クラシック鑑賞 8


 

クラシック鑑賞 8

 


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デンマンさん。。。、最近、クラシックにハマっているのですかァ~?


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僕はクラシックは、どちらかと言えば苦手なんだよ。。。

それなのに、どういうわけで、最近オイラと たびたびクラシックを鑑賞するのですか?

オマエは不満なのォ~?

いいえ。。。 デンマンさんと共にクラシックを鑑賞することができるなんてぇ~、天にも昇るような気持ちですよ。。。 この際、スキップして喜んでもいいですか?

あのさァ~、いくらなんでも、それはオーバーじゃないのォ~? オマエが以前のようにスキップして喜んだら、この記事を読みにやって来たネット市民の皆様が呆れて他のブログへ飛んでしまうのだよ!

分かりました。。。 じゃあ、スキップして喜びたいのですけれど、デンマンさんが そのように言うのであれば、じっと我慢したいと思います。。。で、いったいどのクラシックの曲を鑑賞するのですか?

オマエが“間奏曲集”の中で書いていた記事から選んだのだよ。。。 ちょっと読んでごらんよ!


3.8 Richard Wagner (1813 – 1880)

誰かが、Wotanは、世界一の大馬鹿野郎だ、と言っていたが、彼は間違えている。Wotanは、世界で二番目の馬鹿である。
そのWotanが登場する、R. Wagnerの<<Der Ring des Nibelungens>>を延々と聴いていたときのことである。この支離滅裂な筋書きのなかでも、WotanとBrünnhildeの別れの場面、Die Walküre – Akt IIIの終りは、私にとっても感動的であった。
娘と別れるときの父親の気持ちに、いつの日にかは、私自身も避けられない時が来る、という自覚とともに、妙に共感して、しんみりとしてしまったのであった。柄にもなく、そんな気持ちになったのは、娘を思う父親よりも、父親を想う娘の気持ちの方が深いのではないか、ということが、たまたま、私どもにも共通しているように思いあたったからである。平和な時代に、平和な地域に住んでいる私の単なる感傷、と言ってしまえば、それまでのことではあるが、今際の時に、私は、ひとめでも私の娘たちに会いたい、と想うのではないか、と予想もしたのである。その意味では、私は、日本に住む私の両親には親不孝をしている、と思う。どちらの臨終にも、多分、間に合わないであろう。
ところが途端に隣の部屋から下手なピアノの音が鳴り響いてきたのである。すかさず、うるさい!と呶鳴りつけて、そちらに行ってみると、長女が弾いているのを次女が眺めている、まるで絵のような情景が目に入ったのである。次女が、心配そうな顔で私を見た時、今はピアノは駄目だ、と短く言って引きあげたのであるが、その時に、何故か、私の心をかすめたのは、親があっても子は育つ、という坂口安吾の言葉であった。
私が音楽に於ける感情の表出や、それに伴う気ままな連想、或いは感想を、自分の心の中の動き、蠢動として感じはしながらも、さほど、それを信用していないのは、そのあたりに理由がありそうである。一つの音も聴き逃すまい、と集注して、緊張して、しかし、忙しくWagnerの音楽に耳を傾けていた時とはいえ、私の心の中は、娘(たち)に対して、少なからず狂暴になったからである。
大量殺人を為すガス室の、ガス噴出のボタンを押すNAZISの役人でさえ、一方では、L.v. Beethovenの交響曲を聴いて感動し涙すら流す、と誰かが言っていた(草子地:鬼の目に涙)。話が大袈裟になってきたであろうか。そうではないはずである。私が、たまたま、そのNAZISの役人の立場にいなかっただけなのだ、と思うのである(草子地:私は、これを大袈裟と言う、或いは、思うような人とは付き合いたくはない。そういう類の人は、常に、本質問題を、無自覚に、程度問題に還元するからである。もはや、自分に残された時は多くはない、そういう人間に割く時間は、もはや、無い、と自覚するのが、私のような老人見習いの思慮、見識であろう)。
J.P. Sartreは、飢えた人々に対して文学は何かができるか、と問いかけたことがあったが、音楽は文学と同様に、否、それ以上に無力であろう。私は、こういう短絡的な思考は好きにはなれないが、そうした限界が芸術と言われているものの一面であることについては、冷静に受け止め、錯覚は避けるべきだ、と思うのである。何故なら、その無力な芸術を、自らの利益、権力の為に利用、管理している人々が、NAZISの時代だけではなく、今日なお存在しているからである(草子地:繰り返すが、私は、これを大袈裟と言う、或いは、思うような人とは付き合いたくはない。そういう類の人は、常に、本質問題を、無自覚に、程度問題に、すれ変えるからである。もはや、自分に残された時は多くはない、そういう人間に割く時間は、もはや、無い、と自覚するのが私のような老人見習いの思慮、見識であろう)。
気になることが一つある。何故か、この数年来、<<Tristan und Isolde>>ではなく、この<<Der Ring des Nibelungens>>がより多く上演、或いは、録音されるようになってきたことである。一頃前と反対であるのは、所謂クラシック音楽(草子地:嫌な言葉だ)にも流行り廃りがあるのであろうか。音楽史上さらに重要である前者の上演は、最近、ほとんど聞くことがない。そういえば、<<Lohengrin>>はさらに聞かれなくなっている。これが、二十世紀の世紀末という今日この頃に関係しているかどうか、と考えるのは思い過ごしであろうか。
どちらにしても、Wagnerの解決を引き延ばされた旋律、さっさとrecitativeでかたずけてくれないか、と思うことが私には多い。とりわけ、二度目に聴いているときは(草子地:私は、今書いているものを書くのに忙しい。書き終わったら、オーロラを見に北にいく。そして死ぬ)。

コーダ(蛇足):
今さら言うまでもないが、世界で一番の大馬鹿野郎は、かく言う私である。しかし、私は、全人類を愛するけれど、となりで眠っている奴の鼾は我慢ならない、という類の人間ではないつもりである。家内の鼾が我慢ならないからではない。<全人類>などを愛していないからである。
もう一つ気になっていることがあった。日本の古事記でも、ギリシャ神話でも、北欧の神話でも、多神教の神々を支配する神は、何故か、第一世代の神ではない。長女が私に威張るのは仕方がないか。




53-54ページ
『間奏曲集―主題なき変奏-作品 2』より




振り返ってみると、デンマンさんと共にクラシックを鑑賞するなんて今年になってから5度目のことですねぇ~。。。



確かに、そうなんだよ! でもさァ~、オマエの上の文章は とにかく読みづらいのだよ! おそらく、この記事を読み始めたネット市民の皆様の半分以上が、オマエの読みづらい文章を途中まで読んで 他のブログへ飛んでしまったと思うよ!

それほどオイラの文章は悪文でしょうか?

オマエの文章ほど読みづらい悪文を 僕は他に見たことがない!

マジで。。。?

僕には、到底、オマエの文章を最後まで読む気になれず、仕方がないから次のように楽しく、面白く読めるように編集し直したのだよ。。。 オマエも読んでごらんよ。。。


3.8 リヒャルト・ワーグナー


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    (1813 – 1880)


誰かが、オーディンは、世界一の大馬鹿野郎だ、と言っていたが、彼は間違えている。
オーディンは、世界で二番目の馬鹿である。
そのオーディンが登場する、ワーグナーの<<ニーベルングの指環>>を延々と聴いていたときのことである。
この支離滅裂な筋書きのなかでも、オーディンとブリュンヒルデの別れの場面、<<ワルキューレ>>の第3幕の終りは、私にとっても感動的であった。



娘と別れるときの父親の気持ちに、いつの日にかは、私自身も避けられない時が来る、という自覚とともに、妙に共感して、しんみりとしてしまったのであった。
柄にもなく、そんな気持ちになったのは、娘を思う父親よりも、父親を想う娘の気持ちの方が深いのではないか、ということが、たまたま、私どもにも共通しているように思いあたったからである。

平和な時代に、平和な地域に住んでいる私の単なる感傷、と言ってしまえば、それまでのことではあるが、今際の時に、私は、ひとめでも私の娘たちに会いたい、と想うのではないか、と予想もしたのである。
その意味では、私は、日本に住む私の両親には親不孝をしている、と思う。
どちらの臨終にも、多分、間に合わないであろう。

ところが途端に隣の部屋から下手なピアノの音が鳴り響いてきたのである。
すかさず、うるさい!と呶鳴りつけて、そちらに行ってみると、長女が弾いているのを次女が眺めている、まるで絵のような情景が目に入ったのである。
次女が、心配そうな顔で私を見た時、今はピアノは駄目だ、と短く言って引きあげたのであるが、その時に、何故か、私の心をかすめたのは、親があっても子は育つ、という坂口安吾の言葉であった。

私が音楽に於ける感情の表出や、それに伴う気ままな連想、或いは感想を、自分の心の中の動き、蠢動として感じはしながらも、さほど、それを信用していないのは、そのあたりに理由がありそうである。
一つの音も聴き逃すまい、と集注して、緊張して、しかし、忙しくワーグナーの音楽に耳を傾けていた時とはいえ、私の心の中は、娘(たち)に対して、少なからず狂暴になったからである。

大量殺人を為すガス室の、ガス噴出のボタンを押すナチスの役人でさえ、一方では、ベートーベンの交響曲を聴いて感動し涙すら流す、と誰かが言っていた(草子地:鬼の目に涙)。
話が大袈裟になってきたであろうか。
そうではないはずである。

私が、たまたま、そのナチスの役人の立場にいなかっただけなのだ、と思うのである。
(草子地:私は、これを大袈裟と言う、或いは、思うような人とは付き合いたくはない。そういう類の人は、常に、本質問題を、無自覚に、程度問題に還元するからである。もはや、自分に残された時は多くはない、そういう人間に割く時間は、もはや、無い、と自覚するのが、私のような老人見習いの思慮、見識であろう。)

ジャン=ポール・サルトルは、飢えた人々に対して文学は何かができるか、と問いかけたことがあったが、音楽は文学と同様に、否、それ以上に無力であろう。
私は、こういう短絡的な思考は好きにはなれないが、そうした限界が芸術と言われているものの一面であることについては、冷静に受け止め、錯覚は避けるべきだ、と思うのである。

何故なら、その無力な芸術を、自らの利益、権力の為に利用、管理している人々が、ナチスの時代だけではなく、今日なお存在しているからである。
(草子地:繰り返すが、私は、これを大袈裟と言う、或いは、思うような人とは付き合いたくはない。そういう類の人は、常に、本質問題を、無自覚に、程度問題に、すれ変えるからである。もはや、自分に残された時は多くはない、そういう人間に割く時間は、もはや、無い、と自覚するのが私のような老人見習いの思慮、見識であろう。)



気になることが一つある。
何故か、この数年来、<<トリスタンとイゾルデ>>ではなく、この<<ニーベルングの指環>>がより多く上演、或いは、録音されるようになってきたことである。
一頃前と反対であるのは、所謂クラシック音楽(草子地:嫌な言葉だ)にも流行り廃りがあるのであろうか。

音楽史上さらに重要である前者の上演は、最近、ほとんど聞くことがない。
そういえば、<<ローエングリン>>はさらに聞かれなくなっている。
これが、二十世紀の世紀末という今日この頃に関係しているかどうか、と考えるのは思い過ごしであろうか。



どちらにしても、ワーグナーの解決を引き延ばされた旋律、さっさとレチタティーヴォ(叙唱、朗唱)でかたずけてくれないか、と思うことが私には多い。
とりわけ、二度目に聴いているときは…。
(草子地:私は、今書いているものを書くのに忙しい。書き終わったら、オーロラを見に北にいく。そして死ぬ。)


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蛇足(コーダ):



 

今さら言うまでもないが、世界で一番の大馬鹿野郎は、かく言う私である。
しかし、私は、全人類を愛するけれど、となりで眠っている奴の鼾は我慢ならない、という類の人間ではないつもりである。

家内の鼾が我慢ならないからではない。
<全人類>などを愛していないからである。


もう一つ気になっていることがあった。
日本の古事記でも、ギリシャ神話でも、北欧の神話でも、多神教の神々を支配する神は、何故か、第一世代の神ではない。
長女が私に威張るのは仕方がないか。




53-54ページ
『間奏曲集―主題なき変奏-作品 2』より

『間奏曲集』より




デンマンさんは、どういうわけで音楽そのものについて語ろうとしないで、いつもオイラの家内のことを取り上げようとするのですかァ~?



