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ベートーヴェンの永遠の愛人

 

ベートーヴェンの永遠の愛人

 


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デンマンさん。。。、どういうわけでベートーヴェンの永遠の愛人を持ち出してきたのですかァ~?


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オマエはベートーヴェンの永遠の愛人が嫌いなのォ~?

いや。。。 別に、オイラはベートーヴェンの永遠の愛人とは全く関係ないので、好きでも嫌いでもありませんよ。。。 でも、結婚もしなかったベートーヴェンに永遠の愛人が居たとは思えません。

あれっ。。。 オマエは『不滅の恋/ベートーヴェン』という映画を観なかったのォ~?

 


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デンマンさん! 結婚もしなかったベートーヴェンに永遠の愛人が居たはずがないのですよ。。。 もし、永遠の愛人が居たとすれば、それは彼の交響曲です。。。



あれっ。。。 オマエは、意外に気の利いたことを言うのだねぇ~。。。

うへへへへへへ。。。 その程度のことで煽(おだ)てないでくださいよゥ。。。 で、デンマンさんは上の映画を観たのですか?

最近、バンクーバー市立図書館でDVDを借りて観たのだよ。。。

 


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『実際のページ』





My Comment

Jul 09, 2019

Written and directed by Bernard Rose in 1994, this American-British docudrama follows Beethoven's secretary and first biographer Anton Schindler as he attempts to ascertain the true identity of the Immortal Beloved addressed in three letters found in the late composer's private papers.

Schindler journeys throughout the Austrian Empire interviewing women who might be potential candidates as well as through Beethoven's own tumultuous life.

After Beethoven's death in 1827, a three-part letter was found among his private papers addressed to a woman whom he called "immortal beloved".

Written in the summer of 1812 from the spa town of Teplice, the letter has generated a great deal of speculation and debate amongst scholars and writers as to her identity.

Among the candidates, then and now, are Giulietta Guicciardi, Therese von Brunswick, Josephine Brunsvik, Antonie Brentano, and Anna-Marie Erdody, some of whom appear in the film.

The film's director, Bernard Rose, though not a historian, claimed that he had successfully identified the addressed woman.

Although no scholar on Beethoven has endorsed it, his claim seems to me quite convincing and more justifiable than mere fiction.




1994年にバーナード・ローズ監督によって書かれたシナリオを基に制作された このアメリカ-イギリス共同作品は ベートーヴェンの秘書であり最初の伝記作家であるアントン・シンドラーがベートーヴェンの死後に見つかった手紙の宛名である“永遠の愛人”の身元を確かめる旅と行動の記録である。

シンドラーはオーストリア帝国を旅しながら、候補者となる女性たちに出会い、またベートーヴェンの激動的な人生を振り返る。

1827年にベートーヴェンが死亡した後、3部構成の手紙が見つかり、その宛名は“永遠の愛人”となっていた。

1812年の夏にテプリツェの温泉街で書かれた手紙は、発見以来「“永遠の愛人”とはいったい誰なのか?」という疑問を学者や作家たちに投げかけ、これまでに多くの憶測と議論を生んできた。

これまでに候補者として上がっているのは次のような女性たちである: ジュリエッタ・グイチャルディ、テレーゼ・ブルンスヴィック、ヨゼフィーネ・ブルンスヴィック、アントニー・ブレンターノ、そしてアンナ=マリー・エルデーディ。

そのうちの幾人かはこの映画にも登場する。

映画監督のバーナード・ローズは歴史家ではないが、“永遠の愛人”を首尾よく突き止めたことを主張し、映画の中で明かしている。

ベートーヴェン研究者・学者たちはそれを支持していないが、彼の主張は単なる推測以上に正当化できるものであり、説得力があるように僕には思える。

【デンマン訳】




デンマンさんも意外に少女趣味的なところがるのですねぇ~。。。



オマエは、そうやって僕を見下して馬鹿にしようとするわけぇ~。。。?

いや。。。 ただ、デンマンさんの上のコメントから素直に受けた印象を語ったまでですよ。。。

僕は映画を観て、なるほどと思ったのだよ!

つまり、映画監督が明かした“永遠の愛人”を、デンマンさんはマジで真実だと思い込まされてしまったのですか?

あのさァ~、オマエも、もし映画を観れば、その“永遠の愛人”を見て、なるほどと思うはずだよ!

でも。。。、でも。。。、デンマンさん自身、コメントでベートーヴェン研究者・学者たちはそれを支持していないと書いてるじゃありませんかァ!

そのように書いてある映画評論を読んだので、僕は公正を期する意味で書き加えたのだよ。。。

ところで、どうしてこの件についてオイラを呼び出したのですか?

オマエも、実は、ベートーヴェンの恋愛について次のように“間奏曲集”の中で書いていたからだよ。。。 ちょっと読んでごらんよ!


1.5 Ludwig van Beethoven (1770 – 1827)

 

L.v. Beethovenの《Fidelio》(Op. 72)は、初演の当時から幾多の論議を呼んできた。それがとりもなおさず、この四つの序曲をもつ彼の唯一のオペラが、他ならぬBeethovenの作品であるが故であることは、とかく忘れられがちであるのではないであろうか。
その議論の一つに、夫婦愛などをテーマとしたオペラが成功するはずがない、というのがあった(草子地:結婚したことのない彼、Beethovenが描く夫婦の理想像?などと半畳を入れるのはやめよう。こんなことは、結婚などをしていないからこそ出来るのであるから)。しかし、たとえ登場人物が夫婦ではなかったとしても、恋人同士であったとしても、話の筋道は大体つくであろうのに、それを、ことさらに、夫婦とした台本を使用したところに、私は、むしろ、Beethovenの破天荒な意思、意欲を感じるのである(草子地:その、彼らしい作品の説得力の力強さだけは、私にとって、私が結婚する前も後も変りがなかった)。
この作品は良い作品ではあるが、それでも、W.A. Mozartのオペラに較べれば、太陽を前にした星である、ということを誰かが言っていた(草子地:巧く表現したものである)。それはそうであろう。舞台は、貴族の館などではなくして、監獄の中での出来事である。何も、Beethovenの作品に、Mozartの音楽を聴こうとすることもなかろう。そんな風な聴き方は、Mozartだって野暮だと言うであろうし。
第三に、これは、この作品に限らないが、Beethovenの声楽の扱い方に対する批判が後をたたないことである。しかし、思い切って乱暴に言ってしまえば、彼は、彼のやり方で人声を扱ったまでで。それはそれで完成されたものではなかったか、と私は思うのである。器楽的で、唱うのに無理がある? 当り前であろう。苦悩を唱うのには苦しい発声も必要である。彼が、譲歩に譲歩を重ねて、何度も書き直したのは、その苦悩を聴いて欲しかったからであろう。繰り返すが、Beethovenは、Beethoven の声楽を書いたのであって、それが器楽的である、ということではあるまい。それを言うのならば、J.S. Bachの声楽曲だって充分に器楽的である。彼も、Mozartも同様な批判を受けたことがあることはあったが、それは途絶えて、Beethovenのそれだけが、今日なお指摘されている。奇妙なことには、誰も、BeethovenのFugeは、あまりにも和声的だ、などとは言わない。Beethovenは、BeethovenのFuge を書いた、ということは受け入れられている。
しかし、このオペラの筋書きには重大な欠陥がある。もし、FlorestanがFernandoの呼ぶように<Mein Freund!>であったのなら、何故、Leonoreは、あれだけの苦労、辛苦、危険を冒す必要があったのか、ということである。そもそも、直接Fernandoを訪れ、事情を説明すれば、それですんだことではなかったか。
それにも拘らず、抑圧からの解放、これは、常に現代的、現在的である。ただ、その解放がDon Fernandoの鶴の一声では成らぬことを知るのには、人類は、未だ、一世紀余りを要した。さもなくば、この作品中にDon Fernandoなどが出て来る幕などは無かったであろう。これを、また、Beethovenのせいにはすまい。そもそも、彼といえども、何らの見通しの無い時代には、強固の意志に貫かれた、信仰にも近いような信念なくしては、理想などはもち得ないではないか。その意味では、共和主義者Beethoven は古典的であった。
現代的であること、現代人であることは、必ずしも幸いなことではない。今、ソヴィエト社会主義連邦共和国や東欧諸国で起きている事態、あれは何であろうか。この様にして、この二十世紀最大の実験は無に帰するのであろうか。それでは、革命に血を流した勇敢なる闘士は浮かばれないであろう。それこそ、Stalinismeによる犬死に、それで終わるのであろうか。
犬死、と言えば、先の太平洋戦争で散った兵士たちの死もまた、全て犬死であった。遺族は、それぞれに、戦死者に何らかの意味を見い出したいと思い、それもまた当然すぎる心情ではあ
ろうが、私は、敢えて言いたい、それは犬死であったと。それである故にこそ、その無意味な悲惨を繰り返してはならない、と。犬死という認識ではなかったら、その悲惨さは権力によって薄められるのである。はっきり言おう。遺族団体は、現在、政府に媚びる圧力団体に堕しているではないか。言うべきことが言える間に、言うべきことは、きちんと言う、それしか出来ない私である。また、私は共産主義者でもないが、それを強調するまでもあるまい。
それにしても、私の知る限り、Beethovenの失恋の相手は、貴族の令嬢ばかりであった。奇妙な共和主義者ではあった、と思わざるを得ない。しかしながら、彼のmessageは、いまだ有効である。

(1990年12月12日。2006年5月29日改訂。)




13-14ページ
『間奏曲集―主題なき変奏-作品 2』より

デンマン注: 太田将宏が会費を滞納したようで上のリンク先は削除されてます!




あのさァ~、いつも思うのだけれど、オマエの文章はとっても読みづらいのだよ! 英語やドイツ語やラテン語が入り混じっている。。。



デンマンさん! 人のことは言えませんよ! デンマンさんの文章だってぇ、長くて読み始めると、じきに飽きてしまうのですよ。。。

それは、オマエの個人的な見解だと思うのだよ! 僕の記事は、日本語が解る世界のネット市民の 多くの皆様に読まれているのだよ!

134ヵ国のネット市民の皆様に読まれていることを自慢したいのですか?

いや。。。 自慢したいわけじゃない! オマエが「デンマンさんの文章だってぇ、長くて読み始めると、じきに飽きてしまうのですよ」と言ったから、僕の長い記事でも まめに読んでくれる常連さんが居る、と言いたかったまでだよ。。。 とにかく、オマエの文章は読みづらいので、多くの人が上の文章を読み飛ばしたと思うのだよ。。。

マジで。。。?

