよう。事実、埼玉県では明治政府に対して大掛(おおが)かりな反乱事件が起きた。


秩父事件

1884年(明治17年)10月31日から11月9日にかけて、埼玉県秩父郡の農民が政府に対して起こした武装蜂起事件。
自由民権運動の影響下に発生した、いわゆる「激化事件」の代表例ともされてきた。

事件の背景

当時、明治政府は政府主導による憲法制定・国会開設を着々と準備する一方で、民権運動に対する弾圧政策を強化していた。
民権派の一部にはそれに対抗する形で“「真に善美なる国会」を開設するには、圧制政府を実力で転覆することもやむなし”という考えから急進化する者も出始め、各地で対立が起きていた。

1881年(明治14年)の秋田事件、1882年(明治15年)の福島事件、1883年(明治16年)の高田事件といったいわゆる「激化事件」は、明治政府が急進的民権家の政府転覆論を口実にして、地域の民権家や民権運動に対する弾圧を行ったものとされる。
彼ら急進派の政府転覆計画は結局は具現化をみるには至らなかったが、その後発生した1884年(明治17年)6月の群馬事件は、群馬県の下部自由党員が、妙義山麓に困窮に苦しむ農民を結集し、圧制打倒の兵をあげようとしたものであり、さらに同年9月に発生した加波山事件は、茨城県の加波山に爆裂弾で武装した16人の急進的な民権運動家が挙兵し、警官隊と衝突するというものであった。

とくに加波山事件は、「完全なる立憲政体を造出」するため「自由の公敵たる専制政府」を打倒すると公言した武装蜂起で、政府に大きな衝撃を与えた。
規模はきわめて小規模で、当面の目標も栃木県庁落成式に出席する政府高官への襲撃程度のものであったが、自由党急進派は、前年の1883年(明治16年)後半以降、圧制打倒をめざして頻繁な交流を図り、同志的結合を強めていく傾向にあった。

概要

秩父地方では、自由民権思想に接していた自由党員らが中心となり、増税や借金苦に喘ぐ農民とともに「困民党(秩父困民党。秩父借金党・負債党とも)」を組織し、1884年(明治17年)8月には2度の山林集会を開催していた。
そこでの決議をもとに、請願活動や高利貸との交渉を行うも不調に終わり、租税の軽減・義務教育の延期・借金の据え置き等を政府に訴えるための蜂起が提案され、大宮郷(埼玉県秩父市)で代々名主を務める家の出身である田代栄助が総理(代表)として推挙された。
蜂起の目的は、暴力行為を行わず、高利貸や役所の帳簿を滅失し、租税の軽減等につき政府に請願することであった。

自由党解党2日後の10月31日、下吉田(旧吉田町)の椋神社において決起集会が行われ、蜂起の目的のほか、役割表や軍律が制定され、蜂起が開始された。
早くも翌11月1日には秩父郡内を制圧して、高利貸や役所等の書類を破棄した。
なお一部には、指導部の意に反して暴力行為や焼き討ち等を行った者もいた。

しかし、当時既に開設されていた電信によりいち早く彼らの蜂起とその規模を知った政府は、一部汽車をも利用して警察隊・憲兵隊等を送り込むが苦戦し、最終的には東京鎮台の鎮台兵を送り郡境を抑えたため、11月4日に秩父困民党指導部は事実上崩壊、鎮圧された。
一部の急進派は長野県北相木村出身の菊池貫平を筆頭とし、さらに農民を駆り出して十石峠経由で信州方面に進出したが、その一隊も11月9日には佐久郡東馬流(現小海町)で鎮台兵の攻撃を受け壊滅した。
その後、おもだった指導者・参加者は各地で次々と捕縛された。

事件後、約14000名が処罰され、首謀者とされた田代栄助・加藤織平・新井周三郎・高岸善吉・坂本宗作・菊池貫平・井上伝蔵の7名には死刑判決が下された。
ただし、井上・菊池は欠席裁判での判決。井上は北海道に逃走し、1918年にそこで死去した。菊池はのち甲府で逮捕されたが、終身刑に減刑され、1905年出獄し、1914年に死去。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


明治17年には、すでに忍城は取り壊されていたけれど、もし、忍城がその時にあったとすれば、不満分子が忍城に立てこもって政府に対して徹底抗戦するでしょう。僕が不満分子なら、間違いなくそうしますよう。

つまり、明治政府はそのような事を予測して忍城を壊してしまったのでござ~♪~ますか?