僕は何度も言うように、クラシックは苦手なんだよ! オマエのようにクダクダと 御託(ごたく)を並べたくないのだよ!

。。。で、今回ワーグナーを取り上げたのは、どういうわけですか?

あのさァ~、おまえは次のように書いていた。




娘と別れるときの父親の気持ちに、いつの日にかは、私自身も避けられない時が来る、という自覚とともに、妙に共感して、しんみりとしてしまったのであった。

柄にもなく、そんな気持ちになったのは、娘を思う父親よりも、父親を想う娘の気持ちの方が深いのではないか、ということが、たまたま、私どもにも共通しているように思いあたったからである。




そうです。。。 柄にもなく、このような共感を覚えたのですよ。。。 この箇所がデンマンさんに感動を引き起こしたのですか?



いや。。。 実は、僕もオマエの共感をゲットしようとするかのように <<ワルキューレ>>の第3幕をじっくりと聴こうとしたのだよ。。。 ところが、僕は最初の出だしを聴いただけで、もう "Apocalypse Now! (地獄の黙示録)" の次のシーンがオツムに浮かんできて、娘を思う父親よりも、父親を想う娘の気持ちの方が深いのではないかとか?そんなことは、もうどうでもよくなってしまって、あの映画の中に埋没してしまったのだよ!


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つまり、オイラが柄にもなく娘を思う父親よりも、父親を想う娘の気持ちの方が深いのではないか、というような貴重な共感をオイラにもたらしたのにもかかわらず、デンマンさんは あの映画のことしか想い浮かばなかったのですかァ~?



そうなのだよ!

やっぱり、デンマンさんはクラシックを鑑賞するだけの教養と感性と素養がないのですねぇ~。。。

そうかもしれない。。。 でもなァ~、オマエの感性も教養も素養も、結局、娘との人間関係を修復することはできなかったのだよなァ~。。。

まさかァ~?

まさかァ~じゃねぇ~だろう! オマエは次のように書いていた。




 

私は、この曲集を書き終えたとき、老人見習いから、正真正銘の老人になるのではないか、と思うこの頃である。
真の老人とは、もはや、失うべき何ものも無くなった人のことを言うのではないか。

長女は、私から去った。
次女は、中立を保つ為に、この家に寄りつかない。
家内と言えば、日本語も通じなくなってから何年にもなる。


私には、S.Kierkegaard の言った、一番易しく一番難しいこと、すべてを捨てること、が、案外、無理なくできるのではないか。
いや、その時には、捨てるべき何ものも見当たらなくなった境地であろう。

その意味では、老人になる前に、不慮の死で亡くなった人は気の毒である。
私は、若い時に、死ぬのはいいが風邪をひくのは嫌だ、などと言って、粋がって与太をほざいていた。
今も、願わくは、あまり苦しむことなく死を迎えられたなら、それにこしたことはない、と考えている。

Kierkegaard は、また、永遠とは有限が無限に出会う瞬間である、と言っていた。
私の人生に、かつて、そのような瞬間があったであろうか。
いや、それもまた、超越の命題であろう。

私の人生は、無明に迷ったそれに終わるのかもしれない。
しかし、私の背後には、母の祈りがあった。

ある麻薬中毒患者が、お母さん、僕は、こんな遠くまで来てしまった、と淋しげに呟いていたが、私は、麻薬中毒者ではないけれど、その気持ちが解かっている、と思う。
どのみち、人生は、rehearsal無しの、ぶっつけ本番なのである。

しかし、私は、F.M.Dostoevsky の「白痴」にある、あの「イッポリトの告白」に書かれているように、もし、生まれる前に、この条件を知らされていたとしたならば、私は、生まれるてくることを肯(がえ)んじなかったであろう、とは思っていない。
私は、感謝して死ねるように、今からでも、心の準備をしておこう。

 

S.D.G

コーダ(蛇足):

私の懐疑なるものが、深いのか、深くないのか、私自身も知る由もない。
仮に、深かったとしても、そもそも、懐疑の深さというものは、誇るべきものであるのか、という疑問が残る。




【デンマン注:】 改行を加え読み易くしました。あしからず。

S.Kierkegaard: キルケゴール (1813-1855) デンマークの哲学者

S.D.G.: Soli Deo Gloria (ラテン語) To God Alone the Glory(英語) 神に栄光あれ。

F.M.Dostoevsky: ドストエフスキー (1821-1881) ロシアの小説家・思想家




56-57ページ Michel-Richard de Lalande
『後奏曲集(後書きばかり)』 作品3
著者: 太田将宏
初版: 1994年1月 改定: 2006年9月

『馬鹿やって人気?』にも掲載
(2015年8月18日)




デンマンさん! んもおおおォ~! いったい何度引用すれば気が済むのですかあああァ~。。。



あのさァ~、上の文章はオマエ自身が書いたのだよ! そうだろう!?

だとしても、こうたびたび持ち出されては、オイラの立場がないじゃありませんか!

だから、僕は先日も言ったはずだよ! オマエが昨今、自分史などを書いている人がいる、と聞いているが、いい気なものだと書いていた。 ところが、上の文章に見るように、オマエも意識せずに「自分史」を文章の中に散りばめていたのだよ! オマエは、むしろ僕以上に家族を通して自分自身の事を 無意識に語っていたのだよ!

要するに、オイラの家族が崩壊していることをネットで広めようとしているのですか?

いや。。。 別に、オマエの家庭が崩壊していることをネットで広も得ようとしているわけじゃない。

じゃあ、何ですかァ~?

僕はオマエの奥さんが心の優しい良妻賢母なのを十二分に知っているのだよ!

マジで。。。?

だいたい、オマエのような世間知らずで、独断と偏見で何事も判断しようとする男が 娘二人をカナダの大学の医学部に通わせ、現在、二人ともアメリカの総合病院で働いている小児科医の女医さんにさせることなど まずできないのだよ!

できました。。。

だから、それは心の優しい良妻賢母な奥さんがいたからなんだよ!

つまり、父親としてのオイラの存在は 飾り物だったとデンマンさんは言うのですか?

そうだよ。。。 オマエがせっせと大型コンピューターのメインテナンスの仕事をして給料を家に入れていたから、奥さんは、仕方なしにオマエと離婚せずに一緒に居たのだよ!

要するにオイラは エサを運ぶ単なる働きアリだったとデンマンさんは言うのですか?

そうだよ。。。 オマエは、不満そうだねぇ~。。。?

当たり前田のクラッカー! 不満ですよう!


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そのギャグは、オマエが言うんじゃなくてぇ、僕が言うためのものなんだよ!



要するに、オイラがクラシックのオタクで、父親としては失格だと、デンマンさんは言いたいのですか?

いや。。。 僕は、そこまでは言ってないのだよ。。。

じゃあ、どう言う訳で、ワーグナーを取り上げたのですか?

ワーグナーはどうでもいいのだよ。。。 ただ、オマエが最後に次のように書いていた。




今さら言うまでもないが、世界で一番の大馬鹿野郎は、かく言う私である。

しかし、私は、全人類を愛するけれど、となりで眠っている奴の鼾は我慢ならない、という類の人間ではないつもりである。

家内の鼾が我慢ならないからではない。

<全人類>などを愛していないからである。





つまり、「世界で一番の大馬鹿野郎は、かく言う私である」という箇所に共感したのですか?



そんなことは、初めてオマエを取り上げて記事を書いた時から 僕は十二分に理解していたことだよ! 


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僕が オマエを許せると思ったのは、「家内の鼾が我慢ならないからではない。 <全人類>などを愛していないからである」と認めたことだよ!



この言葉が、それほどデンマンさんに感動を与えたのですか?

そうだよ。。。 オマエは、自分が飾り物だということを無意識のうちに気づいていた。。。 心の優しい良妻賢母な奥さんがいたからこそ、娘二人はカナダの大学の医学部を卒業し、現在、二人ともアメリカの総合病院で小児科医の女医さんとして働いている。

だから。。。?

だから、奥さんが高鼾で寝ていれば、オマエは、本音では我慢ならない! 「馬鹿尼! オイラが眠れないじゃないかァ!」と怒鳴って起こしてしまいたい! でも、それが出来ない事をオマエは知っている。。。 家内と言えば、日本語も通じなくなってから何年にもなるのだけれど、オマエは心の奥深いところで、<全人類>などよりも奥さんを愛しているのだよ!

 (一瞬、太田将宏は無言で うつむいて涙をためている!)

オマエの気持ちはよくわかる。。。 これでこの記事は終わりにするけれど、オマエは心ゆくまで 反省と後悔と贖罪の涙を流していいからねぇ~。。。



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【レンゲの独り言】


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ですってぇ~。。。

太田さんは、心のどこかで奥さんに謝っているのだと思いますわァ~。。。

でも、デンマンさんは太田さんについて

ずいぶんとコケにした記事を書いて

ネット上にアップしたので、

太田さんも次のサイトで抗議録を公開したのです!


(kogiroku9.png)

『実際の抗議録』

デンマン注:しかし太田将宏が上の抗議録を掲載したサイトは消滅してしまいました!

 

デンマンさんも上の抗議録を読んで ムキになって反論しています。

『嘘を書く日記』

 

太田さんは、これに対しては反論ができないのか、それ以降 無言で通しています。

でも、そのうち 忘れた頃にまたコメントを書き込むかもしれません。。。

あなたは、どう思いますか?

とにかく、ネットには “めちゃキモい”人たちがウヨウヨしています。

太田将宏さんは、まだ良い方ですわ。

中には、まるで得意になって、愚かな事をして遊んでいる オツムの足りない人たちがたくさん居ます。

また、見かけは普通のブログでも、悪徳スパマーが手を変え品を変えて 悪徳サイトへ誘い込もうとしています。

スパムコメントで褒められると、ついついその気になって、

相手のブログへ飛んでゆき、お返しに、あるいはお礼にと思って

読者に登録してしまったりするものですわァ。

どうか スパマーの思う壺にはまらないでくださいね。

悪徳スパマーは悪徳サイトへ誘おうと

てぐすね引いて待っているのですから。。。

悪徳サイトを利用して、

メールアドレスで登録したりすると、

あなたのメールアドレスは第3者や第4者に売られてしまう危険性があります。

あなたは、そのようなスパム・コメントや 成りすましスパマーには

騙されないと思い込んでいるでしょう?

でもねぇ~、もしかすると騙されているかもよ。。。

とにかく気をつけてくださいね。

次回も、さらに面白い話題が続きます。

あなたも、どうか、また記事を読みに戻ってきてください。

では。。。


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カセットの音楽をPCで残したい

 

カセットの音楽をPCで残したい!

 


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こんにちは。ベティーです。
青春の思い出が詰まったカセットテープの音楽をパソコンで聴けたらと思ったことはありませんか?
そしてPCでいつまでも残したい。

たとえば、部屋を片付けていたら、学生の頃に録りためたカセットがごっそりと出て来ました。
「あ~、あの時、流行ってた曲だ…」なんて青春時代を懐かしんでしまいますよね。

捨てるにはもったいない。
でも、そうかと言って保存するには、かさばるんですよね。

確かに邪魔だし、でも捨てるのは寂しいし。。。
なにかいい方法ないのかな?

あなただ、そう思うでしょう?
さて、あなたは、どうしますか?

(^_^;)

やっぱり、泣く泣く処分してしまいますか?

実は、パソコンでカセットテープの音楽を音楽データにする方法があるのですよ。
青春の思い出が詰まったカセットって、捨てられないですよね。
そこで、おすすめなのがカセットの音楽をパソコンに取り込んで保存する方法です。
デジタル音源に変換する機器を使えば意外に簡単なんです。


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どうするの。。。?