僕だってぇ、読みたくなかった。。。 でも、この記事を書く都合があるので、次のように読み易くして読んだのだよ。


1.5 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン

    (1770 – 1827)



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ベートーヴェンの《フィデリオ》(Op. 72)は、初演の当時から幾多の論議を呼んできた。

 


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フィデリオ

 

この作品は、ベートーヴェンの作品群の中でも特に難産に見舞われた作品のひとつであり、成功を収める版が完成するまでに何度も書き直しがなされている。

このオペラはベートーヴェン中期の代表作に挙げられる。
ブイイの原作の英雄主義的な性格や、当時のヨーロッパの知識人層に浸透し始めていた自由主義思想へのベートーヴェン自身の強い共感を背景として、英雄的な中期の作風が存分に反映されている。

ベートーヴェンの声楽曲によくあることだが、このオペラも歌手にとっては必ずしも歌いやすい音楽ではない。
特に、レオノーレとフロレスタンのパートを歌うには高度な技術を要し、そうでなければ要求された緊張感を表現することは到底不可能である。
このため、これらの配役を見事に演じた歌手は賛美の的となる。

囚人達の合唱、政治犯達の自由を謳う合唱、フロレスタンをレオノーレが助けにきた場面、そして救出が成功した場面などは、特筆に価する。
最後は、ソリストや合唱が代わる代わるレオノーレの勝利を讃えて、フィナーレを迎える。

多くの楽曲分野で後世の指標となる業績を残したベートーヴェンとしては完全な成功作とは言えない(ドイツオペラの最初の成果としても「魔笛」や「魔弾の射手」が挙げられることの方が多い)との批判もあるが、いちおう代表作のひとつとして今なお上演回数も多い。

これによって作曲者はモーツァルトとともに、主要音楽分野のほとんどに代表作を残した稀有の存在となった。
ドイツ圏ではバッハ以来、オペラをまったく残していない(または成功作がない)作曲家が多いだけに、貴重な作である。

 

主な登場人物

フロレスタン(囚人) テノール

レオノーレ(フロレスタンの妻) ソプラノ

ロッコ(刑務所員) バス

マルツェリーネ(ロッコの娘) ソプラノ

ヤキーノ(ロッコの補佐官) テノール

ドン・ピツァロ(刑務所長) バリトン

ドン・フェルナンド(大臣) バス




出典: 「フィデリオ」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


それがとりもなおさず、この四つの序曲をもつ彼の唯一のオペラが、他ならぬベートーヴェンの作品であるが故であることは、とかく忘れられがちであるのではないであろうか。
その議論の一つに、夫婦愛などをテーマとしたオペラが成功するはずがない、というのがあった。
(草子地:結婚したことのない彼、ベートーヴェンが描く夫婦の理想像?などと半畳を入れるのはやめよう。こんなことは、結婚などをしていないからこそ出来るのであるから)。

しかし、たとえ登場人物が夫婦ではなかったとしても、恋人同士であったとしても、話の筋道は大体つくであろうのに、それを、ことさらに、夫婦とした台本を使用したところに、私は、むしろ、ベートーヴェンの破天荒な意思、意欲を感じるのである。
(草子地:その、彼らしい作品の説得力の力強さだけは、私にとって、私が結婚する前も後も変りがなかった。)

この作品は良い作品ではあるが、それでも、モーツァルトのオペラに較べれば、太陽を前にした星である、ということを誰かが言っていた(草子地:巧く表現したものである)。
それはそうであろう。
舞台は、貴族の館などではなくして、監獄の中での出来事である。

何も、ベートーヴェンの作品に、モーツァルトの音楽を聴こうとすることもなかろう。
そんな風な聴き方は、モーツァルトだって野暮だと言うであろうし。

第三に、これは、この作品に限らないが、ベートーヴェンの声楽の扱い方に対する批判が後をたたないことである。
しかし、思い切って乱暴に言ってしまえば、彼は、彼のやり方で人声を扱ったまでで。
それはそれで完成されたものではなかったか、と私は思うのである。

器楽的で、唱うのに無理がある?
当り前であろう。
苦悩を唱うのには苦しい発声も必要である。

彼が、譲歩に譲歩を重ねて、何度も書き直したのは、その苦悩を聴いて欲しかったからであろう。
繰り返すが、ベートーヴェンは、ベートーヴェンの声楽を書いたのであって、それが器楽的である、ということではあるまい。
それを言うのならば、バッハの声楽曲だって充分に器楽的である。

彼も、モーツァルトも同様な批判を受けたことがあることはあったが、それは途絶えて、ベートーヴェンのそれだけが、今日なお指摘されている。
奇妙なことには、誰も、ベートーヴェンのフーガは、あまりにも和声的だ、などとは言わない。
ベートーヴェンは、ベートーヴェンのフーガ を書いた、ということは受け入れられている。

しかし、このオペラの筋書きには重大な欠陥がある。
もし、フロレスタンがドン・フェルナンドの呼ぶように<私の友よ!>であったのなら、何故、レオノーレは、あれだけの苦労、辛苦、危険を冒す必要があったのか、ということである。
そもそも、直接ドン・フェルナンドを訪れ、事情を説明すれば、それですんだことではなかったか。

それにも拘らず、抑圧からの解放、これは、常に現代的、現在的である。
ただ、その解放がドン・フェルナンドの鶴の一声では成らぬことを知るのには、人類は、未だ、一世紀余りを要した。

さもなくば、この作品中にドン・フェルナンドなどが出て来る幕などは無かったであろう。
これを、また、ベートーヴェンのせいにはすまい。

そもそも、彼といえども、何らの見通しの無い時代には、強固の意志に貫かれた、信仰にも近いような信念なくしては、理想などはもち得ないではないか。
その意味では、共和主義者ベートーヴェン は古典的であった。
現代的であること、現代人であることは、必ずしも幸いなことではない。

今、ソヴィエト社会主義連邦共和国や東欧諸国で起きている事態、あれは何であろうか。
この様にして、この二十世紀最大の実験は無に帰するのであろうか。

それでは、革命に血を流した勇敢なる闘士は浮かばれないであろう。
それこそ、スターリニズムによる犬死に、それで終わるのであろうか。

犬死、と言えば、先の太平洋戦争で散った兵士たちの死もまた、全て犬死であった。
遺族は、それぞれに、戦死者に何らかの意味を見い出したいと思い、それもまた当然すぎる心情ではあろうが、私は、敢えて言いたい、それは犬死であったと。

それである故にこそ、その無意味な悲惨を繰り返してはならない、と。
犬死という認識ではなかったら、その悲惨さは権力によって薄められるのである。

はっきり言おう。遺族団体は、現在、政府に媚びる圧力団体に堕しているではないか。
言うべきことが言える間に、言うべきことは、きちんと言う、それしか出来ない私である。
また、私は共産主義者でもないが、それを強調するまでもあるまい。

それにしても、私の知る限り、ベートーヴェンの失恋の相手は、貴族の令嬢ばかりであった。
奇妙な共和主義者ではあった
、と思わざるを得ない。
しかしながら、彼のメッセージは、いまだ有効である。




赤字はデンマンが強調)

13-14ページ
『間奏曲集―主題なき変奏-作品 2』より

デンマン注: 太田将宏が会費を滞納したようで上のリンク先は削除されてます!




あのさァ~、オマエはベートーヴェンの失恋の相手は、貴族の令嬢ばかりであったと言って、暗に共和主義者のベートーヴェンを非難しているけれど、そもそも“恋”というのは所属する階級など度外視して発生するものなんだよ。。。



あれっ。。。 デンマンさんは、意外に青二才的なことを言うのですねぇ~。。。 

オマエの奥さんは、本来ならばオマエなど相手にするような人物ではないのだよ!

つまり、オイラが身の程知らずに、平民が貴族の令嬢を娶(めと)ったという風に、デンマンさんは理解しているのですか?

だってぇ、そうだろう! オマエは、どちらかと言えば平民でも 若いくせに風采(ふうさい)のあがらない みすぼらしいおっさんだったのだよ! 心の優しい貴族的な令嬢のオマエの奥さんが、なぜオマエと結婚したかというと、オマエが盛りのついた野犬のように、燃え上がってしまったのだよ! つまり、ベートーヴェンが貴族の令嬢に恋したようなものだよ!

ベートーヴェンは振られたけれど、オイラは めでたく貴族の令嬢をゲットした、とデンマンさんは オイラを尊敬するのですねぇ~。。。 うへへへへへへへ。。。

違うのだよ。。。 違うのだよ! そうじゃない! 誤解してもらっては困るよ! オマエの奥さんは心が優しいのだよ! だから、オマエが他の女性から振られっぱなしなのを見て、可哀相に思って 自分を犠牲にしたつもりで オマエと結婚したのだよ!

見てきたような嘘を言わないでくださいよ! 何も知らない人は、本当にするじゃありませんかア!

それにもかかわらず、オマエは奥さんの優しい心に答えることができずに、次のようなことになってしまったのだよ!




私は、この曲集を書き終えたとき、老人見習いから、正真正銘の老人になるのではないか、と思うこの頃である。
真の老人とは、もはや、失うべき何ものも無くなった人のことを言うのではないか。

長女は、私から去った。
次女は、中立を保つ為に、この家に寄りつかない。
家内と言えば、日本語も通じなくなってから何年にもなる。


私には、S.Kierkegaard の言った、一番易しく一番難しいこと、すべてを捨てること、が、案外、無理なくできるのではないか。
いや、その時には、捨てるべき何ものも見当たらなくなった境地であろう。

その意味では、老人になる前に、不慮の死で亡くなった人は気の毒である。
私は、若い時に、死ぬのはいいが風邪をひくのは嫌だ、などと言って、粋がって与太をほざいていた。
今も、願わくは、あまり苦しむことなく死を迎えられたなら、それにこしたことはない、と考えている。


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Kierkegaard は、また、永遠とは有限が無限に出会う瞬間である、と言っていた。
私の人生に、かつて、そのような瞬間があったであろうか。
いや、それもまた、超越の命題であろう。

私の人生は、無明に迷ったそれに終わるのかもしれない。
しかし、私の背後には、母の祈りがあった。

ある麻薬中毒患者が、お母さん、僕は、こんな遠くまで来てしまった、と淋しげに呟いていたが、私は、麻薬中毒者ではないけれど、その気持ちが解かっている、と思う。
どのみち、人生は、rehearsal無しの、ぶっつけ本番なのである。



しかし、私は、F.M.Dostoevsky の「白痴」にある、あの「イッポリトの告白」に書かれているように、もし、生まれる前に、この条件を知らされていたとしたならば、私は、生まれるてくることを肯(がえ)んじなかったであろう、とは思っていない。
私は、感謝して死ねるように、今からでも、心の準備をしておこう。

S.D.G

コーダ(蛇足):

私の懐疑なるものが、深いのか、深くないのか、私自身も知る由もない。
仮に、深かったとしても、そもそも、懐疑の深さというものは、誇るべきものであるのか、という疑問が残る。




【デンマン注:】 改行を加え読み易くしました。あしからず。

S.Kierkegaard: キルケゴール (1813-1855) デンマークの哲学者

S.D.G.: Soli Deo Gloria (ラテン語) To God Alone the Glory(英語) 神に栄光あれ。

F.M.Dostoevsky: ドストエフスキー (1821-1881) ロシアの小説家・思想家




56ページ Michel-Richard de Lalande
『後奏曲集(後書きばかり)』 作品3
著者: 太田将宏
初版: 1994年1月 改定: 2006年9月

『馬鹿やって人気?』にも掲載
(2015年8月18日)




デンマンさん! んもおおおォ~。。。! 毎回、毎回、この文章を引用しないでくださいよゥ!