確証はないけれど、まず間違いなく反乱分子の根城にされないために先手を打って壊したのだと僕は信じていますよう。僕が伊藤博文ならばそういう命令を出しますよう。

分かりましたわ。。。ところで、「柳の湯」というお風呂屋さんは今でもあるのでござ~♪~ますか?

あのねぇ、驚いたことに現在でも建物は建っているのですよう。



この写真の建物が現在の「柳の湯」でござ~♪~ますか?

そうです。

今でも営業しているのですか?

去年の11月に帰省した時には休業していましたよう。たぶんお客さんが少なくなってしまったので止めにしたのだと思うのですよう。

デンマンさんも「柳の湯」に入浴したことがありますのォ~?

あるのですよう。うしししし。。。僕が小学校2年生まで、僕の家には内風呂がなかったので近所の子供たちと大長寺の近くにある「中将湯(ちゅうじょうとう)」に週に2度ぐらい通ったものですよう。50円ぐらいだったと思うのですよう。毎回同じところではつまらないので、時たま「柳の湯」にも入りに行ったのですよう。

「綺麗な女中のいる料理屋」さんは、今でもあるのでござ~♪~ますか?

いや。。。今では『バーミヤン 行田店』になってしまって、昔の面影は全くありません。その料理屋は「魚七」という名で、行田では3本の指に入るぐらいの老舗(しにせ)の料理屋でした。僕が小学生の頃はやっていましたよう。

きれいな女中さんも居たのでござ~♪~ますか?

残念ながら僕は一度も「魚七」で食べたことがないのですよう。でもねぇ、その家の娘に、ちょっとエキゾチックな女の子が居ましたよう。



あらっ。。。この上の写真は、もしかしてギリシャ人のポップ歌手で、ナナ・ムスクーリ (Nana Mouskouri)ではござ~♪~ませんか?

卑弥子さんは、そのような、どうでもいい事はしっかりと覚えているのですねぇ~?

どうでもよくはないでしょう!あたくしはデンマンさんのお手伝いをしているので、こうして余計な事を申し上げているのでござ~♪~ますわ。


ナナ・ムスクーリ

世界的に有名なギリシャ人の歌手。
政治家としても活動している。本名はロアンナ・ムスクーリ。
1934年10月13日、クレタ島に生まれた。
子供時代は『ナナ』というあだ名で知られていた。

全世界で300万枚以上のレコード、450枚のアルバムを発売し、15カ国の言語(ギリシア語、フランス語、英語、スペイン語、イタリア語、ドイツ語、ラテン語、ポルトガル語、日本語など)で約1500曲の歌を発表した。
世界で最も、レコードの売り上げが多い歌手の一人であり、その売り上げ枚数は、2億3000枚以上ともいわれる。

クラシックの素養に裏打ちされた歌唱力もあって、持ち歌のレパートリーは大変広く、ジャズからポップス、クラシック、ギリシャ音楽からラテン、各国の民謡・童謡まで、オールラウンドにこなす。
ヒット曲は「愛」をテーマにしたものが多く、憂鬱、切望、および感傷的な黙想を愛の歌によって、かもし出しているといわれている。
1960年代からレコードをリリースし続けており、その市場はヨーロッパ、南北アメリカ、韓国を中心としたアジア、オーストラリア、ニュージーランドなど世界中に広がっている。
中東でもコンサートが企画されたことがある。

その一方で、EU議会では過去にギリシャ代表として政治活動も行い、また現在もユニセフの親善大使を務めており、各地で平和を訴えるコンサートを行っている。

日本での活動

1974年に初来日し、中野サンプラザ等で公演を行った。
7月22日・23日に行われたコンサートのチケットは3週間前には完売し、当日は両袖に立ち見客も出るほど大盛況だったという。

同年8月4日の20:45 - 21:30に放送されたNHK総合テレビの『ビッグショー』に、外国人としてはミルバに次ぐ、2人目のビッグアーティストとして、ジ・アテニアンズとのワンマンショーが放送された。
この模様は、日本制作のLP『ナナ・ムスクーリ ビッグショー』に収録されている。
なお、この『ビッグショー』の収録は、7月12日にNHK放送センターのCT・101スタジオで、記者会見は7月23日午後1時から六本木のTSK・CCCターミナルビルで行われたという。

このころ、「赤とんぼ」「シェルブールの雨傘」「イルエストパッセ、消えうせた夢(想い出の旅立ち)」の3曲を、日本語でレコーディングしている。
これら以外にも1970年代から1980年代にかけて、日本でもフィリップス・フォンタナレーベルから、独自の編集のLPアルバムやシングルレコードが、数多くリリースされている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


。。。んで、「魚七」の娘さんはマジでナナさんに似ていたのでござ~♪~ますか?