1) まず、カセットデッキやラジカセなどを用意します。

2) アナログ音源をデジタル音源に変換する「アダプター」を使って、
   カセットの音楽をパソコンに取り込みます。

3) パソコンや携帯音楽プレーヤーに転送して懐かしい音楽を楽しむ。

変換用の「アダプター」は、「オーディオ・インターフェース」(USB接続)を使用すると、ノイズの影響を受けずに取り込めます。
取り込む時の「サウンドソフト」の操作方法などは、次のリンクをクリックして読んでみてくださいね。

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もちろん、無料ですよ。
登録する必要もありません。
読んですぐに使えますよ。

これで、懐かしい音楽が詰まっているカセットテープをあなたのパソコンに取り込むことができますよ。
青春時代に聴いた懐かしい音楽をパソコンで楽しんでくださいね。



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Good luck!

バ~♪~イ


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平成の紫式部、橘卑弥子でござ~ます
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『卑弥子の源氏物語』

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平成の紫式部、橘卑弥子でござ~ます
(himiko22.gif)

おほほほほ。。。

卑弥子でござ~♪~ますわよ。

くどいようですけれど、

また現れましたわ。

やっぱり、ベティーさん

ぱっかりに任せていると

退屈するのよねぇ~。

それで。。。つい、つい、

出て来てしまうので

ござ~♪~ますわよ。

ええっ、余計な事は言わなくてもいいから、

さっさと言いたいことを言って消えろ!

あららあああぁ~

あなたはそのような厳しいことをあたくしに

言うのでござ~♪~ますか?

いけすかないことォ~♪~

分かりましたわ。

では、今日の一言を。。。

うふふふふ。。。

Motivation is what gets you started.

Habit is what keeps you going.

--- Anonymous (詠み人知らず)



(digger1.gif)

事を起こすにはやる気が必要です。

ひとたび習慣になれば、

それを続ける事ができます。


あたくしは、このように訳しました。

あなたなら、どう訳しますか?

素晴しい訳があったら教えてくださいませ。

では、今日も楽しく元気よく

ネットサーフィンしましょうね。

じゃあ、バ~♪~イ。



(himiko5.gif)


(bravo.gif)

クラシック鑑賞 7


 

クラシック鑑賞 7

 


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デンマンさん。。。、最近、クラシックにハマっているのですかァ~?


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僕はクラシックは、どちらかと言えば苦手なんだよ。。。

それなのに、どういうわけで、最近オイラと たびたびクラシックを鑑賞するのですか?

オマエは不満なのォ~?

いいえ。。。 デンマンさんと共にクラシックを鑑賞することができるなんてぇ~、天にも昇るような気持ちですよ。。。 この際、スキップして喜んでもいいですか?

あのさァ~、いくらなんでも、それはオーバーじゃないのォ~? オマエが以前のようにスキップして喜んだら、この記事を読みにやって来たネット市民の皆様が呆れて他のブログへ飛んでしまうのだよ!

分かりました。。。 じゃあ、スキップして喜びたいのですけれど、デンマンさんが そのように言うのであれば、じっと我慢したいと思います。。。で、いったいどのクラシックの曲を鑑賞するのですか?

オマエが“前奏曲集”の中で書いていた記事から選んだのだよ。。。 ちょっと読んでごらんよ!


13.1 Claude Achille Debussy (1862-1918)

今、私が使っているステレオ セットも安物であるが、その前のは、また一段下の代物であった。何せ、F. Schubertの<<Symphonie in h-moll>>(Op. Posthumous)を聴くと、あの、チェロとコントラバスのユニゾンで奏される最初の主要主題、これは自然的短音階の美事な旋律であるが、低すぎて、またppであるので聴こえない、という具合であった。そのセットは、カナダに来て、しばらくして、友人から安く譲り受けたものであるが(草子地:彼女には、今でも、感謝している。何せ、L.v. Beethovenの音楽は、ここカナダでも、日本でと同じBeethovenの音楽だ、という当り前のことが確認できたからである。けっして、F. Chopinの音楽にはならなかった。)、それをセタップ(草子地:セットアップではない)して、初めて買ったレコードが、W. Giesekingの弾くC.A. Debussyの<<Children’s Corner>>である。裏には、<<Suite Bergamasque>>が入っている、当時としても古いモノラールのLPであった。GiesekingのDebussyは、他にも、例えば、<<Préludes 1er Livre>>などを今では持っているが、その十年も前に求めたレコードが一番好きで、もうそろそろ擦り切れるまでに何度も何度も聴いてしまっている。
次のようなことを言って、誰か信じてくれるだろうか、とも思案するのであるが、ありのまま書くことにする。その古い装置で、<<Children’s Corner>>の中の<<The Snow is Dancing>>を聴いていた時である。降りしきる雪の中に、赤いマントを着た小さな女の子の幻が見え(聴こえ)たのである。透きとおった虹色の少女の幻影である。生まれてまもない長女を思うと不安になったほど鮮明であるだけではなく、また、何度聴いても、その人形のような女の子に出会うのであった。このことを、家内にも、話して聞いてみたところ、私も...、ふしぎね、と言っていた。
その後、その装置がいよいよ駄目になって、今の、少しましな装置でレコードを聴くようになり、ふと思い出して、この曲を、また聴いてみた。普通の素敵な<<The Snow is Dancing>>であった。古くなって針の音の大きく、多くなったレコードとはいえ、Giesekingの清潔な演奏で、第一級のピアノ曲が響いていた。ただそれだけであった。そして、何故か、私は、ほっとした。
今さっき、家内に、また、あのことを尋ねてみたが、憶えていない、とのことであった。私は、愚妻の記憶力を信じてはいなかったのだが、念のために聞いてみた次第である。仮に、Giesekingに聞けたとしても、私は知りません、と言うだろうことは分っている。
確実に言えることは、SP或いは初期のLPは、電蓄、或いは、それ以前の装置で聴くのに相応しく録音されていた、という事であり、これもまた、一流の技術であった、という事でもある。Giesekingのレコードのみならず、D. LipattiやC. Haskilのそれにも、そうした傾向があった、と私は思う。あの少女の影、姿を見ることがなかったとしても、それを忘れたとしても、このGiesekingのLPは、以前の装置で聴いたときの方が、一段と良い音を響かせていた。
さて、この曲集<<Children’s Corner>>に限って、何故、Debussyは、英語で献辞、標題をつけたのであろうか。まず、献辞を見てみよう:
To my dear Chouchou, with the tender excuses of her father for that which follows
C. D. と、書かれている。安川加寿子は、これを:
あとにつづく者への 父のやさしい託言をそえて 私の可愛いシュウシュウヘ C. D. と翻訳していたが、これは誤りである。E. Vuillermozが書いていた通り、<which follows>は、事実上、この献辞の後に続く、洗練され吟味された音楽の頁を指すことは明白であろう(草子地:私は彼女の上げ足を取るつもりではない。ただ、こういう風に翻訳しがちな日本人の感覚には違和感を覚えるのである。)。
Vuillermozは、これら英語での標題は、Chouchouの女家庭教師をほのめかしている、と続けている。私もまた、芸術家が、特にDebussyのような第一級の音楽家が、子供のために何かをした時には、子供は、だしに使われているのではないか、と一応は疑うのが、何故か、習い性になっているのだが、一方では、Vuillermozが書いているように、この曲集が子供のために書かれたのではなく、おとなの為だ、とも思えないのである。何故かと言うと、Debussyは、この曲集を創るにあたって、特に彼の好きだったR. Schumannの<<Kinderszenen>>を意識していたことが確かであるからである。むしろ、この曲集は、子供には、子供のために、同時に、おとなには、おとなの為に、として創作されたものと思われる。その程度の二面性は、何かを創造する人間ならば、誰でももっているものである。Debussyにとって、それは、複雑でも煩雑でもなかったであろう。
ところで、Debussyの場合、どうして、晩年に近づくにつれて標題が後退していったのであろうか。<<Préludes 2e Livre>>では、標題が各曲の後ろに申し訳のように書き添えてある、と聞くし、<<Douze Etudes>>では、これは、標題というよりは指示である。 彼は、標題を書かなくてもすむためにétudesを作曲したのではなかったか。三つのsonatesになって、ついに、標題は消滅してしまったのである。
標題が無いから音楽が解らない、などということは、決してないにしろ、Debussyの場合に限って、一抹の不安を感じるのは私だけであろうか。J.S. Bachでは、どうしてそれを感じないのであろうか。もともと、標題というものが、どれだけ、どの程度に聴き手を誘導しているかは、本来、識別が不可能なのかも知れない。

蛇足(コーダ):
優秀な録音で評判になったLPs、<Musique de la Grèce Antique> (Atrium Musicae de Madrid, Gregorio Paniagua, harmonia mundi France HM 1015)やK.H. Stockhausenの<<Zyklus>> (Sylvio Gualda, ERATO STU 70603)をこえる音響、音質をCDsで実現するのは、今なお無理だ、と私は思う。




55-56ページ
『前奏曲集――私はアマチュアである-作品 1の2』より




振り返ってみると、デンマンさんと共にクラシックを鑑賞するなんて今年になってから4度目のことですねぇ~。。。



確かに、そうなんだよ! でもさァ~、オマエの上の文章は とにかく読みづらいのだよ! おそらく、この記事を読み始めたネット市民の皆様の半分以上が、オマエの読みづらい文章を途中まで読んで 他のブログへ飛んでしまったと思うよ!

それほどオイラの文章は悪文でしょうか?

オマエの文章ほど読みづらい悪文を 僕は他に見たことがない!

マジで。。。?

僕には、到底、オマエの文章を最後まで読む気になれず、仕方がないから次のように楽しく、面白く読めるように編集し直したのだよ。。。 オマエも読んでごらんよ。。。


13.1 クロード・アシル・ドビュッシー


(debussy3.jpg)

   (1862-1918)


 

今、私が使っているステレオ セットも安物であるが、その前のは、また一段下の代物であった。

何せ、シューベルトの交響曲ロ短調 (未完成)を聴くと、あの、チェロとコントラバスのユニゾンで奏される最初の主要主題、これは自然的短音階の美事な旋律であるが、低すぎて、またピアニッシモであるので聴こえない、という具合であった。



そのセットは、カナダに来て、しばらくして、友人から安く譲り受けたものである。

(草子地:彼女には、今でも、感謝している。何せ、ベートーベンの音楽は、ここカナダでも、日本でと同じベートーベンの音楽だ、という当り前のことが確認できたからである。けっして、ショパンの音楽にはならなかった。)

それをセタップ(草子地:セットアップではない)して、初めて買ったレコードが、ヴァルター・ギーゼキングの弾くドビュッシーの<<子供の領分>>である。



裏には、<<ベルガマスク組曲>>が入っている、当時としても古いモノラールのLPであった。



ヴァルター・ギーゼキングのドビュッシーは、他にも、例えば、<<前奏曲集第1巻>>などを今では持っているが、その十年も前に求めたレコードが一番好きで、もうそろそろ擦り切れるまでに何度も何度も聴いてしまっている。

次のようなことを言って、誰か信じてくれるだろうか、とも思案するのであるが、ありのまま書くことにする。

その古い装置で、<<子供の領分>>の中の<<雪は踊っている>>を聴いていた時である。



降りしきる雪の中に、赤いマントを着た小さな女の子の幻が見え(聴こえ)たのである。

透きとおった虹色の少女の幻影である。

 


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生まれてまもない長女を思うと不安になったほど鮮明であるだけではなく、また、何度聴いても、その人形のような女の子に出会うのであった。
このことを、家内にも、話して聞いてみたところ、「私も...、ふしぎね」、と言っていた。

その後、その装置がいよいよ駄目になって、今の、少しましな装置でレコードを聴くようになり、ふと思い出して、この曲を、また聴いてみた。
普通の素敵な<<雪は踊っている>>であった。

古くなって針の音の大きく、多くなったレコードとはいえ、ヴァルター・ギーゼキングの清潔な演奏で、第一級のピアノ曲が響いていた。
ただそれだけであった。
そして、何故か、私は、ほっとした。

今さっき、家内に、また、あのことを尋ねてみたが、憶えていない、とのことであった。
私は、愚妻の記憶力を信じてはいなかった
のだが、念のために聞いてみた次第である。