オマエがベートーヴェンの失恋の相手は、貴族の令嬢ばかりであったと言って、暗に共和主義者のベートーヴェンを非難したから、こうなったわけだよ。。。

つまり、デンマンさんはベートーヴェンをかばうのですねぇ~。。。!?

別に、僕はベートーヴェンのファンじゃないし、後援会の会員でもないのだよ!

だったら、家内の事でとやかく言うのは止めてくださいよ!

オマエが、そう言うのだったら、これ以上の突っ込みは言わないよ! でもなァ~、ベートーヴェンは若い頃は、けっこうプレーボーイだったのだよ!

また、見てきたような嘘を言わないでください!

嘘じゃないってばあああァ~。。。 上の映画を観れば、オマエも納得できるのだよう!

デンマンさんも大人気ないことを言うのですねぇ~。。。 映画というのは、それがドキュメンタリーであっても、結局、監督のオツムの中で描かれたフィクションですよ! どんなに優れた監督作品であっても、過去の現実、つまり、歴史的事実をそのまま映画になどできるはずがないのです!

要するに、映画の中の“永遠の愛人”とは、失恋ばかりしていたベートーヴェンが死に際に頭がおかしくなって、幻覚の中で書きなぐった手紙だ、とオマエは言うわけぇ~?

当たり前でしょう!

オマエは映画を観てないから、そういう愚かな事を言うのだよ!

オイラは、そもそも映画など信じません。。。 監督とシナリオライターの個人的な創作以外の何物でもありません!。。。 言ってみれば、幻想ですよ!

オマエは、そのようなロマンの無い事を言うから、心の優しい奥さんとの間で日本語も通じなくなってから何年にもなるのだよ!

デンマンさん! ベートーヴェンの“永遠の愛人”とオイラの家内とは、全く関係ないことです! 同じ土俵に上げないでくださいよゥ。。。 そんなことより、ベートーヴェンの“永遠の愛人”ってぇ、いったい誰なのですかァ~?

教えないよ! オマエが自分で映画を観ればいいじゃないかア!

デンマンさんのケチ! イケズゥ!



(foolw.gif)


【レンゲの独り言】


(manila07.gif)

ですってぇ~。。。

あなたは、『不滅の恋/ベートーヴェン』という映画を観ましたかァ~?

ベートーヴェンの“永遠の愛人”は、映画の中で明かされた女性がその人だと信じられますかァ~?

ええっ。。。 「そんなことは、どうでもいいから、もっと他に面白い話しをしろ!」

あなたは、私に、そのような口調で命令するのですか?

分かりましたわ。。。 それではソプラノ歌手の高島一恵さんの次の歌を聴いてしみじみと泣いてくださいねぇ~。。。

 


(kazue01.jpg)



 

ええっ。。。 「歌は、もういいから、他にもっとも面白いことを話せ!」

あなたは、そのような命令口調で あたしに強制するのですか?

分かりましたわ。。。

これまで、太田さんはデンマンさんに さんざ馬鹿にされたので

そのお返しをしたのですわァ。

だから、太田さんは次のサイトで抗議録を公開したのです!


(kogiroku9.png)

『実際の抗議録』

デンマン注:しかし太田将宏が上の抗議録を掲載したサイトは消滅してしまいました!

 

デンマンさんも上の抗議録を読んで ムキになって反論しています。

『嘘を書く日記』

 

太田さんはこれに対しては反論ができないのか、それ以降 無言で通しています。

でも、そのうち忘れた頃にまたコメントを書き込むかもしれません。。。

あなたは、どう思いますか?

とにかく、ネットには “めちゃキモい”人たちがウヨウヨしています。

太田将宏さんは、まだ良い方ですわ。

中には、まるで得意になって、愚かな事をして遊んでいる オツムの足りない人たちがたくさん居ます。

また、見かけは普通のブログでも、悪徳スパマーが手を変え品を変えて 悪徳サイトへ誘い込もうとしています。

スパムコメントで褒められると、ついついその気になって、

相手のブログへ飛んでゆき、お返しに、あるいはお礼にと思って

読者に登録してしまったりするものですわァ。

どうか スパマーの思う壺にはまらないでくださいね。

悪徳スパマーは悪徳サイトへ誘おうと

てぐすね引いて待っているのですから。。。

悪徳サイトを利用して、

メールアドレスで登録したりすると、

あなたのメールアドレスは第3者や第4者に売られてしまう危険性があります。

あなたは、そのようなスパム・コメントや 成りすましスパマーには

騙されないと思い込んでいるでしょう?

でもねぇ~、もしかすると騙されているかもよ。。。

とにかく気をつけてくださいね。

次回も、さらに面白い話題が続きます。

あなたも、どうか、また記事を読みに戻ってきてください。

では。。。


(hand.gif)


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■ 『宇宙は永遠か?』

■ 『利口な女狐』

■ 『村上春樹 小説と音楽』

■ 『世界で一番悪い国』

■ 『クラシック 馬鹿の見本』

■ 『92歳のピアニスト』

■ 『カラヤンと高島一恵』

■ 『春の祭典』

■ 『バッハと後妻』

■ 『マーラーと妻』



(juneswim.jpg)


『きれいになったと感じさせる

下着・ランジェリーを見つけませんか?』


『センスあるランジェリー』



(byebye.gif)
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マーラーと妻

 

マーラーと妻

 


(mahler01.jpg)


(mahler03.jpg)


(ireba03.jpg)


(laugh16.gif)




(ohta03.png)

デンマンさん。。。、どういうわけでマーラーと妻を持ち出してきたのですかァ~?


(kato3.gif)

オマエはマーラーと妻が嫌いなのォ~?

いや。。。 別に、オイラはマーラーと妻とは全く関係ないので、好きでも嫌いでもありませんが。。。

でも。。。、でも。。。、オマエはマーラーについて記事で書いていたのだよ。。。

デンマンさんは、よく覚えていますねぇ~。。。 確かに、次のように書きました。


11.2 イーゴリ・ストラヴィンスキー


(stravin03.jpg)

    (1882-1971)


 

アルノルト・シェーンベルクには敵が多かった、とのことである。
けれど、私には、彼にも寛容な一面もあった、と思われる。

シェーンベルクは終生グスタフ・マーラーを擁護していたし、パウル・ヒンデミットの作品、例えば《Das Marienleben (マリアの生涯)》(初版)を評価していた、と聞く。

 


(mary20.jpg)



 

そのことは、彼と彼らの立場や作曲技法の相違を考えると驚くべきことではないか。
彼自身は断念した調性に依存する音楽の、さらなる追求に対して、例えその先が見えていたとしても、未だ何ものかが出来る余地が可能性として残る限り、友情をもって他を見守っていたのではなかったか、と思われるのである。

悪しきは、ルネ・レイボヴィッツとその一派だ。
所詮、二、三流の、作曲家にもなり損なった評論家は、誰かの取巻きの一人となり、その誰かを嵩に掛けて、立場の違う他を攻撃する事によって、自己の幻のアイデンティティを確認し、顕示しようとする。
これは、ある種の自己欺瞞でもあろう。

彼らに較べれば<凡庸な作曲家>グスタフ・マーラーでさえ、遥かに創造的ではなかったか。 (略)




赤字はデンマンが強調)

51-52ページ
『前奏曲集―あるアマチュアの覚書-作品 1の1』より

デンマン注: 太田将宏が会費を滞納したようで上のリンク先は削除されてます!




つまり。。。、オイラがマーラーのことを書いたのを思い出して、デンマンさんはマーラーと妻を持ち出してきたのですかァ~?



オマエのために、そう言いたいところだけれど、実は、そうじゃないのだよ。。。 最近、バンクーバー市立図書館で借りたDVDで次の映画を観たのだよ。。。

 


(lib90628a.png)


『拡大する』

『実際のページ』



(mahler04.jpg)






My Comment

Jun 27, 2019

Directed by Andy Sommer in 2011, this 88-minute documentary depicts the life and works of Gustav Mahler.

Performances of Mahler's works became less frequent after his death in May 1911.

Much American critical reaction in the 1920s was negative, despite a spirited effort by the young composer Aaron Copland to present Mahler as a progressive, 30 years ahead of his time and infinitely more inventive than Richard Strauss.

The musical audiences of the 1930s would find Mahler second-rate.

Mahler's music was banned as "degenerate" during the Nazi era.

In 1960, however, Leonard Bernstein single-handedly rescued Mahler from oblivion, after 50 years of neglect.

Mahler himself predicted his place in history, once commenting: "I could perform my symphonies for the first time 50 years after my death!"

In the years following his centenary in 1960, Mahler rapidly became one of the most performed and most recorded of all composers, and has largely remained so to this day.

If you're a classic lover, this is a must-see.




2011年にアンディ・ゾンマー監督によって制作された この88分のドキュメンタリーは、グスタフ・マーラーの生涯と作品を紹介する。

1911年5月の死後、マーラーの作品の公演はそれほど頻繁には行われなくなった。

若い作曲家のアーロン・コープランドが、マーラーを30年先を行く作曲家であり、リヒャルト・シュトラウスよりもはるかに独創的だと喝破していたにもかかわらず、1920年代の多くのアメリカの批評家はマーラーの作品に対して否定的でした。

1930年代の聴衆はマーラーを二流だと見なしていた。

マーラーの音楽は、ナチス時代には「退廃的な音楽」として演奏が禁止されていた。

しかし、1960年、レオナルド・バーンスタインは、他の誰もが50年見過ごしていたマーラーの作品を忘却から救い出したのです。

マーラー自身が音楽史に置ける自分の位置を予測していました。

なぜなら、彼は次のように語っていました「自分の死後50年経てば、私の交響曲は演奏されるだろう」と。

1960年の生誕100周年を迎えてからの数年間で、マーラーの作品は、急速に認められ、すべての作曲家の中で最も演奏され、最も録音された作曲家のひとりとなり、今日でも その人気は続いている。

クラシック・ファンなら、この映画は必見です。

【デンマン訳】




つまり。。。、上のドキュメンタリーを観たのでマーラーと妻を取り上げたのですか?



そういうことだよ。。。

それなのに、どうしてオイラがかいた記事を冒頭に書き出したのですか?

オマエは次のように書いていたのだよ!




 

ルネ・レイボヴィッツとその一派に較べれば

<凡庸な作曲家>グスタフ・マーラーでさえ、

遥かに創造的ではなかったか。





つまり、オイラがマーラーについて書いたことに対してデンマンさんはムカついたのですか?



別に、ムカついたというほど感情を害したわけじゃないけれど、上の記録映画を観れば、「1960年の生誕100周年を迎えてからの数年間で、マーラーの作品は、急速に認められ、すべての作曲家の中で最も演奏され、最も録音された作曲家のひとりとなり、今日でも その人気は続いている」ということが分かるのだよ。

要するに、オイラがマーラーを<凡庸な作曲家>と書いたのでデンマンさんはムカついたのですねぇ~!?