その辺で見かけるミーちゃんハーちゃんとは、かなり違った印象を与えていたので僕ははっきりと記憶しているのですよう。

ギリシャ人と日本人のハーフでござ~♪~ますか?

いや。。。僕の知る限り、彼女は生粋(きっすい)の日本人でしたよう。

つまり、デンマンさんがナンパしようとしていたのですわね?うふふふふ。。。

やだなあああぁ~。。。、卑弥子さんは、僕がちょっと魅力的な女性を見れば、すぐにナンパするとでも思い込んでいるようですね?

違うのでござ~~♪ますか?

違いますよう。彼女は僕より学年で2年上で、僕は彼女が中央小学校に居る時と行田中学に居る時しか知らないのですよう。

恵美子さんのようにピアノを弾いたのでござ~♪~ますか?

いや、彼女の事は「魚七」の娘だということ以外は、僕は何も知らない。実は言葉を交わしたこともない。ただ、小学生の頃からメガネをかけていて、その表情が日本人離れしていたのですよう。子供の頃から海外志向の強かった僕にはメガネをかけた彼女のエキゾチックな表情が強烈な印象となって記憶に残っていたのですよう。

。。。んで、ナナ・ムスクーリさんがテレビに出たときに、「魚七」の娘さんが歌手になったとデンマンさんは思ったのでござ~♪~ますか?

そうなのですよう。本当にビックリしましたよう。

でも、結局、他人の空似(そらに)でござ~♪~ましたわねぇ~?

でもねぇ~、もしかすると、小林秀三さんが生きていた頃の「綺麗な女中」さんの血が僕の知っている 「魚七」の娘さんにも流れているかもしれないと思ったのですよう。

そのような事があるかしら。。。?

可能性はありますよう。。。その綺麗な女中さんを「魚七」の若旦那が見初(みそ)めて結婚したかもしれないじゃありませんか。。。そういう事って良くある事ですよう。。。だから、女中さんがどのような綺麗な人だったなのか?。。。この記事を読む人の参考になること間違いありませんよう。

そのために、こうして長々とナナ・ムスクーリさんの事をお話になったのでござ~♪~ますか?

うへへへへ。。。そうなのですよう。。。。決して無駄ではないと思ってねぇ。。。



田舎教師の主人公・林清三

(実在のモデルは小林秀三)の銅像




。。。んで、小林秀三さんが住んでいた家が行田市に今でも残っているのでござ~♪~ますか?



調べたけれど、秀三さんが住んでいた家は保存されてないようです。でも、その家からあまり離れていない所に「田山花袋文学碑」が建ってますよう。



その文学碑は、どこにあるのでござ~♪~ますか?





上の地図で見ると、ゼリーフライの店から公園の道を東に進んで橋の手前の左手にあるのですよう。
 
石碑には何て書いてあるのでござ~♪~ますか?

「絶望と悲哀と寂寞とに堪え得られるような

まことなる生活を送れ。

運命に従うものを勇者といふ」


こういう文句が刻まれてあるのですよう。

小説の中の有名な文句なのですか?

あのねぇ~、主人公・林清三が教師になって3年目、つまり、明治36(1903)年の春、群馬県の渡良瀬川を渡った中田遊郭で馴染(なじ)みになった相手が身請けされて、清三はガックリしてしまう。

落ち込んでしまうのでござ~♪~ますか?

でも、その年の9月に、清三は最後の希望を実現するために上野の音楽学校(東京芸術大学の前身)を受験するのですよう。

結果は。。。?

ダメでした。夢破れた清三は冷たい現実に立ち向かわねばならない事を悟る。それで、その年の11月15日にほぼ1年振りに日記を再開するのです。その出だしに書いたのが「絶望と悲哀と寂寞とに堪え得られるようなまことなる生活を送れ。...(中略)...運命に従うものを勇者という」なのですよう。

行田での小林秀三さんの生活は、どうだったのでござ~♪~ますか?

お人好しのお父さんは何をやってもダメで、当時は書画などを扱って食い扶持(ぶち)を稼(かせ)いでいたらしい。でも、それでも十分な稼ぎにならずにお母さんが内職していたようです。家計は苦しく、そう言う訳で熊谷中学を卒業した秀三さんは代用教員になったのですよう。

行田での生活ではあまり楽しい事はなかったのでござ~♪~ますか?