仮に、ヴァルター・ギーゼキングに聞けたとしても、「私は知りません」、と言うだろうことは分っている。

確実に言えることは、SP或いは初期のLPは、電蓄、或いは、それ以前の装置で聴くのに相応しく録音されていた、という事であり、これもまた、一流の技術であった、という事でもある。
ヴァルター・ギーゼキングのレコードのみならず、ディヌ・リパッティやクララ・ハスキルのそれにも、そうした傾向があった、と私は思う。

あの少女の影、姿を見ることがなかったとしても、それを忘れたとしても、このヴァルター・ギーゼキングのLPは、以前の装置で聴いたときの方が、一段と良い音を響かせていた。

さて、この曲集<<子供の領分>>に限って、何故、ドビュッシーは、英語で献辞、標題をつけたのであろうか。
まず、献辞を見てみよう:


To my dear Chouchou, with the tender excuses of her father for that which follows

C. D.


…と、書かれている。

安川加寿子は、これを:

あとにつづく者への 父のやさしい託言をそえて 私の可愛いシュシュ(ドビュッシーの娘クロード・エマ)ヘ C. D. と翻訳していたが、これは誤りである。

エミール・ヴィユルモズ が書いていた通り、<which follows>は、事実上、この献辞の後に続く、洗練され吟味された音楽の頁を指すことは明白であろう。
(草子地:私は彼女の上げ足を取るつもりではない。ただ、こういう風に翻訳しがちな日本人の感覚には違和感を覚えるのである。)

エミール・ヴィユルモズ は、これら英語での標題は、シュシュの女家庭教師をほのめかしている、と続けている。

私もまた、芸術家が、特にドビュッシーのような第一級の音楽家が、子供のために何かをした時には、子供は、だしに使われているのではないか、と一応は疑うのが、何故か、習い性になっているのだが、一方では、エミール・ヴィユルモズが書いているように、この曲集が子供のために書かれたのではなく、おとなの為だ、とも思えないのである。
何故かと言うと、ドビュッシーは、この曲集を創るにあたって、特に彼の好きだったシューマンの<<子供の情景>>を意識していたことが確かであるからである。



シューマン:子供の情景 作品15

むしろ、この曲集は、子供には、子供のために、同時に、おとなには、おとなの為に、として創作されたものと思われる。
その程度の二面性は、何かを創造する人間ならば、誰でももっているものである。
ドビュッシーにとって、それは、複雑でも煩雑でもなかったであろう。

ところで、ドビュッシーの場合、どうして、晩年に近づくにつれて標題が後退していったのであろうか。
<<前奏曲集第2巻>>では、標題が各曲の後ろに申し訳のように書き添えてある、と聞くし、<<12の練習曲>>では、これは、標題というよりは指示である。
彼は、標題を書かなくてもすむために練習曲を作曲したのではなかったか。

三つのソナタになって、ついに、標題は消滅してしまったのである。
標題が無いから音楽が解らない、などということは、決してないにしろ、ドビュッシーの場合に限って、一抹の不安を感じるのは私だけであろうか。

バッハでは、どうしてそれを感じないのであろうか。
もともと、標題というものが、どれだけ、どの程度に聴き手を誘導しているかは、本来、識別が不可能なのかも知れない。

 

蛇足(コーダ):



 

優秀な録音で評判になったLPs、<古代ギリシアの音楽> (アトリウム・マドリード・デ・マドリード, グレゴリオ・パニアグア, ラベル: harmonia mundi France HM 1015)やカールハインツ・シュトックハウゼンの<<ツィクルス>> (シルヴィオ・グアルダ, ERATO STU 70603)をこえる音響、音質をCDsで実現するのは、今なお無理だ、と私は思う。








55-56ページ
『前奏曲集―私はアマチュアである-作品 1の2』より

『前奏曲集』より




デンマンさんは、どういうわけで音楽そのものについて語ろうとしないで、いつもオイラの家内のことを取り上げようとするのですかァ~?



僕は何度も言うように、クラシックは苦手なんだよ! オマエのようにクダクダと 御託(ごたく)を並べたくないのだよ! <<子供の領分>>の中の<<雪は踊っている>>を聴いて雪が降りしきる様子を感じれば 僕はそれで十分に満足できるのだよ。。。 その印象を大切に温めることが、僕にとってクラシック鑑賞なんだよ。。。

要するに、クラシックそのものよりもオイラの家内の反応の方がデンマンさんに取って より興味深いのですかァ~?

その通りだよ! オマエと奥さんの関わり方を見ることによって、オマエという人間のいやらしい所が見えてくるのだよ!

たとえば。。。?

あのさァ~、オマエは「愚妻の記憶力を信じてはいなかったのだが、念のために聞いてみた次第である」と、書いている。

その事で、オイラガ何かいけないことでもしたのですか?

僕はオマエの奥さんが心の優しい良妻賢母なのを十二分に知っているのだよ!

マジで。。。?

だいたい、オマエのような世間知らずで、独断と偏見で何事も判断しようとする男が 娘二人をカナダの大学の医学部に通わせ、現在、二人ともアメリカの総合病院で働いている小児科医の女医さんにさせることなど まずできないのだよ!

できました。。。

だから、それは心の優しい良妻賢母な奥さんがいたからなんだよ!

つまり、父親としてもオイラの存在は 飾り物だったとデンマンさんは言うのですか?

そうだよ。。。 オマエがせっせと大型コンピューターのメインテナンスの仕事をして給料を家に入れていたから、奥さんは、仕方なしにオマエと離婚せずに一緒に居たのだよ!

要するにオイラは エサを運ぶ単なる働きアリだったとデンマンさんは言うのですか?

僕が言うんじゃなくて、オマエ自身が次のように書いていたことだよ!




 

私は、この曲集を書き終えたとき、老人見習いから、正真正銘の老人になるのではないか、と思うこの頃である。
真の老人とは、もはや、失うべき何ものも無くなった人のことを言うのではないか。

長女は、私から去った。
次女は、中立を保つ為に、この家に寄りつかない。
家内と言えば、日本語も通じなくなってから何年にもなる。


私には、S.Kierkegaard の言った、一番易しく一番難しいこと、すべてを捨てること、が、案外、無理なくできるのではないか。
いや、その時には、捨てるべき何ものも見当たらなくなった境地であろう。

その意味では、老人になる前に、不慮の死で亡くなった人は気の毒である。
私は、若い時に、死ぬのはいいが風邪をひくのは嫌だ、などと言って、粋がって与太をほざいていた。
今も、願わくは、あまり苦しむことなく死を迎えられたなら、それにこしたことはない、と考えている。

Kierkegaard は、また、永遠とは有限が無限に出会う瞬間である、と言っていた。
私の人生に、かつて、そのような瞬間があったであろうか。
いや、それもまた、超越の命題であろう。

私の人生は、無明に迷ったそれに終わるのかもしれない。
しかし、私の背後には、母の祈りがあった。

ある麻薬中毒患者が、お母さん、僕は、こんな遠くまで来てしまった、と淋しげに呟いていたが、私は、麻薬中毒者ではないけれど、その気持ちが解かっている、と思う。
どのみち、人生は、rehearsal無しの、ぶっつけ本番なのである。

しかし、私は、F.M.Dostoevsky の「白痴」にある、あの「イッポリトの告白」に書かれているように、もし、生まれる前に、この条件を知らされていたとしたならば、私は、生まれるてくることを肯(がえ)んじなかったであろう、とは思っていない。
私は、感謝して死ねるように、今からでも、心の準備をしておこう。

 

S.D.G

コーダ(蛇足):

私の懐疑なるものが、深いのか、深くないのか、私自身も知る由もない。
仮に、深かったとしても、そもそも、懐疑の深さというものは、誇るべきものであるのか、という疑問が残る。




【デンマン注:】 改行を加え読み易くしました。あしからず。

S.Kierkegaard: キルケゴール (1813-1855) デンマークの哲学者

S.D.G.: Soli Deo Gloria (ラテン語) To God Alone the Glory(英語) 神に栄光あれ。

F.M.Dostoevsky: ドストエフスキー (1821-1881) ロシアの小説家・思想家




56-57ページ Michel-Richard de Lalande
『後奏曲集(後書きばかり)』 作品3
著者: 太田将宏
初版: 1994年1月 改定: 2006年9月

『馬鹿やって人気?』にも掲載
(2015年8月18日)




デンマンさん! んもおおおォ~! いったい何度引用すれば気が済むのですかあああァ~。。。



あのさァ~、上の文章はオマエ自身が書いたのだよ! そうだろう!?

だとしても、こうたびたび持ち出されては、オイラの立場がないじゃありませんか!

だから、僕は先日も言ったはずだよ! オマエが昨今、自分史などを書いている人がいる、と聞いているが、いい気なものだと書いていた。 ところが、上の文章に見るように、オマエも意識せずに「自分史」を文章の中に散りばめていたのだよ! オマエは、むしろ僕以上に家族を通して自分自身の事を 無意識に語っていたのだよ!

愚妻の記憶力を信じてはいなかったのにもかかわらず、念のために家内に聞いてみた事が、それほど悪いことでしょうか?

だってぇ~、オマエは次のように書いていたじゃないか! 仮に、ヴァルター・ギーゼキングに聞けたとしても、「(曲を聴きながら、降りしきる雪の中で人形のような女の子に出会うことなど)私は知りません」、と言うだろうことは分っていると。。。

オイラは、確かに、そのように書きました。。。

だったら、オマエの心の優しい奥さんが「憶えていない」と言ったとしても当然じゃないかァ!

そうでしょうか?

それなのに、オマエは心の優しい良妻賢母の奥さんを「愚妻」と呼んでいるのだよ!

いけませんか?

この記事を ここまで読んできた女性は、オマエを蛇蝎(だかつ)のごとく嫌っていると僕は信じることができる。。。 二人の娘も、そういうオマエを嫌って家から出て行ったのだよ。。。

デンマンさん! オイラの家庭が崩壊するようなことを ネットで公開しないでくださいよゥ。。。

でもさァ~、実は、僕も<<子供の領分>>の中の<<雪は踊っている>>を聴いていた時に 赤いコートを着た女性が雪の降りしきる中を こちらにやって来るのが見えたのだよ。。。

マジで。。。? やっぱり、オイラとデンマンさんはクラシックを聴く感性が豊かなんですよねぇ~。。。

いや。。。 それは僕の幻覚ではなかった!

。。。と言うとォ~。。。?

赤いコートを着た軽井沢タリアセン夫人の小百合さんがバンクーバーのエアポートから 雪の降る中をやって来て僕のマンションに着いたのだよ。。。 笑顔を浮かべながら手を振っていた。。。 そして、雪もその時に降り止んだのだよ!


(snow109c.jpg)



まさかァ~。。。!? 冗談でしょう?



まさかァ~じゃないよ! これから、しばらく小百合さんとバンクーバーで過ごすことになるから、しばらくの間、オマエの記事は書くことができない! あしからず。。。



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【レンゲの独り言】


(manila07.gif)

ですってぇ~。。。

太田さんは、なんだか不満そうですわァ~。。。

これまで、デンマンさんは太田さんについて

ずいぶんと記事を書いてネット上にアップしたので、

太田さんも次のサイトで抗議録を公開したのです!


(kogiroku9.png)

『実際の抗議録』

デンマン注:しかし太田将宏が上の抗議録を掲載したサイトは消滅してしまいました!

 

デンマンさんも上の抗議録を読んで ムキになって反論しています。

『嘘を書く日記』

 

太田さんは、これに対しては反論ができないのか、それ以降 無言で通しています。

でも、そのうち 忘れた頃にまたコメントを書き込むかもしれません。。。

あなたは、どう思いますか?

とにかく、ネットには “めちゃキモい”人たちがウヨウヨしています。

太田将宏さんは、まだ良い方ですわ。

中には、まるで得意になって、愚かな事をして遊んでいる オツムの足りない人たちがたくさん居ます。

また、見かけは普通のブログでも、悪徳スパマーが手を変え品を変えて 悪徳サイトへ誘い込もうとしています。

スパムコメントで褒められると、ついついその気になって、

相手のブログへ飛んでゆき、お返しに、あるいはお礼にと思って

読者に登録してしまったりするものですわァ。

どうか スパマーの思う壺にはまらないでくださいね。

悪徳スパマーは悪徳サイトへ誘おうと

てぐすね引いて待っているのですから。。。

悪徳サイトを利用して、

メールアドレスで登録したりすると、

あなたのメールアドレスは第3者や第4者に売られてしまう危険性があります。

あなたは、そのようなスパム・コメントや 成りすましスパマーには

騙されないと思い込んでいるでしょう?