いや。。。 僕はマーラーの熱烈なファンじゃないから、オマエがマーラーに対してどのような感想を持っていようが、どうでもいいのだよ。。。 でも、上の記録映画を観ると、「若い作曲家のアーロン・コープランドが、マーラーを30年先を行く作曲家であり、リヒャルト・シュトラウスよりもはるかに独創的だと喝破していた」と言うのだよ!

つまり、デンマンさんはマーラーは決して<凡庸な作曲家>じゃなく、むしろ30年先を行く独創的な作曲家だったと言いたいのですか?

上の記録映画を観ると、そういうことになるのだよ! 要するに、マーラーを<凡庸な作曲家>と書いたオマエこそ凡庸なのだよ!

結局、この事を言うために、わざわざマーラーを取り上げたのですか?

もちろん、それもあるけれど、それだけの事だったら、僕はマーラーと妻というタイトルにはしなかったよ。

つまり、デンマンさんはマーラーの妻に心が惹かれるのですねぇ~。。。

いや、別にマーラーの奥さんが気に入ったわけじゃないのだよ!

じゃあ、いったいマーラーの奥さんがどうだと言うのですか?

もう一度マーラーの妻・アルマの写真を見て欲しい!

 


(mahler03.jpg)

 



けっこう美人ですねぇ~。。。!



この写真に書いてある "Malevolent Muse (悪意のあるミューズ)" と言うのが意味深だよ。。。

「ミューズ」と言うのは、ギリシア神話で文芸を司る女神たちのことですよねぇ~。。。

あれっ。。。 オマエ、よく知ってるねぇ~。。。

その程度のことはクラシックを聴く者にとっては常識ですよ! 要するに、アルマは悪女の面も持ち合わせていたと言うことですねぇ~。。。

当たらずとも遠からずと言うところだなァ~。。。


アルマ・マーラー


(alma01.jpg)

1879年8月31日 – 1964年12月11日

 

アルマ・マリア・マーラー=ヴェルフェル(Alma Maria Mahler-Werfel)は、オーストリアの作曲家グスタフ・マーラーの妻。
結婚前の姓はシンドラー(Schindler)。
自身も作曲を行い、16の歌曲が今日に残されている。

華麗な男性遍歴で知られる。
ミューズにしてファム・ファタル


アルマは画家エミール・ヤーコプ・シンドラー(1842年 - 1892年)の娘としてウィーンに生まれる。
アルマが13歳のときに父が亡くなり、母は父の弟子のカール・モル(英語版)(1861年 - 1945年)と再婚する。
彼女は実父を愛した反面、養父は愛せなかったという。
裕福な中流の家で、母親は芸術家サロンの主宰者であった。

アルマは少女時代から絵画、文学、哲学、作曲に才能を発揮し、美貌で多くの男性芸術家をとりこにした。
世紀の変わり目に、当時新進気鋭の作曲家アレクサンダー・ツェムリンスキーに入門し、歌曲の作曲を開始する。

ツェムリンスキーはアルマに恋い焦がれていたというが、実際に恋愛関係にあったか否かは定かではない。
ツェムリンスキーより前には、グスタフ・クリムトとも深い仲にあったという。

1900年11月10日に、アルマはグスタフ・マーラーと知り合う。
アルマは当初、マーラーを嫌っていたという。
アルマはその時、多くの男性の信奉者らに囲まれており引く手あまたであった。

一方のマーラーには、女優との恋愛の噂やリハーサルでの不遜な態度という悪評が立っていた。
ところがアルマはマーラーからの求愛に応えて結婚を承諾する。
その際、アルマの一族や友人らからの反対は大きかった。

マーラーは田舎育ちでユダヤ人、しかも多額の借金を抱えており年齢差も大きかった。
またマーラー自身、アルマに献身的であることを求め、婚約時から彼女自身が作曲することを禁止するなど命令的な態度を取った。
婚約はしばらくの間、秘密にされた。

当初はウィーン楽壇の将来を担う芸術家を支えることに愛を見いだしたアルマだったが、マーラーの借金、育児、互いの交友関係が合わないことなどが彼女の心労の要因となる。
さらにアルマはマーラーの楽譜の清書を始め、夫の仕事を手伝う役を買って出るものの、彼女の献身的な態度をマーラーが常に尊重した訳ではなかったという。

夫婦の中が冷えきっていた折、アルマは建築家のヴァルター・グロピウスに出会い、求愛される。
彼女自身、グロピウスに惹かれていたという。

晩年のマーラーがアルマとの関係修復を望んでフロイトの診察を受けたというエピソードは有名である。
さらにマーラーは、アルマの関心を取り戻そうとして、彼女がかつてツェムリンスキーのもとで作曲した歌曲を、自らの契約先であるウニヴェルザール出版社に持ち込んだ。

1911年に未亡人となった後、画家のオスカー・ココシュカらとも関係を深めながらも(ココシュカの油彩画「風の花嫁」は、アルマとの性交渉を赤裸々に描いた作品として有名である)、グロピウスと再婚した。

 


(windbride.jpg)

 

グロピウスとの間にもうけた娘マノンは聡明で美少女だったが、虚弱で夭逝した。

マノンのことをことのほかかわいがったのが作曲家のアルバン・ベルクであり、ベルクはマノンの死後に『ある天使の追想に』の献辞を付したヴァイオリン協奏曲を作曲した。

ここで「天使」と呼ばれているのがマノンにほかならない。

 


(berg01.jpg)



 

ベルクはまだ生家が裕福だった思春期に使用人の女性に娘を身ごもらせた過去があり、その女性や娘と引き離された上、結婚相手の女性とは幸せな家庭をつくることができなかった(アルマは、晩年のベルクの不倫の恋をとりもち、後々までベルク未亡人の恨みを買っている)。

そのことからベルクは、マノンをわが子と重ね合わせていたとされる。

グロピウスとの関係が破綻した後、アルマは年少のフランツ・ヴェルフェルと再々婚した。
ヴェルフェルはイタリア・オペラ、とりわけヴェルディにしか興味がなく、同時代の音楽を大抵は罵倒しており、音楽的にアルマと共通する点がほとんどなかった。

アメリカ亡命後、とくにカリフォルニア時代のアルマは、自ら音楽サロンを主宰して、ストラヴィンスキー、シェーンベルク、コルンゴルトなど、ヨーロッパからの多くの亡命作曲家が出入りを重ねた。
コルンゴルトがストラヴィンスキーの前でシェーンベルクのピアノ曲を暗譜で通して演奏してみせ、驚かせたというエピソードは、アルマのサロンにおいての出来事である。

 



 

ちなみに、マーラーとの間にもうけた2人の娘のうち、長女マリア・アンナは幼くしてこの世を去ったが、次女のアンナ・ユスティーネは後に彫刻家として活躍した。

彼女も母と同じく多彩な恋愛遍歴で知られ、生涯に5回結婚している。

2人目の夫は、アルマの指示でマーラーの交響曲第10番の補筆を行った作曲家エルンスト・クルシェネクである。
第二次世界大戦中、母親がアメリカ亡命を選んだのに対して、アンナ・ユスティーネはイギリス亡命を選んだ。

 






出典: 「アルマ・マーラー」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




つまり、デンマンさんにとってグスタフ・マーラーはどうでもよくて、アルマ・マーラーがファム・ファタール(Femme fatale)-「男を破滅させる魔性の女」であることに、心惹かれるのですねぇ~。。。

 


(femme01.jpg)



 



オマエは、「男を破滅させる魔性の女」が嫌いなのォ~?



当たり前でしょう! オイラは8度結婚して7度離婚したエリザベス・テイラーのような女は嫌いです!

アルマの娘は母と同じく多彩な恋愛遍歴で知られ、生涯に5回結婚しているというけれど、やっぱり、娘は母親に似るようだねぇ~。。。

その通りです。。。 オイラの妻は、二人の娘を立派に育てて、二人とも小児科の女医としてアメリカの総合病院で真面目に働いています。。。

オマエの奥さんは立派だよ。。。 でも、その奥さんとオマエが日本語が通じなくなってから数年が経っているのだよなァ~。。。!?

デンマンさん! その話だけはここでしないでください!

分かったよ。。。 関心のある人は次の記事を読んでみてください。。。

 



(anabach2.jpg+anabach3.jpg)

『バッハと後妻』



(foolw.gif)


【レンゲの独り言】


(manila07.gif)

ですってぇ~。。。

あなたは、太田さんのようにファム・ファタール(Femme fatale)-「男を破滅させる魔性の女」が嫌いですか?

ええっ。。。 「そんなことは、どうでもいいから、もっと他に面白い話しをしろ!」

あなたは、私に、そのような口調で命令するのですか?

分かりましたわ。。。 それではソプラノ歌手の高島一恵さんの次の歌を聴いてしみじみと泣いてくださいねぇ~。。。

 


(kazue01.jpg)



 

ええっ。。。 「歌は、もういいから、他にもっとも面白いことを話せ!」

あなたは、そのような命令口調で あたしに強制するのですか?

分かりましたわ。。。

これまで、太田さんはデンマンさんに さんざ馬鹿にされたので

そのお返しをしたのですわァ。

だから、太田さんは次のサイトで抗議録を公開したのです!


(kogiroku9.png)

『実際の抗議録』

デンマン注:しかし太田将宏が上の抗議録を掲載したサイトは消滅してしまいました!

 

デンマンさんも上の抗議録を読んで ムキになって反論しています。

『嘘を書く日記』

 

太田さんはこれに対しては反論ができないのか、それ以降 無言で通しています。

でも、そのうち忘れた頃にまたコメントを書き込むかもしれません。。。

あなたは、どう思いますか?

とにかく、ネットには “めちゃキモい”人たちがウヨウヨしています。

太田将宏さんは、まだ良い方ですわ。

中には、まるで得意になって、愚かな事をして遊んでいる オツムの足りない人たちがたくさん居ます。

また、見かけは普通のブログでも、悪徳スパマーが手を変え品を変えて 悪徳サイトへ誘い込もうとしています。

スパムコメントで褒められると、ついついその気になって、

相手のブログへ飛んでゆき、お返しに、あるいはお礼にと思って

読者に登録してしまったりするものですわァ。

どうか スパマーの思う壺にはまらないでくださいね。

悪徳スパマーは悪徳サイトへ誘おうと

てぐすね引いて待っているのですから。。。

悪徳サイトを利用して、

メールアドレスで登録したりすると、

あなたのメールアドレスは第3者や第4者に売られてしまう危険性があります。

あなたは、そのようなスパム・コメントや 成りすましスパマーには

騙されないと思い込んでいるでしょう?

でもねぇ~、もしかすると騙されているかもよ。。。

とにかく気をつけてくださいね。

次回も、さらに面白い話題が続きます。

あなたも、どうか、また記事を読みに戻ってきてください。

では。。。


(hand.gif)


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バッハと後妻

 

バッハと後妻

 


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デンマンさん。。。、どういうわけでバッハと後妻を持ち出してきたのですかァ~?