悲しい思い出がほとんどです。秀三さんは行田で弟を亡くしています。小説では次のように書かれています。


弟は一昨年の春十五歳で死んだ。その病は長かった。次第に痩せ衰えて顔は日に日に青白くなった。医師は診断書に肺結核と書いたが、父母はそんな病気が家の血統にある訳がないと言って、その医師の診断書を信じなかった。


15才で亡くなってしまうなんて本当に可哀想ですわね。。。

当時、15才ぐらいで亡くなるのは珍しくなかった。僕の親父が子供の頃は貧乏で熊谷中学に行きたくても、お金が無いから行けない。

それで、どうしたのでござ~♪~ますか?

中央小学校の前身、忍尋常高等小学校を卒業した後、小学校で給仕をしながら独学で教員検定試験を受けて小学校の先生になったのですよう。

。。。んで、何があったのでござ~♪~ますか?

当時、大正13年生まれの妹を肺結核で亡くしていますよう。享年(きょうねん)15才でした。結核は不治の病と考えられていたし、貧乏な家の子供は小さい時から働いていたからね。体の弱い子は結核をわずらうとバタバタ死んでいったそうですよう。

亡くなった秀三さんの弟さんも、元気な頃は水城公園で遊んだのでござ~♪~ましょうか?







明治の頃は、今のように綺麗な公園にはなっていなかったのですよう。現在の公園は忍城の外堀部分を中国の江南地方の水郷式庭園を真似して 1964(昭和39年)年に造ったのです。

それまでは、どのようになっていたのですか?

忍沼(おしぬま)と呼ばれた沼地でした。僕が小学校に上がる頃までは、町のあちこちに堀やら沼がたくさんあって、水城公園の辺りは、葦(あし)が生い茂った水郷地帯という感じでしたよう。公園のような遊べる場所ではなかった。

デンマンさんは水城公園で遊んだ事はないのでござ~♪~ますか?

中央小学校は水城公園から近かったけれど、僕が小学生の頃は水城公園はまだ完成してなかった。だから、遊べるような場所はなかった。でも、当時の忍沼には思い出がありますよう。

どんな。。。?

去年、記事に書いた事があります。同じ事を話すのは面倒だから読んでみてください。


忍沼のプランクトンの研究





その当時の小学校の僕の担任の先生が志保田先生だった。この先生は理科クラブの部長だった。それで、僕も理科クラブに入っていた。



何を研究したのですか?

今でもあるけれど行田市の水城公園に忍沼があるのですよう。



この忍城は1988年(昭和63年)に本丸跡に再建されたものですよう。僕が小学生の頃は、この城が建っている場所はグラウンドになっていて少年野球の会場になっていた。忍沼は、昔は城を巡る外堀だったところです。そこへ毎朝、先生が職員会議をしている自習時間に、同じクラブのメンバーの二人と3人でプランクトンを取りに行ったものですよう。

それで、そのプランクトンをどうするのですか?

放課後、理科実験室で顕微鏡で覗いてプランクトンが泳いでいる様子を写生するのですよう。そうやって研究した訳ですよう。

何か賞でももらったのですか?

もらいましたよう。当時、オリンパスが理科の全国コンクールをやっていたのですよう。

オリンパスってあのカメラのオリンパスですか?

そうですよう。オリンパスは顕微鏡も作っていたのですよう。多分、その関係で理科のコンクールを開いていたのでしょうね。

それで、入選したのですか?

そうですよう。3人(山田君、松本君、それに僕)で取り組んだ「忍沼のプランクトンの研究」が優秀賞に選ばれて、カメラ3台と顕微鏡3台をもらったものですよう。

一人それぞれ1台づつもらったのですか?

カメラと顕微鏡は学校に寄付ですよう。その代わり、当時の田高校長先生から水銀の寒暖計をもらいましたよう。

それで、その事と工学部と関係があるのですか?

志保田先生の話で電子頭脳というのが面白かった。僕が小学校5年生の頃は電子計算機と言わずに電子頭脳と呼ぶ人の方が多かった。とにかく、その電子頭脳が東京の丸ビルぐらい大きい、と志保田先生が言ったのですよう。

それで、デンマンさんは電子計算機の道へ進んだ訳ですか?