でもねぇ~、もしかすると騙されているかもよ。。。

とにかく気をつけてくださいね。

次回も、さらに面白い話題が続きます。

あなたも、どうか、また記事を読みに戻ってきてください。

では。。。


(hand.gif)


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クラシック鑑賞 6


 

クラシック鑑賞 6

 


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(music987.jpg)


(ireba03.jpg)


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(ohta03.png)

デンマンさん。。。、最近、クラシックにハマっているのですかァ~?


(kato3.gif)

僕はクラシックは、どちらかと言えば苦手なんだよ。。。

それなのに、どういうわけで、最近オイラと たびたびクラシックを鑑賞するのですか?

オマエは不満なのォ~?

いいえ。。。 デンマンさんと共にクラシックを鑑賞することができるなんてぇ~、天にも昇るよな気持ちですよ。。。 この際、スキップして喜んでもいいですか?

あのさァ~、いくらなんでも、それはオーバーじゃないのォ~? オマエが以前のようにスキップして喜んだら、この記事を読みにやって来たネット市民の皆様が呆れて他のブログへ飛んでしまうのだよ!

分かりました。。。 じゃあ、スキップして喜びたいのですけれど、デンマンさんが そのように言うのであれば、じっと我慢したいと思います。。。で、いったいどのようなクラシックの曲を鑑賞するのですか?

オマエが“前奏曲集”の中で書いていた記事から選んだのだよ。。。 ちょっと読んでごらんよ!


18.2 Dimitri Shostakovich

言いたい事を言うこと自体が目的なのではない。言いたい事を言える場、状況を得る事が目的なのである。それでこそ、言いたい事はいつでもいえる。それなしには言論、表現の自由はあり得ない。そうした自由は天与の、一人一人の人間に与えられた権利なのであろうか。それとも、我々が自ら獲得しなければならない、人間としての責務なのであろうか。多分、前者だけであったのならば、無責任な、と言う事は、無意味な自由だけしか残らないであろうし、後者だけであったならば、強者のみの自由に終わるであろう。
さて、今ある状況で何処まで言えるか、という事に神経を擦り減らしてきた後で、比較相対的には自由に発言できる場を確保した時に、或いはそうした状況にめぐり合った時に、ふと、自分は言うべき何ものをも現在はもっていない、という事に気がついた、という様な消耗しきった人を見る事は心痛む事である。
私は今、Dimitri Shostakovichのことを言っているのである。彼の作品の多くは、妥協の産物と言うよりは、失敗した弁証法なのであろう。此処で私が意味する弁証法とは、自己の主体性と自己の外界との軋轢及びそれらの止揚である。B. Bartókは前者しか見なかったが故に、<<Concerto for Orchestra>>でShostakovichの作品を揶揄していたのであろうか。そういう資格は一切の妥協を拒んだBartókにはあるのではあるが、私には、それは強者による事態の単純化ではないか、と思えるのである。
我々、西側に住んでいた人間は東側の人々よりも自由であったであろうか。多分そうで(あったで)あろう。しかしながら、何か身動きも出来ない、といった閉塞感にいる(いた)のは、私だけではないであろう。音楽ひとつとって見ても、無思考で無責任な自由と、金力による自由が野合した商業資本という権力によって、どれほど我々が管理されている(いた)か、という事が気にならないとしたら目出度い限りである。それではBartókの晩年の困窮もなかったことであろう。
Shostakovichについては多くの事が書かれてきた。また、彼自身の遺言とされた<証言>もある。それらに見られる記述に比較して、彼の作品の響きは、先入観なしに聴けば、それほどまでには暗くはない、というのが私の印象である。私がここで、陰鬱である方が良いとか、深刻である方が高級である、などとは言ってはいないのは断わるまでもないであろう。より悲壮がかった雰囲気をもつ作品を作る作曲家は、捜すまでもなく幾人もいるではないか(草子地:ポーランドの作曲家の作品に顕著である)。そうではなくて、私がShostakovichの作品を聴くときに辛く感じるのは、敢えて言うのであるが、その音楽の中に、何か薄笑いにも似た表情を見てとる時である。それが、私には、前後の経過とは然したる関連もなく、ときおり顔を覗かせる様に見える(聞こえる)のである。その、うわの空、とでもいった様な仮面の微笑は、彼の資質によるものなのか、はたまた強いられた古典主義、とでも言える彼の作曲技法からくるものなのか、私には分からないのであるが、もともと、それは区別できるものでもないかもしれない。好き
か、と聞かれれば、好きではない、としか答えられない一方、それが嫌いか、と聞かれれば、嫌いだとか不快だとか言うには、あまりに軽すぎる冷笑である。
丁度、ソヴィエト社会主義連邦共和国そのものが、反定立としての成熟した資本主義を欠いたままでの擬似的に成立した体制であったように、Shostakovichは、自己の尊厳と権力からの圧力を止揚するのに、その手段を奪われていたが故に失敗せざるを得なかった。その失敗した弁証法は、行き先のない結果を苦悩する。S. Kierkegaardは、苦悩だけが真実だ、と繰り返し書いていた。しかし、私は、Shostakovichに未だその真実を聴けないでいる。問題は、多分に、私の側にあるのかも知れないが、ただ、別の見方をすれば、彼についての記述から彼の作品が充分に自立する可能性については、今なお年月を要するのではないか、とも考えられるのである。私は、ここでは、例えば、J.S. Bachが神を信じていたか、いなかったかに拘わらずに、彼のfugaは自立している、と言う意味で<自立>という言葉を使用しているのであるが、一方、この例にしても、彼のKirchenkantatenが同じく自立しているかどうかは議論の余地があろう。しかるに、そうした自立に終局的な意味があるかどうかは、別次元の話題である。現代に於いて、それは個人の価値観の問題でもあり、そうでなければならないであろう。ただ、私は、Shostakovichの作品の幾分かは、永久にそうした自立を促すような性格を持ってはいない、と予想してはいるのである。
五十歩百歩と言う言葉がある。五十歩逃げた人間は、百歩逃げた人に対して誇ってはならない、という意味であろう。
私は、しかしながら、百歩逃げた人間は、五十歩逃げた人に対して恥じねばならない、という事をも忘れてはならないと思う。私のような者でさえ、仕事の第一線から退いたときは、これで戦いは終わった、としみじみ思ったものである。
一歩も逃げないで、なおかつ、他を裁かなかった人を、私はひとりだけ知っている。

蛇足(コーダ):
単純な家内は、不愉快な気分になるのなら、(そんな)音楽など聴かなければいい、などというが、その不愉快さを含めて何ものでも存在するのだ。直接的にも、間接的にも、他人とつき合うという事は、嫌であっても、そういう事であろう。いいとこ取りのつまみ食いは良くない。
ほど良い(名)曲を聴きたいと、と思う時に、私は、Shostakovichの<<ピアノ協奏曲 第二番 ヘ長調>>(Op. 102、特に第二楽章)を聴く。こういう言い方は作曲者に対して失礼であるのは承知しているのではあるが、典型的な名曲を聴くのも腹にこたえすぎる時というのもあるのである。Dimitri Shostakovich Juniorのさわやかな演奏(Chandos CHAN 8443)には眼をみはるものがある。




78-79ページ
『前奏曲集―あるアマチュアの覚書-作品 1の1』より




振り返ってみると、デンマンさんと共にクラシックを鑑賞するなんて今年になってから3度目のことですねぇ~。。。



確かに、そうなのだよ! でもさァ~、オマエの上の文章は とにかく読みづらいのだよ! おそらく、この記事を読み始めたネット市民の皆様の半分以上が、オマエの読みづらい文章を途中まで読んで 他のブログへ飛んでしまったと思うのだよ!

それほどオイラの文章は悪文でしょうか?

オマエの文章ほど読みづらい悪文を 僕は他に見たことがないよ!

マジで。。。?

僕には、到底、オマエの文章を最後まで読む気になれず、仕方がないから次のように楽しく、面白く読めるように編集し直したのだよ。。。 オマエも読んでごらんよ。。。


18.2 ドミートリイ・ショスタコーヴィチ

     Dmitri Shostakovich



(dmitri01.jpg)

 

言いたい事を言うこと自体が目的なのではない。
言いたい事を言える場、状況を得る事が目的なのである。
それでこそ、言いたい事はいつでもいえる。
それなしには言論、表現の自由はあり得ない。

そうした自由は天与の、一人一人の人間に与えられた権利なのであろうか。
それとも、我々が自ら獲得しなければならない、人間としての責務なのであろうか。
多分、前者だけであったのならば、無責任な、と言う事は、無意味な自由だけしか残らないであろうし、後者だけであったならば、強者のみの自由に終わるであろう。

さて、今ある状況で何処まで言えるか、という事に神経を擦り減らしてきた後で、比較相対的には自由に発言できる場を確保した時に、或いはそうした状況にめぐり合った時に、ふと、自分は言うべき何ものをも現在はもっていない、という事に気がついた、という様な消耗しきった人を見る事は心痛む事である。

私は今、ドミートリイ・ショスタコーヴィチのことを言っているのである。
彼の作品の多くは、妥協の産物と言うよりは、失敗した弁証法なのであろう。
此処で私が意味する弁証法とは、自己の主体性と自己の外界との軋轢及びそれらの止揚である。

ベーラ・バルトークは前者しか見なかったが故に、<<オーケストラのための協奏曲>>でドミートリイ・ショスタコーヴィチの作品を揶揄していたのであろうか。」



バルトーク:オーケストラのための協奏曲



ショスタコーヴィチ:ピアノ、トランペット、

弦楽器のための協奏曲(Op.35)


 

そういう資格は一切の妥協を拒んだバルトークにはあるのではあるが、私には、それは強者による事態の単純化ではないか、と思えるのである。

我々、西側に住んでいた人間は東側の人々よりも自由であったであろうか。
多分そうで(あったで)あろう。
しかしながら、何か身動きも出来ない、といった閉塞感にいる(いた)のは、私だけではないであろう。

音楽ひとつとって見ても、無思考で無責任な自由と、金力による自由が野合した商業資本という権力によって、どれほど我々が管理されている(いた)か、という事が気にならないとしたら目出度い限りである。
それではバルトークの晩年の困窮もなかったことであろう。

ドミートリイ・ショスタコーヴィチについては多くの事が書かれてきた。
また、彼自身の遺言とされた<証言>もある。
それらに見られる記述に比較して、彼の作品の響きは、先入観なしに聴けば、それほどまでには暗くはない、というのが私の印象である。

私がここで、陰鬱である方が良いとか、深刻である方が高級である、などとは言ってはいないのは断わるまでもないであろう。
より悲壮がかった雰囲気をもつ作品を作る作曲家は、捜すまでもなく幾人もいるではないか(草子地:ポーランドの作曲家の作品に顕著である)。

そうではなくて、私がドミートリイ・ショスタコーヴィチの作品を聴くときに辛く感じるのは、敢えて言うのであるが、その音楽の中に、何か薄笑いにも似た表情を見てとる時である。
それが、私には、前後の経過とは然したる関連もなく、ときおり顔を覗かせる様に見える(聞こえる)のである。
その、うわの空、とでもいった様な仮面の微笑は、彼の資質によるものなのか、はたまた強いられた古典主義、とでも言える彼の作曲技法からくるものなのか、私には分からないのであるが、もともと、それは区別できるものでもないかもしれない。

好きか、と聞かれれば、好きではない、としか答えられない一方、それが嫌いか、と聞かれれば、嫌いだとか不快だとか言うには、あまりに軽すぎる冷笑である。
丁度、ソヴィエト社会主義連邦共和国そのものが、反定立としての成熟した資本主義を欠いたままでの擬似的に成立した体制であったように、ドミートリイ・ショスタコーヴィチは、自己の尊厳と権力からの圧力を止揚するのに、その手段を奪われていたが故に失敗せざるを得なかった。
その失敗した弁証法は、行き先のない結果を苦悩する。
キルケゴールは、苦悩だけが真実だ、と繰り返し書いていた。