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オマエはバッハと後妻が嫌いなのォ~?

いや。。。 別に、オイラはバッハと後妻とは全く関係ないので、好きでも嫌いでもありませんが。。。

でも。。。、でも。。。、オマエはバッハの前妻と後妻について記事で書いていたのだよ。。。

デンマンさんは、よく覚えていますねぇ~。。。

オマエと奥さんの夜の生活がうまくいってないという事を仄(ほの)めかしていたので僕には忘れることができない文章なのだよ。。。


1.1 クラウディオ・モンテヴェルディ

    (1567 – 1643)



(monte03.jpg)

 



 

これはどうしたことか。

どの時代の、どの作曲家の音楽を聴いても、私は、近頃 好意と嫌悪を同時に持つような反応をしている自分を感じるのだ。

クラウディオ・モンテヴェルディの<<アリアンナの嘆き>>を聴き始めたとき、そのLasciatemi morire(Let me die;死なせて)、のところで、何か間の抜けた、あるいは、虚ろな響きを聴いて、私は疲れているのか、と途惑った。


(monte04.jpg)



実は、morire(死ぬ)、と唱われる処に平行五度があったのである。
モンテヴェルディのことであるので、これは、彼が意識してのことである、と私は信じる。

つまり、これは、見捨てられたアリアンナの内面の空虚としての意味がある、いや、生半可な感情主義以上に効果があるとすら思えるのではあるが、私には、何か、かなわないなあ、といった印象を拭いきれない。
バッハも言ったように、やはり、平行五度や平行八度は聴き苦しいのであろう。
私は、無論、ここで、モンテヴェルディに苦情をいっているのではない。

この嘆きは、オペラのアリアとしては、超一級である、と私も思う。
こうした効果は、所謂絶対音楽では出番が無いであろう。

次なる問題は、私がオデュッセウスに捨てられたアリアンナに何処まで切実に同情しなければならないかにあろう。
それは、私には荷がかちすぎる。
東洋人の男性である私の心が動くなどというのは、もともと無理だったのではなかったか。

かといって、好奇心を満たすだけにしても、感覚的には耳障りという障害がある。
平衡五度に感動するわけにはいかないのでる。

しかし、彼女への同情が無ければ感動も無いであろう。
さらに言えば、これは、現代のヨーロッパ人にとっても、いや、バロック初期のイタリア人ですら、程度の差こそあれ同様なのではないか。
作品が立派である、という認識と、それが私(たち)に感動をもたらす可能性は、不幸にして乖離している。

このことは、一つの作品の水準は、好きとか嫌いとか、あるいは、その作品の有用性(草子地:つまり、感動を求めてそれを聴こうとする人にとっては、感動そのもの)とは別の平面にある、ということの例証にもなるであろう。

音楽は、けっして、世界共通の言語などではない。
異なる時代にも亘る言語ですらなかった。
それでは、ヨーロッパ音楽の伝統とは、そもそも、いったい何であったのであろうか。

小澤征爾が言っていたことであるが、彼が若い頃、東洋人がヨーロッパの音楽をする意味、可能性について問われたとき(草子地:そういうことを聞く田舎者は世界のどこにでもいるものである。)、音楽は、世界の共通の言語であるからと、(草子地:当たり障り無く)返事をしていたところが、近頃では、何か自分が壮大な実験をしているのではないか、と思うようになってきたそうである。

壮大な実験、これは、彼だけのことではないであろう。
それにしても、ようやく我々が西洋音楽を扱うことに関して欧米(を超える)水準に達した今日の、この倦怠は何であろう。

かといっても、我々が邦楽に戻るなどとは、一般的に言って、非現実的であり、できない相談である。
バスク語を話せ、と言われた方が、まだしも抵抗が少ないのではないか。

とはいえ、短二度の導音などの無い音楽に、何か、或る懐かしさを感じるのは何故であろう。
平行五度の空虚を東洋人でも感知されるのと同様に、その懐かしさを感じとるのには西洋人であっても変りはないであろう。
音楽が世界共通の言語などではないとしても、双方がコミュニケーションが取れないほど異質なものを基礎にしているわけではない、といったとしたら、結論としては平凡すぎるのか。

それにしても、不思議なことではある。
私自身、長二度や増二度の導音のある音階による音楽など、何時、何処で、聴いたことがあったか、まったく記憶に無いからである。

少なくとも、今までに、長、短調の音楽を聴いた回数や時の長さは、旋法や五音音階のそれに較べては比較にならないほど多く、長かったはずである。
何故か、調性音楽には、そのような懐かしさは感じさせない風がある。

いつだったか、小澤征爾とカラヤンの指揮するモーリス・ラヴェルの<<ボレロ>>を聴き較べたことがあった。
小澤の演奏は、英語で言うtoo square(単純で直線的で堅苦しい演奏)であったが、カラヤンのそれは、フランス人でもないのに、何とも、セクシーで妖艶ですらあった。
やはり、小澤のような指揮者でさえ日本人では及びがたいところが今なおある。

 


(ravel001.jpg)



    小澤征爾・指揮

モーリス・ラヴェル ≪ボレロ≫







    カラヤン・指揮

モーリス・ラヴェル ≪ボレロ≫


 

一方、まだピーター・ウンジャンが第一ヴァイオリンを奏いていたころの東京クオルテットがトロントに来たときのラヴェルの演奏は、未だかつて聴かれたことのない程の名演であった。
ただ、その時の解説者による、何故かピーター・ウンジャンだけに対するインタヴュでの質問で、最後に聞くが、ただひとりで日本人に交じって演奏するのをどのように感じているか、というのがあった。
想像力の欠如した、この程度の思考様式の人間もここでは多いのである。

ピーター・ウンジャンが如何に答えるかを期待していたのであろうか。
答えようが無いではないか。彼らの演奏以外には。
それ以外の、どうでもいいことを聴きたがるのは、下賎な野次馬根性であろう。

そういえば、バッハは、作品855のフーガに於いて、二箇所にわたって壮大に平行八度を用いている(草子地:第19-20小節と第38小節)。


(gould765.jpg)



これほどあからさまにやられると、良いも悪いもない。
ただ、ぎくりとして、あいた口が塞がらない、といった効果がある。
このフーガは、この曲集の中で、唯一の二声のフーガである故に、よけいにめだつ。

 



追記(コーダ):

 

私は、何々至上主義、といったものが嫌いである。
例えば、恋愛至上主義。だいたい、恋愛感情などというものは、ある年頃の男女の肉体に触発された心理現象にすぎないのではないか。

そもそも、成熟した夫婦が、夫婦であるのにもかかわらずに仲が良い、などというのは、どこか異常ではないか。
長い間、生活を共にしていて、まだ互いに性的感情を持ったとしたならば、それは近親相姦に近くはないか。

 


(mariabach.jpg)

マリア & ヨハン・ゼバスティアン・バッハ

 

バッハは、前妻、後妻と共に仲が良かった様子であるので、私はここを書いていて、少し、困っているが。
芸術至上主義も同じ。
人生は芸術を演出する時空ではない。




赤字はデンマンが強調)

6-7ページ
『間奏曲集―主題なき変奏-作品 2』より

デンマン注: 太田将宏が会費を滞納したようで上のリンク先は削除されてます!

『クラシック鑑賞 15』より
(2018年4月25日)




つまり。。。、つまり。。。、今日はオイラと妻の夜の生活を暴(あば)くために、バッハと後妻を持ち出してきたのですかァ~?



そうじゃないよ! オマエの夜の生活など、ネット市民の皆様は誰も興味など持ってないよ!

それなのに、どういうわけでバッハと後妻を持ち出してきたのですかァ~?

実は、最近、バンクーバー市立図書館で借りたDVDで次の映画を見たのだよ。。。

 


(lib90622a.png)


『拡大する』

『実際のページ』



(anabach1.jpg)






My Comment

June 20, 2019

Directed by Jean-Marie Straub and Daniele Huillet in 1967, this German docudrama depicts the lives and works of Johann Sebastian Bach and his second wife Anna Magdalen.

The film stars renowned harpsichordist Gustav Leonhardt as Johann Sebastian Bach and Christiane Lang as Anna Magdalena Bach, and focuses on the orchestral music performed by Concentus Musicus and conducted by Nikolaus Harnoncourt.

If you're crazy about Bach's music, this is a must-see; otherwise, forget it or else you fall into deep sleep.




1967年にジャン=マリー・ストローブとダニエル・ユイレ夫婦によって制作されたこのドイツのドキュドラマは、ヨハン・セバスチャン・バッハと彼の後妻アンナ・マグダレンの生涯と作品を描いている。

バッハを演じるのは、有名なチェンバロ奏者のグスタフ・レオンハルト。

アンナ・マグダレンを演じるのはクリスティアーヌ・ラング。

映画の中の演奏はコンセンサス・ミュージックスによるもので、ニコラウス・ハーノンコートが指揮を担当した。

バッハの音楽にハマっているなら、この映画は必見です。

そうでないなら、見てもつまらないでしょう。 観ながら深い眠りに落ちるだけです。

【デンマン訳】




つまり。。。、つまり。。。、オイラの記事を読んで、バッハと後妻の夜の生活を覗くことができると思ってデンマンさんは上の映画を観たのですか?



僕のコメントをよく読めよ! バッハの音楽に関心がない人が見たら、全く面白くないので熟睡してしまうと書いてあるだろう!

要するに、デンマンさんも映画を見ながら熟睡してしまったのですか?

もし、映画を見ながら熟睡していたら、この記事を書く気にならなかったのだよ!

デンマンさんは、いったい何が言いたくてバッハの後妻を取り上げたのですか?

おそらく、この記事をここまで読んだネット市民の皆様はバッハと後妻に興味を持っているに違いない!

。。。で、デンマンさんが後妻について書くのですか?