そうなのですよう。




『光さす庭 (2008年6月20日)』より


デンマンさんは小学生の頃からいろいろとやっていたのでござ~♪~ますわねぇ~。。。器楽部ではコントラバスを弾いて「ハンガリア舞曲第5番」と「美しき青きドナウ」を演奏したり。。。



ハンガリーの首都・ブダペストを流れる

美しく青きドナウ川


『暑中お見舞い(2009年8月9日)』

「ハンガリア舞曲第5番」と「美しき青きドナウ」のこと…

僕はたまたま、そういう機会に恵まれたのですよう。

“縁は異なもの味なもの”

急にまた上の格言を持ち出してきてデンマンさんは何をおっしゃろうとするのでござ~♪~ますか?

だから、卑弥子さんが言ったように人と人との縁は、どこでどう結ばれるか分からないので、不思議で面白いものですよう。

デンマンさんにも、そのような不思議で面白い出会いがあったのでござ~♪~ますか?

もちろんですよう。思えば僕のこれまでの人生には素晴らしい人との出会いがあったと思うのですよう。。。そのおかげで僕はいろいろな経験や勉強をする事ができた。。。五月女先生との出会いが無ければ一生クラシックと無縁だったかもしれない。。。また、志保田先生との出会いがなければ、僕はコンピュータに興味を持つ事がなかったかもしれないのですよう。。。もし、そうだとするなら、僕は現在こうしてバンクーバーに居なかったかもしれないのですよう。

どうしてでござ~♪~ますか?

だってねぇ、僕はコンピューターの技術者としてカナダの移住ビザを手に入れたのですよう。だから、こうして20年以上もカナダで暮らす事ができた。志保田先生の話を聞いてコンピューターに興味を持ち、情報工学の道に進もうと決めたのですよう。

つまり、志保田先生との出会いがなかったら、デンマンさんはカナダにやって来る事もなかったとおっしゃるのでござ~♪~ますか?

そうですよう。。。オーストラリアかニュージーランド、シンガポールで暮らしていたかもしれない。。。。そうだとしたら小百合さんとの出会いもなかったのですよう。

でも、あたくしとは出会っていましたよね?

ん。。。?卑弥子さんとォ~。。。? いや。。。、卑弥子さんとも僕は出会っていなかったかもしれないのですよう。

どうしてでござ~♪~ますか?

コンピューターに興味がなかったら、僕はパソコンをいじらなかっただろうし。。。ネットにも関心を示さなかったかもしれない。。。おそらく、植村さんのような冒険野郎になって海外を飛び歩き、今頃は北極の氷河のクレパスに落ちてカチカチに凍り付いて200年後に発見されて、最新医学で生き返る事になっているのかもしれないのですよう。うしししし。。。

まさかぁ~。。。

あのねぇ~、同じ事は小林秀三さんにも言えるのですよう。

どう言う事ですかぁ~?

中学時代の文学仲間・石島薇山(小説では石川機山)さんが『行田文学』という同人誌を発行する事になり、秀三さんは新体詩や小説で知られていた羽生の建福寺(小説では成願寺【じょうがんじ】)の住職・太田玉茗【ぎょくめい】(小説では山形古城)を訪ねたのです。

どのような用件で。。。?

同人誌の名誉会員になってもらおうとしたのですよう。これが秀三さんとお寺の住職の最初の出会いになった。

住職の太田玉茗さんは文学をやっていた事があるのでござ~♪~ますか?

あるのですよう。住職になる前には東京専門学校(早稲田大学の前身)で文学を学んで明治27年に卒業したのです。同期には島村抱月(ほうげつ)が居ました。そして卒業後2年間は三重県の中学校で英語を教えた。それから先生を辞めて上京してからは新体詩や小説や翻訳で活躍したのです。明治30(1897)年には田山花袋、国木田独歩、柳田国男らと共に詩集『抒情詩』を出したりした。明治32(1899)年5月に建福寺の住職を継ぎ27歳で羽生の田舎で暮らすようになったのですよう。

つまり、同人誌の名誉会員になってもらおうと秀三さんが訪ねていったのが、お寺で間借りをするきっかけになったのでござ~♪~ますか?

そうなのですよう。秀三さんは明治34(1901)年6月1日から成願寺に下宿した。

田山花袋先生とは、どのようなきっかけで出会ったのでござ~♪~ますか?

田山花袋先生とこの住職は同(おな)い年の親友なのですよう。詩集を一緒に出したりしていた。実は田山花袋先生の妹の「りさ」さんは住職に嫁いだ。つまり二人は義理の兄弟でもあったのですよう。小説の中では花袋先生は自分のことを次のように書いている。

「白い羅紗の背広にイタリヤンストロウの

夏帽子を被った太った男」


この男が小説の中では原杏花(きょうか)という作家で、田山花袋自身がモデルになっている。この作家が東京から雑誌記者を連れてお寺にやって来た。この時初めて花袋先生は小林秀三さんに出会ったのですよう。

。。。んで、どう言う訳で花袋先生は作品を書くようになったのでござ~♪~ますか?