しかし、私は、ドミートリイ・ショスタコーヴィチに未だその真実を聴けないでいる。
問題は、多分に、私の側にあるのかも知れないが、ただ、別の見方をすれば、彼についての記述から彼の作品が充分に自立する可能性については、今なお年月を要するのではないか、とも考えられるのである。

私は、ここでは、例えば、バッハが神を信じていたか、いなかったかに拘わらずに、彼のフーガは自立している、と言う意味で<自立>という言葉を使用しているのであるが、一方、この例にしても、彼の教会カンタータが同じく自立しているかどうかは議論の余地があろう。
しかるに、そうした自立に終局的な意味があるかどうかは、別次元の話題である。

現代に於いて、それは個人の価値観の問題でもあり、そうでなければならないであろう。
ただ、私は、ドミートリイ・ショスタコーヴィチの作品の幾分かは、永久にそうした自立を促すような性格を持ってはいない、と予想してはいるのである。

五十歩百歩と言う言葉がある。
五十歩逃げた人間は、百歩逃げた人に対して誇ってはならない、という意味であろう。
私は、しかしながら、百歩逃げた人間は、五十歩逃げた人に対して恥じねばならない、という事をも忘れてはならないと思う。
私のような者でさえ、仕事の第一線から退いたときは、これで戦いは終わった、としみじみ思ったものである。
一歩も逃げないで、なおかつ、他を裁かなかった人を、私はひとりだけ知っている。

 

蛇足(コーダ):



 

単純な家内は、不愉快な気分になるのなら、(そんな)音楽など聴かなければいい、などというが、その不愉快さを含めて何ものでも存在するのだ。
直接的にも、間接的にも、他人とつき合うという事は、嫌であっても、そういう事であろう。
いいとこ取りのつまみ食いは良くない。

ほど良い(名)曲を聴きたいと、と思う時に、私は、ドミートリイ・ショスタコーヴィチの<<ピアノ協奏曲 第二番 ヘ長調>>(Op. 102、特に第二楽章)を聴く。



ピアノ協奏曲第2番 ヘ長調 Op.102

第2楽章[ナクソス・クラシック・キュレーション

#ロマンチック


 

こういう言い方は作曲者に対して失礼であるのは承知しているのではあるが、典型的な名曲を聴くのも腹にこたえすぎる時というのもあるのである。

ドミートリイ・ショスタコーヴィチ ジュニアのさわやかな演奏(Chandos CHAN 8443)には眼をみはるものがある。

 



ピアノ協奏曲第2番 ヘ長調 Op.102

第2楽章 アンダンテ


 

デンマン注: 残念ながらチャンドス・レコード会社制作のカタログ番号CHAN 8443の CDのコピーはYouTubeにはないようです。

でも、上のクリップの演奏は太田さんも“眼をみはるものがある”と言うかもしれません。




42-43ページ
『前奏曲集―あるアマチュアの覚書-作品 1の1』より

『前奏曲集』より




デンマンさんは、どういうわけで音楽そのものについて語ろうとしないで、オイラの家内のことを取り上げようとするのですかァ~?



僕は何度も言うように、クラシックは苦手なんだよ! 確かに、<<ピアノ協奏曲 第二番 ヘ長調 第2楽章 アンダンテ>>は、さわやかな演奏だと僕も思うよ。。。 ただ、その事についてクダクダとオマエのように 御託(ごたく)を並べたくないのだよ! さわやかな印象を受け止めることができただけで僕は十分に満足しているのだよ! その印象を大切に温めることが、僕にとってクラシック鑑賞なんだよ。。。

要するに、クラシックそのものよりもオイラの家内の反応の方がデンマンさんに取って より興味深いのですかァ~?

その通りだよ! オマエが奥さんの反応を文章の中に取り上げるから、こういうことになるんだよ! しかも、奥さんの言う通りなんだよ! 不愉快な気分になるのなら、(そんな)音楽など聴かなければいいのだよ! 100人のうち90人から95人が、そう思うはずだよ!

そうでしょうか?

だってさァ~、わざわざ不快な気分を味わうために、クラシックを聴く馬鹿はいないだろう!?

でも。。。、でも。。。、時には、いやな人間とも付き合わなければならないように、いやな気分になる曲も後学のために聴くべきだと思いますよ。。。

あのさァ~、僕は嫌な人間とは付き合わない主義なんだよ! だから、気分が悪くなるよな音楽も、聴かないのだよ!

でも。。。、でも。。。、デンマンさんだってぇ、ネットの世界で毛嫌いされている あの40ヅラ下げて 年老いた両親の世話になって狭い部屋に引きこもりながら 嫌がらせのコメントを書き回っている現実主義者と付き合ってあげているじゃありませんかァ~!


(ip19777b2.png)

『現実主義者@グアテマラ』



確かに、あの愚かな現実主義者はネットの世界で毛嫌いされている。。。 でもなァ、僕にとっては、ブログの記事のネタになる マジで興味深い男なんだよ!



つまり、ブログのネタになるので、あの馬鹿とデンマンさんはネットで付き合っているのですか? 

そうだよ!

。。。で、今日、オイラを呼び出して、デンマンさんは何が言いたいのですか?

あのさァ~、オマエはかつて次のように書いていたのだよ!


0.0 Prélude

(前略)

もともと、言葉の網目は音楽のnuanceをすくいあげるのには粗すぎるので、
音楽そのものについて直接的に表現されたものはすべて嘘である。

例えば、F.Lisztは、二つの深淵の間に咲いた可憐な花、などと L.v.Beethovenの
Klaviersonate in cis-moll (Op.27,Nr.2)の第二楽章を表現していたが、
もし、私が、同じ曲に違ったimageを感じたら、何か私が間違っているのであろうか。

仮に、Lisztがそのように感じた事実は事実であったとしても、
それを言ったり書いたりすることは全く無意味である。
それを、私は、言い(書き)っぱなしという。

それは、Lisztの自分自身に対する事実であって、
必ずしも音楽に対する事実ではないからである。
気障に気取って他人に話すような事ではない。

私は、これをローマン派の甘えと言いたい。
現代の音楽評論にも、作品につけ、演奏につけ、この類の文章が多すぎる。

(中略)

慇懃無礼に言って、Lisztのような文章を書くことは、私の手に余る。
私たちの出来ることは、音楽を聴いて、
客観的な事実に基づいて考えたことを記すことでしかない、と自覚しようではないか。

 



蛇足(コーダ):

昨今、自分史などを書いている人がいる、と聞いているが、
いい気なものだ、と私は思う。


私は、自分のことなどを書いても仕方がない、
と考えている人間である、と自分で思っている。

ただ、それを書くまいとしているわけではないので、
書くこともあるかと思うが、そんな場合でも、
むしろ、自分そのものではなく、その対象のほうに重きがあることを、
ここで、明言しておきたい。


 




『前奏曲集』の 101ページより抜粋




実は、僕は「自分史」を書いたのだよ! 下の写真をクリックすると 僕の「自分史」を読むことができる。


(myhist2.gif)



知ってますよ。。。 だから、オイラは昨今、自分史などを書いている人がいる、と聞いているが、いい気なものだと思ったわけです。



でも、オマエは僕の「自分史」を読んでないから、そのような事を言うのだよ! 僕の「自分史」は、むしろ「僕のネットでの記録」と言うべきもので、僕自身のことよりも、ネット上に掲載した記事のことが書いてあるだけなんだよ! オマエの上の文章の方が、生々しくオマエ自身のことが語られている!

オイラは自分のことを語ってませんよ。。。

あのさァ~、オマエは、そう思っているけれど、オマエの奥さんはオマエを映す鏡になっているのだよ。。。 だから、この記事を読む人も、オマエの奥さんの言動を通してオマエという人間の性格や人格や気質を どうしようもなく見てしまう!

マジで。。。?

そうだよ。。。 だから、オマエが書いた文章を読むと、すぐに次の文章がオツムに自然と思い浮かんでくるのだよ!




 

私は、この曲集を書き終えたとき、老人見習いから、正真正銘の老人になるのではないか、と思うこの頃である。
真の老人とは、もはや、失うべき何ものも無くなった人のことを言うのではないか。

長女は、私から去った。
次女は、中立を保つ為に、この家に寄りつかない。
家内と言えば、日本語も通じなくなってから何年にもなる。


私には、S.Kierkegaard の言った、一番易しく一番難しいこと、すべてを捨てること、が、案外、無理なくできるのではないか。
いや、その時には、捨てるべき何ものも見当たらなくなった境地であろう。

その意味では、老人になる前に、不慮の死で亡くなった人は気の毒である。
私は、若い時に、死ぬのはいいが風邪をひくのは嫌だ、などと言って、粋がって与太をほざいていた。
今も、願わくは、あまり苦しむことなく死を迎えられたなら、それにこしたことはない、と考えている。

Kierkegaard は、また、永遠とは有限が無限に出会う瞬間である、と言っていた。
私の人生に、かつて、そのような瞬間があったであろうか。
いや、それもまた、超越の命題であろう。

私の人生は、無明に迷ったそれに終わるのかもしれない。
しかし、私の背後には、母の祈りがあった。

ある麻薬中毒患者が、お母さん、僕は、こんな遠くまで来てしまった、と淋しげに呟いていたが、私は、麻薬中毒者ではないけれど、その気持ちが解かっている、と思う。
どのみち、人生は、rehearsal無しの、ぶっつけ本番なのである。

しかし、私は、F.M.Dostoevsky の「白痴」にある、あの「イッポリトの告白」に書かれているように、もし、生まれる前に、この条件を知らされていたとしたならば、私は、生まれるてくることを肯(がえ)んじなかったであろう、とは思っていない。
私は、感謝して死ねるように、今からでも、心の準備をしておこう。

 

S.D.G

コーダ(蛇足):

私の懐疑なるものが、深いのか、深くないのか、私自身も知る由もない。
仮に、深かったとしても、そもそも、懐疑の深さというものは、誇るべきものであるのか、という疑問が残る。




【デンマン注:】 改行を加え読み易くしました。あしからず。

S.Kierkegaard: キルケゴール (1813-1855) デンマークの哲学者

S.D.G.: Soli Deo Gloria (ラテン語) To God Alone the Glory(英語) 神に栄光あれ。

F.M.Dostoevsky: ドストエフスキー (1821-1881) ロシアの小説家・思想家




56-57ページ Michel-Richard de Lalande
『後奏曲集(後書きばかり)』 作品3
著者: 太田将宏
初版: 1994年1月 改定: 2006年9月

『馬鹿やって人気?』にも掲載
(2015年8月18日)




デンマンさん! んもおおおォ~! いったい何度引用すれば気が済むのですかあああァ~。。。



あのさァ~、オマエが昨今、自分史などを書いている人がいる、と聞いているが、いい気なものだと書いていたので、実は、オマエも意識せずに「自分史」を文章の中に散りばめている事を僕は示したまでなんだよ。 オマエは、むしろ僕以上に家族を通して自分自身の事を 無意識に語っているのだよ!



(laugh16.gif)


【レンゲの独り言】


(manila07.gif)

ですってぇ~。。。

これまで、デンマンさんは太田さんについて

ずいぶんと記事を書いてネット上にアップしたので、

太田さんも次のサイトで抗議録を公開したのです!


(kogiroku9.png)

『実際の抗議録』

デンマン注:しかし太田将宏が上の抗議録を掲載したサイトは消滅してしまいました!

 

デンマンさんも上の抗議録を読んで ムキになって反論しています。

『嘘を書く日記』

 

太田さんは、これに対しては反論ができないのか、それ以降 無言で通しています。

でも、そのうち 忘れた頃にまたコメントを書き込むかもしれません。。。

あなたは、どう思いますか?