すでにウィキペディアに書いてあるので、ここに書き写すことにするよ。。。


アンナ・マクダレーナ・バッハ

Anna Magdalena Bach


1701年9月22日 - 1760年2月22日または2月27日

 

アンナ・マクダレーナ・バッハは、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの後妻で、ドイツの声楽家、作曲家。

ザクセン=ヴァイセンフェルス公の宮廷トランペット奏者、ヨハン・カスパール・ヴィルケの7人きょうだいの末子(姉5人、兄1人)としてツァイツに生れる。
母マルガレータ・エリーザベトは、オルガニストの娘であった。

1720年には、アンハルト=ケーテン侯レオポルトの宮廷ソプラノ歌手としてケーテンでは有名だった。
同地で1717年より宮廷楽長を務めるヨハン・ゼバスティアン・バッハと知り合いとなるが、ヴィルケ家とバッハ家は、音楽家同士として早くから交流があった可能性が高い。

1721年12月3日にバッハと結婚した。
バッハは前の年に先妻のマリア・バルバラを亡くしており、アンナと再婚した時には4人の子供を抱えていた。

バッハとの間に、1723年から1742年までおよそ20年にわたって13人の子をなしたが、そのうち7人は早世している。
生き延びた子のうち、作曲家として名をあげたのが、ヨハン・クリストフ・フリードリヒ・バッハとヨハン・クリスティアン・バッハであった。

バッハとは16歳の年齢差があったが、共通する音楽への関心によって結ばれ(1730年にバッハが友人に送った手紙には「今の私の妻はなかなかよい澄んだソプラノを歌うゆえに」と綴っている)、幸せな家庭生活を送ったとされており、しばしばバッハの浄書稿や筆写譜の作成に協力した。
このためアンナの筆跡は、時を経るにつれて、次第に夫に似るようになったと言われている。

バッハの死後1750年には、成人した息子たちはそれぞれ独立しており(未成年のクリスチャンは裕福な次男カール・フィリップに引き取られた)、アンナは2人の未婚の娘と同居を続けた。
娘たちはアンナに尽くしたが、自立した息子たちから経済的に援助を受けていたという形跡は見られず、寡婦や未婚の女性たちと同じく、当時の慣習に従ってライプツィヒ市当局やライプツィヒ大学からの支援、臨時の寄付等により慎ましく余生を送ったようである。

 

アンナ・マクダレーナ・バッハの日記

アンナ・マグダレーナ・バッハの著とされていた『バッハの思い出』は、Esther Meynellが1925年に出版した "The Little Chronicle of Magdalena Bach" が原著である。
著者は偽書を意図したわけではなく、あくまで創作(フィクション)として発表している(1925年米ガーデンシティーで出版されたDoubleday, Page & Co.版には著者名が明記されており、巻末には「バッハの生涯をよく知る人が読めば本書のいくつかのエピソードが想像の産物であることがわかるだろう」と付記されている)。

事実関係については1925年時点でのバッハ研究の成果を反映しているが、現時点では誤りも散見される。
おそらく本書が独訳されてドイツで出版されたとき、著者名を伏せたところから錯誤が生じたと考えられる(Oxford Composer Companions J.S.Bachには、本書は1925年、ロンドンで匿名で出版されたという記述がある)。

ドイツ人にとっては、本書がフィクションであることは自明だったが、これを読んだ日本人が本当にアンナ・マグダレーナが著したものと誤解し、独語版から翻訳した。
現在でもまだ日本ではアンナ・マグダレーナが著したかのような体裁で出版されているので注意が必要である。

 

映画「アンナ・マクダレーナ・バッハの年代記」

フランス出身の映画監督ジャン=マリー・ストローブとダニエル・ユイレが西ドイツとイタリアで共同製作した作品。
1967年発表。大作曲家の半生と日常を、妻の視点と声を交えてつづった映像作品として有名。

18世紀の生活習慣や演奏風景を再現するため、コレギウム・アウレウム合奏団のほか、ボブ・ファン・アスペレンやニコラウス・アーノンクール、アウグスト・ヴェンツィンガーなど、当時の古楽器演奏家や古楽演奏家が、当時の衣装を着けて出演した。
こんにちの古楽演奏の水準からすると、歴史考証の点で隔世の感があるのは否めない。

しかし、バッハを演ずるグスタフ・レオンハルトの威厳ある演技と演奏は、現在でも評価が高い。
タイトル・ロールはクリスティアーネ・ラングが演じている。

偽書『アンナ・マクダレーナ・バッハの日記』との混同を避けるために、日本語版のビデオやDVDでは上のような訳になっているが、原題(Chronik der Anna Magdalena Bach)に基づく「アンナ・マクダレーナ・バッハの日記」という呼び名も依然として定着している(近年の上映に際してもこの名称が用いられている)。




出典: 「アンナ・マクダレーナ・バッハ」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




映画では18世紀の生活習慣や演奏風景が再現されていたのですか?



もちろん、僕は18世紀のドイツに行ったことがないから判らないけれど、映画を観ながら18世紀の生活習慣や演奏風景は、こうだったのだろうなァ~!。。。と興味深く観たのだよ。。。 特に、バッハがパイプオルガンを演奏するシーンは、カメラが足元を写したのが印象的だったよ。。。 両手両足を使って演奏する様子が、実にダイナミックだったよ。。。

。。。で、何に感動したのですか?

とりわけ感動したようなことはなかったけれど、「バッハとの間に、1723年から1742年までおよそ20年にわたって13人の子をなしたが、そのうち7人は早世している」というのを読んで、この当時の女性は大変だったと思ったよ。。。

確かに、敬虔なカトリック教徒は産児制限してはならないですからねぇ~。。。 仲のよい夫婦の間には、ボコボコ子供が生まれるわけですよ。。。

しかもだよ。。。 せっかく生んでも半分が、生後まもなく死んでしまうんだよ。。。 泣き言を言いたくなるわなあああァ~。。。 ところで、オマエは奥さんと仲が悪かったので40年の結婚生活で娘が二人生まれただけだったよなァ~。。。

仲が悪かったということを強調しないでください。。。

でも、オマエ自身が次のように書いていたのだよ。。。




私は、この曲集を書き終えたとき、老人見習いから、正真正銘の老人になるのではないか、と思うこの頃である。
真の老人とは、もはや、失うべき何ものも無くなった人のことを言うのではないか。

長女は、私から去った。
次女は、中立を保つ為に、この家に寄りつかない。
家内と言えば、日本語も通じなくなってから何年にもなる。


私には、S.Kierkegaard の言った、一番易しく一番難しいこと、すべてを捨てること、が、案外、無理なくできるのではないか。
いや、その時には、捨てるべき何ものも見当たらなくなった境地であろう。

その意味では、老人になる前に、不慮の死で亡くなった人は気の毒である。
私は、若い時に、死ぬのはいいが風邪をひくのは嫌だ、などと言って、粋がって与太をほざいていた。
今も、願わくは、あまり苦しむことなく死を迎えられたなら、それにこしたことはない、と考えている。


(kierke02.jpg)

Kierkegaard は、また、永遠とは有限が無限に出会う瞬間である、と言っていた。
私の人生に、かつて、そのような瞬間があったであろうか。
いや、それもまた、超越の命題であろう。

私の人生は、無明に迷ったそれに終わるのかもしれない。
しかし、私の背後には、母の祈りがあった。

ある麻薬中毒患者が、お母さん、僕は、こんな遠くまで来てしまった、と淋しげに呟いていたが、私は、麻薬中毒者ではないけれど、その気持ちが解かっている、と思う。
どのみち、人生は、rehearsal無しの、ぶっつけ本番なのである。



しかし、私は、F.M.Dostoevsky の「白痴」にある、あの「イッポリトの告白」に書かれているように、もし、生まれる前に、この条件を知らされていたとしたならば、私は、生まれるてくることを肯(がえ)んじなかったであろう、とは思っていない。
私は、感謝して死ねるように、今からでも、心の準備をしておこう。

S.D.G

コーダ(蛇足):

私の懐疑なるものが、深いのか、深くないのか、私自身も知る由もない。
仮に、深かったとしても、そもそも、懐疑の深さというものは、誇るべきものであるのか、という疑問が残る。




【デンマン注:】 改行を加え読み易くしました。あしからず。

S.Kierkegaard: キルケゴール (1813-1855) デンマークの哲学者

S.D.G.: Soli Deo Gloria (ラテン語) To God Alone the Glory(英語) 神に栄光あれ。

F.M.Dostoevsky: ドストエフスキー (1821-1881) ロシアの小説家・思想家




56ページ Michel-Richard de Lalande
『後奏曲集(後書きばかり)』 作品3
著者: 太田将宏
初版: 1994年1月 改定: 2006年9月

『馬鹿やって人気?』にも掲載
(2015年8月18日)




家内と言えば、日本語も通じなくなってから何年にもなる」と書いているので、相当仲が悪かったことが判るのだよ!



デンマンさんが、ここに書き出さなければ、ネット市民の皆様は分からないのですよ! なにもオイラの家庭内を暴露するようなことはやめてください!

上のエピソードはオマエが書いたのだよ!

でも。。。、でも。。。、何も、ここでバラさなくてもいいでしょう!?

いや。。。 バッハが前妻とも後妻とも仲が良かったということを知るためにも、オマエのエピソードは重要なのだよ。。。

。。。で、前妻は、どういう人だったのですか?

次のような女性だったのだよ。。。


マリア・バルバラ・バッハ

Maria Barbara Bach


1684年10月20日 - 1720年7月7日

 

マリア・バルバラ・バッハは、作曲家ヨハン・ゼバスティアン・バッハの又従姉で先妻。
ハインリヒ・バッハの孫に当たり、父親はヨハン・ミヒャエル・バッハ。

マリアの生涯と2人の馴れ初めについては、ほとんど知られていないが、バッハがマリアとの結婚生活に満足していたことは分かっている。
7人の子をもうけながらも、そのうち4人は幼児のうちに亡くなった。

マリア自身は1720年7月に急逝しており、同時期に書かれたバッハの一連の無伴奏ヴァイオリン作品や《半音階的幻奏曲とフーガ》、いくつかのオルガン作品の激しい感情のほとばしりに、当時のバッハの落胆ぶりを指摘する向きもある。
マリアの死後から半年後、バッハはアンナ・マクダレーナ・ヴィルケと再婚、アンナはマリアの遺児たちを、わが子同様に育て上げた。

マリアの遺児は、作曲家となった2人の兄弟、ヴィルヘルム・フリーデマンとカール・フィリップ・エマヌエルのほかに、第1子で長女のカタリーナ・ドロテーアがいた。




出典: 「アンナ・マクダレーナ・バッハ」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




バッハとは1707年に結婚したので、亡くなるまでの13年の間に7人の子を産んで、そのうち4人が幼児のうちに亡くなったというのだよ。。。 やっぱり、この当時の子供の半分が生まれてまもなく死んでしまうのだよ。。。



バッハがマリアとの結婚生活に満足していたことは分かっている」と書いてありますね。。。 やっぱり仲が良かったのですねぇ~。。。

それにしても、後妻のアンナ・マクダレーナさんは、立派な人だったのだよ。。。 自分も音楽家だったのにもかかわらず、前妻の子供をイジメないでわが子同様に育て上げたというのだから。。。

やっぱり、音楽家には立派な人が多いのですよ。。。

オマエは、もしかして、自分も音楽家の一人だと言うつもりはないよなァ~?

クラシックをこよなく愛して、これだけの記事を書いたのですよ。。。 オイラは、自分では音楽家の「端(はし)くれ」のつもりなのですが。。。

でも、オマエと奥さんは仲が悪いじゃないかァ~!

本当は仲がいいのです。。。 家庭円満で。。。 だから、娘二人は健康で聡明な女性に育って、カナダの医学部を出て現在は二人とも、アメリカの総合病院で小児科医の女医として働いています。

それは、オマエがグウタラ亭主でも、奥さんの内助の功があったから、娘二人が立派な女医さんになったんだよ。。。

ところで、日本にバッハの子孫がお笑い芸人をやってるのを知ってますか?

ええっ。。。 冗談だろう!?