花袋先生は明治37(1904)年3月から日露戦争の私設写真班の一員として博文館から派遣されて従軍したのです。ところが、体を壊して9月に帰国。たまたま建福寺に玉茗を訪ねた時に、墓地で「小林秀三之墓」という墓標を目にしたのです。

それが「田舎教師」を書くきっかけになったのでござ~♪~ますか?

それが直接のきっかけになった。でもねぇ、僕は思うのだけれど、田山花袋と住職の太田玉茗、それに小林秀三さんの3人は新体詩を通してインスピレーションで文学的に繋(つな)がっていたようです。実際、秀三さんは次のような詩も書いていた。

鄙(ひな)はさびしきこの里に

さきて出でにし白梅や

一枝いだきて唯一人

低くしらぶる春の歌




物語の中で主人公は「都を知らぬ鄙少女」というタイトルを書いて美穂子に送ろうと思った。つまり、主人公は恋にも悩みながら、心のどこかで詩人になろうとも思っていた。

それで。。。?

だから、秀三さんの墓を見ながら花袋先生は、「志を抱き乍(なが)ら空しく田舎に埋もれて行く青年の一生」を書いてみようと思い立ったのですよう。幸いに秀三さんの日記が中学生時代と小学校教師時代と死ぬ年の1年分とが住職の手許にあった。それを基にして旧友たちに取材し、5年の歳月をかけて小説を書き上げたのです。

その小説を通して小林秀三さんの人生を、あたくしたちは知るようになったのでござ~♪~ますわねぇ?

そうですよう。「田舎教師」の初版は明治42(1909)年10月25日に佐久良書房から出版された。現在までに100版以上を重ねています。卑弥子さんも読んだでしょう?

あたくしは源氏物語の研究に忙しくて、まだ読んでいないのでござ~♪~ますわ。おほほほほォ~。。。。

古典文学研究者の教養として読んでくださいよう。

分かりましたわ。近いうちに読みますわ。。。んで、デンマンさんと小百合さんは15年ほど前に出会って、いったいどのようなインスピレーションで繋(つな)がっているのでござ~♪~ますか?



バーナビーの鹿の湖 (Deer Lake)





小百合さんが13年間、夏休みを過ごした

バーナビーの“山の家(湖畔の家)”


だから、自由と進取(しんしゅ)の気風でお互いに理解し合っているのですよう。

もう少し分かり易いように説明してくださいな。

だから、堅苦しい人間関係に束縛されずに世界に羽ばたくような自由な気持ちで、お互いに理解し合っているという事ですよう。

その証拠でもあるのでござ~♪~ますか?

ん。。。?証拠。。。? あのねぇ、僕と小百合さんは、日本から太平洋を越えて何千キロも離れたカナダのバーナビーで初めて出会ったのですよう。つまり。。。、つまり、国際人なのですよう。うしししし。。。





【デンマン注】 小百合さんが夏休みを過ごしたバーナビー市は
バンクーバー市の東隣にあります。
赤い枠を拡大したのが下の地図です。







【卑弥子の独り言】



ですってぇ~。。。
国際人ですってよう。。。
ご自分から国際人と言うのですから、聞いているあたくしは、半分呆れていますわ。
あなたは、いかがですか?

とにかく、デンマンさんのお話がまだ面白くなりそうですわ。
どうか、あなたも、またあさって読みに戻ってきてくださいましね。
では、またねぇ。。。






ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

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こんにちは。ジューンです。

“縁は異なもの味なもの”

良く耳にする諺ですよね。

さて、英語でなんと言うのでしょうか?

考えてみたことがありますか?

そのものズバリの言い方はなさそうです。

わたしが最もそれに近いと思ったのは

次の言い方です。

Inscrutable and interesting are the ways

people are brought together.


Inscrutable は mysterious とか

cryptic と同じ意味です。

つまり、「よく分からない奇妙な」という意味です。

文字通りに訳せば

“人との出会いは言葉では説明しがたく、

また(それだけに)面白い”



ところで、卑弥子さんが面白い記事をまとめました。

時間があったらぜひ読んでみてくださいね。

■ 『笑って幸せな気分になれるサイト』

では、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょうね。

じゃあね。






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