とにかく、ネットには “めちゃキモい”人たちがウヨウヨしています。

太田将宏さんは、まだ良い方ですわ。

中には、まるで得意になって、愚かな事をして遊んでいる オツムの足りない人たちがたくさん居ます。

また、見かけは普通のブログでも、悪徳スパマーが手を変え品を変えて 悪徳サイトへ誘い込もうとしています。

スパムコメントで褒められると、ついついその気になって、

相手のブログへ飛んでゆき、お返しに、あるいはお礼にと思って

読者に登録してしまったりするものですわァ。

どうか スパマーの思う壺にはまらないでくださいね。

悪徳スパマーは悪徳サイトへ誘おうと

てぐすね引いて待っているのですから。。。

悪徳サイトを利用して、

メールアドレスで登録したりすると、

あなたのメールアドレスは第3者や第4者に売られてしまう危険性があります。

あなたは、そのようなスパム・コメントや 成りすましスパマーには

騙されないと思い込んでいるでしょう?

でもねぇ~、もしかすると騙されているかもよ。。。

とにかく気をつけてくださいね。

次回も、さらに面白い話題が続きます。

あなたも、どうか、また記事を読みに戻ってきてください。

では。。。


(hand.gif)


あなたが絶対、

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(juneswim.jpg)


『きれいになったと感じさせる

下着・ランジェリーを見つけませんか?』


『センスあるランジェリー』



(byebye.gif)

クラシック鑑賞 5


 

クラシック鑑賞 5

 


(Schoenberg.jpg)


(music987.jpg)


(ireba03.jpg)


(laugh16.gif)




(ohta03.png)

デンマンさん。。。、最近、クラシックにハマっているのですかァ~?


(kato3.gif)

僕はクラシックは、どちらかと言えば苦手なんだよ。。。

それなのに、どういうわけで、最近オイラと たびたびクラシックを鑑賞するのですか?

オマエは不満なのォ~?

いいえ。。。 デンマンさんと共にクラシックを鑑賞することができるなんてぇ~、天にも昇るよな気持ちですよ。。。 この際、スキップして喜んでもいいですか?

あのさァ~、いくらなんでも、それはオーバーじゃないのォ~? オマエが以前のようにスキップして喜んだら、この記事を読みにやって来たネット市民の皆様が呆れて他のブログへ飛んでしまうのだよ!

分かりました。。。 じゃあ、スキップして喜びたいのですけれど、デンマンさんが そのように言うのであれば、じっと我慢したいと思います。。。で、いったいどのようなクラシックの曲を鑑賞するのですか?

オマエが“前奏曲集”の中で書いていた記事から選んだのだよ。。。 ちょっと読んでごらんよ!


9.2 Arnold Schoenberg

かつて、人は、私が為したことで私を非難した。今日では、私がそれを為さないことで私を非難している。これは、A. Schoenberg自身が十二音技法について語った言葉である。この言葉故に、私は、彼を、彼の生涯のあり方を尊敬している。世間などというものは、そんなものだ、と私も思っているからでもある。
音楽だけではない。所謂<普通の人>たちの知的怠慢は、社会を腐らせ、ときの前衛を阻めて歴史を歪めている。これは一過性では無い。人類史の全般にわたって、これの繰り返しではなかったか。それに較べるならば、強盗、強姦、いや殺人でさえも一過性である。<普通の人>たちの知的怠慢こそ、戦争、侵略、植民地支配などを許し、起したのである。私は、ここで、私自身の知的水準などについては、何も述べてはいない。ただ、少なくとも、知的怠慢ではないように心がけて、努めて、この歳まで過ごしてきた。その結果としての、ここらに書いてあることが私の傲慢であるかどうかは、読み手、聴き手の判断に委せよう。
自分自身というのは、一番に身近にある未知なる存在であろう。それ故に、何かの実験に使うのに最も手っ取り早い。それ故に、自分自身について語る、という誘惑に私も陥り易い。それ故に、私自身のことではなく、私の考えていることに話を移そう。
考えてもみよう。この宇宙には、様々な質量の物体が、様々な速度で、様々なEnergieをおびて、様々な軌道を運動している。あたかも、天地創造の際に、Big – Bangの時に、何らの設計図もなかった如くではないか。この地球での海と大陸と配置のし方にしても同様である。更に、個々の人間も、何らの規格もなかった創造物に見えないか。ここで、思考実験になる。もし、丸でも四角でも、球体でも立方体でも、何でもよい、そのように全てが配置され、運動するようにこの宇宙が設計されていたのならば(草子地:過去完了形の仮定文である)その幾何学的に規格された世界は理想的であろうか。生まれてくる子供も同じ身長、同じ体重で同じ性格であったとしたならば、怖ろしくはないか。そうではないが故に、人、一人一人がかけがえがなく、もし天地の創造者がいたとしたならば、その創造物の多様性は、むしろ、彼の祝福ではなかったか。
そこまでは、私も同意する。私の思考実験の結果であるから当然であろう。やはり、人は、人それぞれであろう。しかしである。私が、何かにつけ、ギリギリに考えた結果、こうこうこういう結果になった、と誰につけ話したようなときに、相手は、ギリギリには程遠いところの返事を返してきたとしたら、それは、公平であろうか。私は、冗談を言っているのではない。例えば、選挙に於いても、ギリギリに考えて投票した一票も、金で買われた一票も、一票は一票であるというような、丸でも四角でも、球体でも立方体でも、何でもよい、というのが民主主義と謂われる社会制度ではないか。もしも、超越的な創造者が存在しないのであれば、ということは、自然科学的な意味でのBig – Bangで、この宇宙、世界が出来上がったのであれば、民主主義なんぞはバベルの塔であろう(草子地:私は、ここで、Big – Bangが正しくない、とか、進化論は嘘だ、などとは書いていない。民主主義も、たかだか、我々には他に選択肢がない、というのに過ぎない)。
柴田南雄は、芸術家の番付を試みるのは愚行だが、筆者(草子地:柴田のこと)は作曲家の重要度と作品の質、量を考慮に入れた場合、Debussy、Schoenberg、Stravinskyの三人の偉大さは、Webern、Berg、Bartókの三人を凌駕すると考える、と書いている(音楽は何を表現するか、青土社、1981年)。私は、私なんぞに較べたならば、いや、較べるべくもなく、この六人全部が偉大だと思っている。それぞれの分野で戦い抜いた彼らの生涯であったからである。特に、Schoenbergには敵が多かった、と聞いている(草子地:私は、ここで、彼には敵が多かったから偉大であった、などとは書いてはいない。所謂<普通の人>、つまり俗物たちと最後まで戦った、その感慨の言葉に、彼の音楽と共に、感銘を受けたからである)。
しかし、また、十二音技法のSerieというのは記憶し難い。一作品の中でだけではなく、同じ作品を日を隔てて聴くと、また初めて聴く作品のようで、過去からの積み上げが期待できず、聴き手としても進歩し難い。楽譜を手に入れて、色鉛筆でも使って、あちらこちらにmarkでもしなければならないのだろうか。A. Bergの<<Violinkonzert>>のそれが、例外的に、記憶しやすいのは、あれは、調性音楽の旋律そのものでもあるからではないか。
Schoenbergが過渡期の作曲家であったとしたならば、私もまた過渡期の聴き手なのかも知れない。私が好きな彼の作品は、Melodramsの<<Pierrot Lunaire >>(Op. 21)や<<Streichquartett Nr.2 in fis-moll>>(Op. 10)などの、この過渡期の作曲家の過渡期の時期にある作品である。それらは、それ以後しばらくの作品のようにはdogmatischではなく、一曲一曲が、かけがえなくeigenartigであるからである。彼の晩年の作品では、何と言っても、小倉朗が、現代音楽の数少ない傑作の一つ、と絶賛した<<A Survivor from Warsow >>(OP. 46)であろう。その作曲技術に関しては小倉の記述(現代音楽を語る、岩波新書、167)などに譲るとして、ここでは、作曲家自身による、非情、残酷、残忍、悲惨な事件のtextに拮抗する音楽は、感動などの心情的な興奮の彼方にあるべきであるにも拘らず、最後の男声合唱による<Shema Yisroel>(聴け、イスラエル)が響いた瞬間、言語を絶する衝撃を感じる、と私は記したい。

蛇足(コーダ):
過日、家内に、君の記憶力は、いいとか、わるいとか、と言うのではなくて、要するに、無いんではないか。と言ったところ、それを家内は、彼女の友人に話したそうである。ひどいことを言うわねぇ、というのがその人の反応だったそうである。彼女たちは、あいみたがいであったのであろう。
このようにして、<<A Survivor from Warsow >>の悪夢から醒めた私もまた俗物なのであろうか。それとも、<日常>というものは、そうでしかないのか。




42-43ページ
『前奏曲集―あるアマチュアの覚書-作品 1の1』より




振り返ってみると、デンマンさんと共にクラシックを鑑賞するなんて今年になってから3度目のことですねぇ~。。。



確かに、そうなのだよ! でもさァ~、オマエの上の文章は とにかく読みづらいのだよ! おそらく、この記事を読み始めたネット市民の皆様の半分以上が、オマエの読みづらい文章を途中まで読んで 他のブログへ飛んでしまったと思うのだよ!

それほどオイラの文章は悪文でしょうか?

オマエの文章ほど読みづらい悪文を 僕は他に見たことがないよ!

マジで。。。?

僕には、到底、オマエの文章を最後まで読む気になれず、仕方がないから次のように楽しく、面白く読めるように編集し直したのだよ。。。 オマエも読んでごらんよ。。。


9.2 アルノルト・シェーンベルク


(Schoenberg2.jpg)

(1874年9月13日 - 1951年7月13日)

 


かつて、人は、私が為したことで私を非難した。

今日では、私がそれを為さないことで私を非難している。


これは、アルノルト・シェーンベルク自身が十二音技法について語った言葉である。

この言葉故に、私は、彼を、彼の生涯のあり方を尊敬している。
世間などというものは、そんなものだ、と私も思っているからでもある。

音楽だけではない。
しょせん<普通の人>たちの知的怠慢は、社会を腐らせ、ときの前衛を阻めて歴史を歪めている。

これは一過性では無い。
人類史の全般にわたって、これの繰り返しではなかったか。
それに較べるならば、強盗、強姦、いや殺人でさえも一過性である。

<普通の人>たちの知的怠慢こそ、戦争、侵略、植民地支配などを許し、起したのである。
私は、ここで、私自身の知的水準などについては、何も述べてはいない。

ただ、少なくとも、知的怠慢ではないように心がけて、努めて、この歳まで過ごしてきた。
その結果としての、ここらに書いてあることが私の傲慢であるかどうかは、読み手、聴き手の判断に委せよう。

自分自身というのは、一番に身近にある未知なる存在であろう。
それ故に、何かの実験に使うのに最も手っ取り早い。
それ故に、自分自身について語る、という誘惑に私も陥り易い。
それ故に、私自身のことではなく、私の考えていることに話を移そう。

考えてもみよう。
この宇宙には、様々な質量の物体が、様々な速度で、様々なエネルギーをおびて、様々な軌道を運動している。
あたかも、天地創造の際に、ビッグバンの時に、何らの設計図もなかった如くではないか。
この地球での海と大陸と配置のし方にしても同様である。

更に、個々の人間も、何らの規格もなかった創造物に見えないか。
ここで、思考実験になる。

もし、丸でも四角でも、球体でも立方体でも、何でもよい、そのように全てが配置され、運動するようにこの宇宙が設計されていたのならば(草子地:過去完了形の仮定文である)その幾何学的に規格された世界は理想的であろうか。
生まれてくる子供も同じ身長、同じ体重で同じ性格であったとしたならば、怖ろしくはないか。

そうではないが故に、人、一人一人がかけがえがなく、もし天地の創造者がいたとしたならば、その創造物の多様性は、むしろ、彼の祝福ではなかったか。
そこまでは、私も同意する。
私の思考実験の結果であるから当然であろう。

やはり、人は、人それぞれであろう。
しかしである。私が、何かにつけ、ギリギリに考えた結果、こうこうこういう結果になった、と誰につけ話したようなときに、相手は、ギリギリには程遠いところの返事を返してきたとしたら、それは、公平であろうか。
私は、冗談を言っているのではない。

例えば、選挙に於いても、ギリギリに考えて投票した一票も、金で買われた一票も、一票は一票であるというような、丸でも四角でも、球体でも立方体でも、何でもよい、というのが民主主義と謂われる社会制度ではないか。
もしも、超越的な創造者が存在しないのであれば、ということは、自然科学的な意味でのビッグバンで、この宇宙、世界が出来上がったのであれば、民主主義なんぞはバベルの塔であろう。