ちょっと次のクリップを観てください。。。

 


(timebomb.jpg)



 



日本のお笑いコンビ「タイムボム」のニコラス・ノートンという人物です。。。 米国出身で、ドイツ系の母親がバッハの子孫の一人であると主張しているのです。



マジかよう!? バッハが生きていたら、上のクリップをどんな表情を浮かべて見るのかなァ~?

血のつながった子孫が一人でも生きていることを喜ぶだろうと思いますよ。。。

そうかもなァ~。。。 あの当時のことだから、子供が成人になるまでに死んで、悪くすれば家系が絶えているかもしれないからなァ~。。。

そうですよ。。。 アメリカの初代大統領のジョージ・ワシントンの直系の子孫は、現在、いないそうですから。。。



(foolw.gif)


【レンゲの独り言】


(manila07.gif)

ですってぇ~。。。

あなたは、お笑いコンビ「タイムボム」のニコラス・ノートンがバッハの子孫だと信じますか?

ええっ。。。 「そんなことは、どうでもいいから、もっと他に面白い話しをしろ!」

あなたは、私に、そのような口調で命令するのですか?

分かりましたわ。。。 それではソプラノ歌手の高島一恵さんの次の歌を聴いてしみじみと泣いてくださいねぇ~。。。

 


(kazue01.jpg)



 

ええっ。。。 「歌は、もういいから、他にもっとも面白いことを話せ!」

あなたは、そのような命令口調で あたしに強制するのですか?

分かりましたわ。。。

これまで、太田さんはデンマンさんに さんざ馬鹿にされたので

そのお返しをしたのですわァ。

だから、太田さんは次のサイトで抗議録を公開したのです!


(kogiroku9.png)

『実際の抗議録』

デンマン注:しかし太田将宏が上の抗議録を掲載したサイトは消滅してしまいました!

 

デンマンさんも上の抗議録を読んで ムキになって反論しています。

『嘘を書く日記』

 

太田さんはこれに対しては反論ができないのか、それ以降 無言で通しています。

でも、そのうち忘れた頃にまたコメントを書き込むかもしれません。。。

あなたは、どう思いますか?

とにかく、ネットには “めちゃキモい”人たちがウヨウヨしています。

太田将宏さんは、まだ良い方ですわ。

中には、まるで得意になって、愚かな事をして遊んでいる オツムの足りない人たちがたくさん居ます。

また、見かけは普通のブログでも、悪徳スパマーが手を変え品を変えて 悪徳サイトへ誘い込もうとしています。

スパムコメントで褒められると、ついついその気になって、

相手のブログへ飛んでゆき、お返しに、あるいはお礼にと思って

読者に登録してしまったりするものですわァ。

どうか スパマーの思う壺にはまらないでくださいね。

悪徳スパマーは悪徳サイトへ誘おうと

てぐすね引いて待っているのですから。。。

悪徳サイトを利用して、

メールアドレスで登録したりすると、

あなたのメールアドレスは第3者や第4者に売られてしまう危険性があります。

あなたは、そのようなスパム・コメントや 成りすましスパマーには

騙されないと思い込んでいるでしょう?

でもねぇ~、もしかすると騙されているかもよ。。。

とにかく気をつけてくださいね。

次回も、さらに面白い話題が続きます。

あなたも、どうか、また記事を読みに戻ってきてください。

では。。。


(hand.gif)


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■ 『村上春樹 小説と音楽』

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■ 『春の祭典』



(juneswim.jpg)


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(byebye.gif)

春の祭典

 

春の祭典

 


(stravin01.jpg)


(straw01.jpg)


(ireba03.jpg)


(laugh16.gif)




(ohta03.png)

デンマンさん。。。、どういうわけで春の祭典を持ち出してきたのですか?


(kato3.gif)

オマエ、春の祭典を目にして、何か思い当たらない?

イーゴリ・ストラヴィンスキーが作曲したバレエ音楽ですよねぇ~。。。

さすが、飯よりクラシックが好きなオマエだねぇ~。。。 そうなのだよ。。。 今日は、その春の祭典について語り合おうと思うのだよ。。。

でも、どうしてですか?

実は、バンクーバー市立図書館で借りていた本を読んでいたら次の箇所に出くわしたのだよ。。。



(stravin01.jpg)

 

イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971年)は、興行師ディアギレフが率いる「ロシア・バレエ団」のお抱え作曲家でした。
そのロシアという異国趣味にパリの聴衆は魅了されます。
バレエ『火の鳥』(1910年初演)、『ペトルーシュカ』(1911年初演)と成功が続き、『春の祭典』で次なる成功を狙うはずでした。

しかし、バレエが始まって数分後に、劇場の聴衆はそれまでおそらく聴いたこともない奇抜なリズムに度肝を抜かれることになります。
客席では、野次が飛び交い、観客同士が言い争いになるという混乱の中、ダンサーたちは踊り続けます。

というのも、『春の祭典』におけるバレエの題材は、古代ロシアの春に、豊饒を願って「処女のいけにえ」を大地に捧げるという物騒な筋書きです。

曲冒頭のファゴットの神秘的な旋律に対して嘲笑が起こり、客席にいたサン=サーンスなどは席を立ってしまいます。
ストラヴィンスキーは、舞台袖で振付師のニジンスキーをつかまえていなければなりませんでした。
彼は止まない観客の罵声に対して怒り狂っていたからです。


この歴史的な日を再現した、英国BBC制作のドラマを見つけました。
『春の祭典』初演に至るまでの経緯、そして初演の模様が描かれています。

 


(stravin02.jpg)




デンマン注:

 

上のクリップには日本語字幕はないけれど
1時間半のこのクリップは見るだけの価値がありますよ!
後半、僕は涙が出るほど笑い転げました!

バレエダンサーと交響楽団が真面目に最後まで演じた、
その狂気せまる演技には、見るものを感動させずにはおかない
≪何か!?≫があります!

それが独創性なのではないか?
ふと、そんな事を思い知らされました!(微笑)


 

(読み易くするために改行を加えています。
赤字はデンマンが強調のため
写真はデンマン・ライブラリーより)




167-168ページ 『クラシック音楽全史』
ビジネスに効く世界の教養
著者: 松田亜有子
2018年10月10日 第1刷発行
発行所: ダイヤモンド社




つまり、当時のパリの聴衆にとっては、余りにも奇抜でビックリするというよりも呆れ果ててブーイングが起こったということですねぇ~。。。



そういうことなのだよ。。。

つまり、聴衆の感性を考えて曲を作らないとひどい目に遭うと言いたいのですか?

いや。。。 そもそも聴衆のことを考えても すべての人を満足させる曲なんて書けないよ。。。

要するに、作曲家は自分の信じるところを作品で表現すればよいというのが、デンマンさんの考え方ですか?

僕が作曲家だったら、そうするけど。。。

つまり、この事が言いたくて『春の祭典』を取り上げたのですか?

いや。。。 そればかりじゃないのだよ。。。 実は、オマエが『前奏曲集』の中でイーゴリ・ストラヴィンスキーのことを書いていたのだよ。。。 ちょっと読んでごらんよ!


11.1 Igor Strawinsky (1882-1971)

大きなガラス窓のむこうでは、雪がふっている。窓の手前、つまり部屋の中では音楽が響いている。この家の中には今、私を除いては、誰もいない。一週間に一度だけの、一人になれるとき、土曜日の午前中である。そして、雪はsempre pianoで静かに降りてくる。
不思議だ、と思った。雪のうごきが、あろうことか、鳴り響いている音楽にsynchronizeしているのだ。そんな筈はない、と思う。曲は、I. Stravinskyの≪火の鳥≫である。もちろん、この音楽はsempre pianoでは響いていない。またまた、眼が悪くなったのだろうか。そうではない、そのせいであったのならば、雪のうごき、静かにふりしきる雪が、少しの風にゆらいでいるのすら見えないはずである。
視覚が聴覚に同調しているのだと思う。偶然ではあるが、先入観なしに聴けば≪火の鳥≫だって冬の雪景色に、冬の雪景色だって≪火の鳥≫に調和するのである。この調和こそ、広い意味でのハーモニーではないだろうか。これを美しいという、と私の意識がそっとささやいた。音楽の律動に同期している雪片の動きだけが知覚されているのだ、と思った。
音楽は何ものをも表現しない。唯、時間に秩序を設定する、とは他ならぬStravinskyの言葉であった。その<時間に秩序を設定する>、が解らなかった。今も一寸分らない。ただ、私は、この様に言い換えたい。音楽は時間に秩序を設定する。故に、音楽は何ものかを表現する、と。その何ものかは、無論、必ずしも<火の鳥>或いはその物語ではないし、雪でもあり得ないことは、私も承知している。どちらをも表現する、ということはどちらをも一意的には表現できない、ということであり、逆に、どちらをも表現していない、ということは可能な全てを表現している、ということにならないか。音楽が<抽象芸術>と言われている所以はそのへんにある、と私は考えている。ことわるまでもないが、私はここで、<表現>という言葉を、<表現主義>の場合の<表現>、というような狭い意味では使ってはいない。もしかしたら、Stravinskyは(ドイツ)表現主義に対して、何かを言おうとしてたのかも知れないが。
ガラス窓は、巨大な砂時計であり、雪は、その純白な砂であった。一様に降る雪にはrythmeはない。その意味で、私は、sempre pianoといってみたのである。とすると、音楽と雪のsynchronizationも必要がなかったのかも知れない。ただ、<音楽が時間に秩序を設定>して雪がそれと対比、それを強調していた、或いはその逆だったのにすぎなかった、つまり、静かに降る雪は、謂わば座標に於ける時間軸であったのか、と思い直した。
音楽が、何ものかを表現するか否かの問題は実際的(生産的)ではない、とP. Boulezが言っていた。作曲家、演奏家の彼としては、当然の発言かもしれない。いや、私はやはり、L.v. Beethovenの≪Symphonie in F-dur≫(Op. 68)の初演時の、あの有名なごたごたが気になる。そもそも、<実際的>であろうがなかろうが、この問題は音楽美学の発生以来の問題であって、各々の時代の各々の様式の、更に各々の作曲家の、これが音楽だ、と提示された作品をありのままに受けとめよう、とする私にとっては、今なお問題であり続けている次第である。しかしながら、誰も偉い人は私に答えを与えてはくれなかった。だから、自分で考える楽しみが残されていた(いる)。
追記。音楽が、言葉やその他の束縛から逃れて自立する迄に長い年月がかかったように、絵画に於いてもその自立が果たされたのは、写真が発明された後ではなかったか。しかしながら、それ以前に於いても、写真的な意味での見える、音楽でいえば、聴える対象を、作品の中に再構成したいという欲求、しようとする意志は、創作者にあった、と私は推察する。

蛇足(コーダ):
私には、Strawinsky の≪Trois Movements de Petrouchka ≫の方がballet 音楽≪ Petrouchka ≫よりもoriginarityがあると思われる。Balletからも自立しているからである。
ところで、Stravinskyは、ほんとうに転向を重ねていたのであろうか。仮に、そうであったとしても、私は必然性のある転向は否定したくはない。まだ、考える楽しみが残されている。




49-50 ページ
『前奏曲集―あるアマチュアの覚書-作品 1の1』より

デンマン注: 太田将宏が会費を滞納したようで上のリンク先は削除されてます!