(草子地:私は、ここで、ビッグバンが正しくない、とか、進化論は嘘だ、などとは書いていない。民主主義も、たかだか、我々には他に選択肢がない、というのに過ぎない。)

柴田南雄は、芸術家の番付を試みるのは愚行だが、筆者(草子地:柴田のこと)は作曲家の重要度と作品の質、量を考慮に入れた場合、ドビッシー、シェーンベルク、ストラヴィンスキーの三人の偉大さは、アントン・ヴェーベルン、ベルク、バルトークの三人を凌駕すると考える、と書いている(音楽は何を表現するか、青土社、1981年)。

私は、私なんぞに較べたならば、いや、較べるべくもなく、この六人全部が偉大だと思っている。
それぞれの分野で戦い抜いた彼らの生涯であったからである。

特に、アルノルト・シェーンベルクには敵が多かった、と聞いている。

(草子地:私は、ここで、彼には敵が多かったから偉大であった、などとは書いてはいない。所謂<普通の人>、つまり俗物たちと最後まで戦った、その感慨の言葉に、彼の音楽と共に、感銘を受けたからである)。

しかし、また、十二音技法のセリエル音楽というのは記憶し難い。
一作品の中でだけではなく、同じ作品を日を隔てて聴くと、また初めて聴く作品のようで、過去からの積み上げが期待できず、聴き手としても進歩し難い。
楽譜を手に入れて、色鉛筆でも使って、あちらこちらに印(しるし)でもしなければならないのだろうか。

アルバン・ベルクの<<ヴァイオリン協奏>>のそれが、例外的に、記憶しやすいのは、あれは、調性音楽の旋律そのものでもあるからではないか。



アルバン・ベルクのヴァイオリン協奏

 

アルノルト・シェーンベルクが過渡期の作曲家であったとしたならば、私もまた過渡期の聴き手なのかも知れない。

私が好きな彼の作品は、メロドラマの<<月に憑かれたピエロ>>(Op. 21)や<<弦楽四重奏曲第2番>>(Op. 10)などの、この過渡期の作曲家の過渡期の時期にある作品である。



月に憑かれたピエロ(Op. 21)



弦楽四重奏曲第2番(Op. 10)

 

それらは、それ以後しばらくの作品のようには教条的ではなく、一曲一曲が、かけがえなく一風変わった感じであるからである。

彼の晩年の作品では、何と言っても、小倉朗が、現代音楽の数少ない傑作の一つ、と絶賛した<<ワルシャワの生き残り>>(OP. 46)であろう。



ワルシャワの生き残り(OP. 46)

その作曲技術に関しては小倉の記述(現代音楽を語る、岩波新書、167)などに譲るとして、ここでは、作曲家自身による、非情、残酷、残忍、悲惨な事件のテクストに拮抗する音楽は、感動などの心情的な興奮の彼方にあるべきであるにも拘らず、最後の男声合唱による<聴け、イスラエル>が響いた瞬間、言語を絶する衝撃を感じる、と私は記したい。

 

蛇足(コーダ):



 

過日、家内に、「君の記憶力は、いいとか、わるいとか、と言うのではなくて、要するに、無いんではないか」と、言ったところ、それを家内は、彼女の友人に話したそうである。

「ひどいことを言うわねぇ~」、というのがその人の反応だったそうである。
彼女たちは、あいみたがいであったのであろう。

このようにして、<<ワルシャワの生き残り>>の悪夢から醒めた私もまた俗物なのであろうか。
それとも、<日常>というものは、そうでしかないのか。




42-43ページ
『前奏曲集―あるアマチュアの覚書-作品 1の1』より

『前奏曲集』より




やっぱり、クラシックに関心がない人にとっても 文章は解かり易く 楽しく 面白く読めるように書く必要があるのですか?



あのさァ~、はっきり言ってオマエが書いた悪文を見ると、何が書いてあろうと まったく読む気が起こらないのだよ!  しかも、僕はもともとクラシックには、あまり興味がない!

それなのに、どういうわけでオイラを呼び出してクラシック鑑賞をするのですか?

オマエが書いた文章の中にも、時たま僕の興味をそそることが書いてあるからだよ!

たとえば。。。?

次の箇所を読むと、僕はオマエの鋭い見方に共感するのだよ!




しょせん<普通の人>たちの知的怠慢は、社会を腐らせ、ときの前衛を阻めて歴史を歪めている。

これは一過性では無い。

人類史の全般にわたって、これの繰り返しではなかったか。

それに較べるならば、強盗、強姦、いや殺人でさえも一過性である。

<普通の人>たちの知的怠慢こそ、戦争、侵略、植民地支配などを許し、起したのである。


(atombomb.jpg)




デンマンさんとオイラの考え方は、水と油だと思っていたのに、オイラの考え方に マジで共感してくれるのですか?



そうだよ! だから、僕も<普通の人>たちの知的怠慢を知ってもらおうと思って次の記事を書いたのだよ!


(antiwar2.jpg)

『戦争絶対反対よね』



つまり、オイラが書いたクラシックの事については興味がないのですか?



あのさァ~、アルノルト・シェーンベルクが次のように言ったのだよ!


(Schoenberg.jpg)



 

If it is art, it is not for all,

and if it is for all, it is not art.

 

Arnold Schoenberg




この上の言葉を読んで僕は完全に納得する事ができたのだよ。。。



。。。と言うと。。。?

アルノルト・シェーンベルクの音楽が 芸術だと言うのなら、それはすべての人間が理解できるものではないのだよ!

つまり、デンマンさんにはアルノルト・シェーンベルクの音楽は理解できないのですか?

ちっともいい音楽だとは思えない! 僕には、理解できない! つうかあああァ~、僕には彼の音楽が好きになれないのだよ! 雑音に近い。。。 全曲聴く気になれないのだよ!

要するに、猫に小判なのですねぇ~。。。 確かに芸術とは、そういうものかもしれません。。。 すべての人間が理解できるものではないのでしょうねぇ~。。。 でも、理解できないのは、<普通の人>たちの知的怠慢だと思いますよ!

あのさァ~、何事もすべての人が理解できるという事はあり得ないという事なんだよ!

そうでしょうか?

オマエは、幸か不幸か? アルノルト・シェーンベルクの音楽が理解できる。。。 しかし、女心が理解できないのだよ!

あれっ。。。 どのような根拠の元に、そのようなエゲツナい事をデンマンさんは言うのですか?

だってぇ~、オマエは次のように言っているのだよ!


蛇足(コーダ):



 

過日、家内に、「君の記憶力は、いいとか、わるいとか、と言うのではなくて、要するに、無いんではないか」と、言ったところ、それを家内は、彼女の友人に話したそうである。

 


(angrygal.gif)

「ひどいことを言うわねぇ~」、というのがその人の反応だったそうである。

 

彼女たちは、あいみたがいであったのであろう。




オイラが家内に対して「君の記憶力は、いいとか、わるいとか、と言うのではなくて、要するに、無いんではないか」と、言ったは、オイラが女心を理解できないからだ、とデンマンさんは解釈したのですか?



その通りだよ! オマエはアルノルト・シェーンベルクの音楽が理解できても、女心は理解できない!

その証拠でもあるのですか?

オマエは自分でも 次のように書いてたじゃないかァ!




 

私は、この曲集を書き終えたとき、老人見習いから、正真正銘の老人になるのではないか、と思うこの頃である。
真の老人とは、もはや、失うべき何ものも無くなった人のことを言うのではないか。

長女は、私から去った。
次女は、中立を保つ為に、この家に寄りつかない。
家内と言えば、日本語も通じなくなってから何年にもなる。


私には、S.Kierkegaard の言った、一番易しく一番難しいこと、すべてを捨てること、が、案外、無理なくできるのではないか。
いや、その時には、捨てるべき何ものも見当たらなくなった境地であろう。

その意味では、老人になる前に、不慮の死で亡くなった人は気の毒である。
私は、若い時に、死ぬのはいいが風邪をひくのは嫌だ、などと言って、粋がって与太をほざいていた。
今も、願わくは、あまり苦しむことなく死を迎えられたなら、それにこしたことはない、と考えている。

Kierkegaard は、また、永遠とは有限が無限に出会う瞬間である、と言っていた。
私の人生に、かつて、そのような瞬間があったであろうか。
いや、それもまた、超越の命題であろう。

私の人生は、無明に迷ったそれに終わるのかもしれない。
しかし、私の背後には、母の祈りがあった。

ある麻薬中毒患者が、お母さん、僕は、こんな遠くまで来てしまった、と淋しげに呟いていたが、私は、麻薬中毒者ではないけれど、その気持ちが解かっている、と思う。
どのみち、人生は、rehearsal無しの、ぶっつけ本番なのである。

しかし、私は、F.M.Dostoevsky の「白痴」にある、あの「イッポリトの告白」に書かれているように、もし、生まれる前に、この条件を知らされていたとしたならば、私は、生まれるてくることを肯(がえ)んじなかったであろう、とは思っていない。
私は、感謝して死ねるように、今からでも、心の準備をしておこう。

 

S.D.G

コーダ(蛇足):

私の懐疑なるものが、深いのか、深くないのか、私自身も知る由もない。
仮に、深かったとしても、そもそも、懐疑の深さというものは、誇るべきものであるのか、という疑問が残る。




【デンマン注:】 改行を加え読み易くしました。あしからず。

S.Kierkegaard: キルケゴール (1813-1855) デンマークの哲学者

S.D.G.: Soli Deo Gloria (ラテン語) To God Alone the Glory(英語) 神に栄光あれ。

F.M.Dostoevsky: ドストエフスキー (1821-1881) ロシアの小説家・思想家




56-57ページ Michel-Richard de Lalande
『後奏曲集(後書きばかり)』 作品3
著者: 太田将宏
初版: 1994年1月 改定: 2006年9月

『馬鹿やって人気?』にも掲載
(2015年8月18日)




デンマンさん! んもおおおォ~! いったい何度引用すれば気が済むのですかあああァ~。。。



オマエが「証拠を見せろ!」と言ったから、くどいとは思ったけれど引用したのだよ!

オイラは、それほど女心が解らないのでしょうか?

オマエには、女心が理解できないから、奥さんと日本語も通じなくなってから何年にもなるのだよ!



(laugh16.gif)


【レンゲの独り言】


(manila07.gif)

ですってぇ~。。。

これまで、太田さんはデンマンさんに さんざ馬鹿にされたので

そのお返しをしています。

だから、太田さんは次のサイトで抗議録を公開したのです!


(kogiroku9.png)

『実際の抗議録』

デンマン注:しかし太田将宏が上の抗議録を掲載したサイトは消滅してしまいました!

 

デンマンさんも上の抗議録を読んで ムキになって反論しています。

『嘘を書く日記』

 

太田さんはこれに対しては反論ができないのか、それ以降 無言で通しています。

でも、そのうち忘れた頃にまたコメントを書き込むかもしれません。。。

あなたは、どう思いますか?

とにかく、ネットには “めちゃキモい”人たちがウヨウヨしています。

太田将宏さんは、まだ良い方ですわ。

中には、まるで得意になって、愚かな事をして遊んでいる オツムの足りない人たちがたくさん居ます。

また、見かけは普通のブログでも、悪徳スパマーが手を変え品を変えて 悪徳サイトへ誘い込もうとしています。

スパムコメントで褒められると、ついついその気になって、

相手のブログへ飛んでゆき、お返しに、あるいはお礼にと思って

読者に登録してしまったりするものですわァ。

どうか スパマーの思う壺にはまらないでくださいね。

悪徳スパマーは悪徳サイトへ誘おうと

てぐすね引いて待っているのですから。。。

悪徳サイトを利用して、

メールアドレスで登録したりすると、

あなたのメールアドレスは第3者や第4者に売られてしまう危険性があります。

あなたは、そのようなスパム・コメントや 成りすましスパマーには

騙されないと思い込んでいるでしょう?

でもねぇ~、もしかすると騙されているかもよ。。。

とにかく気をつけてくださいね。

次回も、さらに面白い話題が続きます。

あなたも、どうか、また記事を読みに戻ってきてください。

では。。。


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