あのさァ~、いつも思うのだけれど、オマエの文章はとっても読みづらいのだよ! 英語やドイツ語やフランス語やラテン語が入り混じっている。。。



デンマンさん! 人のことは言えませんよ! デンマンさんの文章だってぇ、長くて読み始めると、じきに飽きてしまうのですよ。。。

それは、オマエの極めて個人的な見解だと思うのだよ! むしろ独断と偏見だと言っていい。。。 僕の記事は、日本語が解る世界のネット市民の 多くの皆様に読まれているのだよ!

134ヵ国のネット市民の皆様に読まれていることを自慢したいのですか?

いや。。。 自慢したいわけじゃない! オマエが「デンマンさんの文章だってぇ、長くて読み始めると、じきに飽きてしまうのですよ」と言ったから、僕の長い記事でも まめに読んでくれる常連さんが居る、と言いたかったまでだよ。。。 とにかく、オマエの文章は読みづらいので、多くの人が上の文章を読み飛ばしたと思うのだよ。。。

マジで。。。?

僕だってぇ、読みたくなかった。。。 でも、この記事を書く都合があるので、次のように読み易くして読んだのだよ。


11.1 イーゴリ・ストラヴィンスキー

     (1882 - 1971)



(straw02.jpg)

 

大きなガラス窓のむこうでは、雪がふっている。
窓の手前、つまり部屋の中では音楽が響いている。
この家の中には今、私を除いては、誰もいない。

一週間に一度だけの、一人になれるとき、土曜日の午前中である。
そして、雪は常に静かに降りてくる。

 


(snow101.jpg)

 

不思議だ、と思った。
雪のうごきが、あろうことか、鳴り響いている音楽に同期しているのだ。
そんな筈はない、と思う。

曲は、ストラヴィンスキーの≪火の鳥≫である。

 



 

もちろん、この音楽は常に静かに弱くは響いていない。
またまた、眼が悪くなったのだろうか。
そうではない、そのせいであったのならば、雪のうごき、静かにふりしきる雪が、少しの風にゆらいでいるのすら見えないはずである。

視覚が聴覚に同調しているのだと思う。
偶然ではあるが、先入観なしに聴けば≪火の鳥≫だって冬の雪景色に、冬の雪景色だって≪火の鳥≫に調和するのである。

この調和こそ、広い意味でのハーモニーではないだろうか。
これを美しいという、と私の意識がそっとささやいた。
音楽の律動に同期している雪片の動きだけが知覚されているのだ、と思った。

音楽は何ものをも表現しない。
唯、時間に秩序を設定する、とは他ならぬストラヴィンスキーの言葉であった。
その<時間に秩序を設定する>、が解らなかった。
今も一寸分らない。

ただ、私は、この様に言い換えたい。
音楽は時間に秩序を設定する。
故に、音楽は何ものかを表現する、と。

その何ものかは、無論、必ずしも<火の鳥>或いはその物語ではないし、雪でもあり得ないことは、私も承知している。
どちらをも表現する、ということはどちらをも一意的には表現できない、ということであり、逆に、どちらをも表現していない、ということは可能な全てを表現している、ということにならないか。

音楽が<抽象芸術>と言われている所以はそのへんにある、と私は考えている。
ことわるまでもないが、私はここで、<表現>という言葉を、<表現主義>の場合の<表現>、というような狭い意味では使ってはいない。
もしかしたら、ストラヴィンスキーは(ドイツ)表現主義に対して、何かを言おうとしてたのかも知れないが。

ガラス窓は、巨大な砂時計であり、雪は、その純白な砂であった。
一様に降る雪にはリズムはない。
その意味で、私は、常に静かにといってみたのである。
とすると、音楽と雪の同期も必要がなかったのかも知れない。

ただ、<音楽が時間に秩序を設定>して雪がそれと対比、それを強調していた、或いはその逆だったのにすぎなかった、つまり、静かに降る雪は、謂わば座標に於ける時間軸であったのか、と思い直した。
音楽が、何ものかを表現するか否かの問題は実際的(生産的)ではない、とピエール・ブーレーズが言っていた。

作曲家、演奏家の彼としては、当然の発言かもしれない。
いや、私はやはり、ベートーヴェンの≪交響曲 第6番 ヘ長調 「田園」≫(作品68)の初演時の、あの有名なごたごたが気になる。

 



 

そもそも、<実際的>であろうがなかろうが、この問題は音楽美学の発生以来の問題であって、各々の時代の各々の様式の、更に各々の作曲家の、これが音楽だ、と提示された作品をありのままに受けとめよう、とする私にとっては、今なお問題であり続けている次第である。

しかしながら、誰も偉い人は私に答えを与えてはくれなかった。
だから、自分で考える楽しみが残されていた(いる)。

 

【追記】

音楽が、言葉やその他の束縛から逃れて自立する迄に長い年月がかかったように、絵画に於いてもその自立が果たされたのは、写真が発明された後ではなかったか。

しかしながら、それ以前に於いても、写真的な意味での見える、音楽でいえば、聴える対象を、作品の中に再構成したいという欲求、しようとする意志は、創作者にあった、と私は推察する。

 



蛇足 (コーダ):

 

私には、ストラヴィンスキー の≪ペトルーシュカからの3つの楽章≫の方がバレー音楽≪ペトルーシュカ≫よりも独創性があると思われる。

 



ペトルーシュカからの3つの楽章






バレー音楽:ペトルーシュカ

 

バレーからも自立しているからである。

ところで、ストラヴィンスキーは、ほんとうに転向を重ねていたのであろうか。
仮に、そうであったとしても、私は必然性のある転向は否定したくはない。
まだ、考える楽しみが残されている。




赤字はデンマンが強調)

49-50 ページ
『前奏曲集―あるアマチュアの覚書-作品 1の1』より

デンマン注: 太田将宏が会費を滞納したようで上のリンク先は削除されてます!




オマエはクラシックが飯より好きな割には、イーゴリ・ストラヴィンスキーの《春の祭典》を記事の中で取り上げてないのだよ!



《春の祭典》を記事の中で取り上げないと、まずいのでしょうか?

あのさァ~、『クラシック音楽全史』を書いた松田亜有子さんも《春の祭典》を取り上げて書いているのだよ!

つまり、イーゴリ・ストラヴィンスキーのことを書いたら、《春の祭典》についても当然書かなければならない、とデンマンさんは信じているのですか?

あのさァ~、僕は、何もそのことを日本国憲法の条文に書かないと駄目だと言っているわけじゃないのだよ!

じゃあ、どうして、あえてオイラに対して、そのようなムカつく事を言うのですか?

あのさァ~、ノーベル文学賞がもらえると、しばしば騒がれている村上さんもストラヴィンスキーの『春の祭典』について書いているのだよ!

マジっすかあああァ~。。。?

信じられないのなら次の小文を読んでごらんよ。。。


オリジナリティーについて

 

今現在15歳の少年がビートルズやビーチボーイズの音楽を

初めてラジオで耳にして「これ、すごいなあ」と感激したとしても、

その音楽を「前例のないもの」として劇的に体感することは、

事実的に不可能になるかもしれない。

 



   ビートルズ






  ビーチボーイズ

 

同じことはストラヴィンスキーの『春の祭典』についても言えます。

 



 

1913年にパリでこの曲が初演されたとき、そのあまりの斬新さに聴衆がついてこれず、会場は騒然として、えらい混乱が生じました。
その型破りな音楽に、みんな度肝を抜かれてしまったわけです。

しかし演奏回数を重ねるにつれて混乱はだんだん収まり、今ではコンサートの人気曲目になっています。
今僕らがその曲をコンサートで聴いても、「この音楽のいったいどこが、そんな騒動を引き起こすわけ?」と首をひねってしまうくらいです。


その音楽のオリジナリティーが初演時に一般聴衆に与えた影響は「たぶんこういうものであったのだろうな」と頭の中で想像するしかありません。

じゃあ、オリジナリティーというのは時がたつにつれて色褪せていくものか、という疑問が生じてくるわけですが、これはもうケース・バイ・ケースです。

オリジナリティーは多くの場合、許容と慣れによって、当初の衝撃力を失ってはいきますが、そのかわりにそれらの作品は(もしその内容が優れ、幸運に恵まれればということですが)「古典」へと格上げされていきます。

 (83-84ページ)

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
YouTubeはデンマンが貼り付けました。
写真はデンマン・ライブラリーより)




『職業としての小説家』
著者: 村上春樹
2015年9月17日 第1刷発行
発行所: 株式会社 スイッチ・パブリッシング




デンマンさんは村上春樹にハマッているのですかァ~?



いや。。。 僕はハルキストじゃないのだよ!

それなのに、どういうわけで村上春樹の本を読んだのですか?

オマエも知っていると思うけれど、「現実主義者」と名乗る愚か者と僕はかれこれ3年にわたって コメントのやり取りをしながら交流しているのだよ。。。

 


(fool911.jpg)

『現実主義者 馬鹿の見本』

 



この上の馬鹿が村上春樹に代わって、今年の秋、ノーベル文学賞がもらえると言って、スキップして喜んでますよねぇ~。。。


(smilerol.gif)


わァ~~ うれしいなあああァ~。。。

やはり、仏のデンマンさんは

すばらしいです。。。

オイラが友達もなく、40ヅラさげて

結婚もできずに

狭い部屋に閉じこもっているにも拘らず

一生懸命に記事を書いて

第2の人生を踏み出して

オイラがまともな人間になるように

応援してくれるのです!

もしかすると、村上春樹に代わって

今年の秋にはノーベル文学賞がもらえるかも…

 


(gohou99.jpg)

 

オイラは偏差値30台のクソ大学を

卒業して以来、初めて

生きる喜びを感じています!

もうこうなったら、恥も外聞もなく

天にも舞い上がる気持ちで

スキップしたいと思います。


(smilejp.gif)

わァ~~ うれしいなあああァ~。。。

ルンルンルン ランランラ~♪~ン

もう一つおまけに

ルンルンルン ランランラ~♪~ン

ああァ~、うれしいなあああァ~。。。


 



デンマンさん! いつまでも こういう馬鹿と付き合っている場合じゃないですよ。。。 



オマエは、反対するのォ~?

日本には“馬鹿を相手にするな!”という格言があるのですよ。。。 だから、「現実主義者」と名乗っている馬鹿とは絶交した方がいいですよ!

オマエは絶交するのを趣味としているようだけれど、「生きる価値のないクズの廃人です」と自分で認めている この男は実に哀れなんだよ!

それで、この男が、村上春樹に成り代わって今年の秋、ノーベル文学賞をもらいに行くと言っているので、デンマンさんも村上春樹の本を読む気になったのですか?

そうだよ!

馬鹿バカしい! デンマンさん! いい加減にした方がいいですよ。。。 “朱に交われば赤くなる!”という格言もあるのですよ。。。 あのバカと付き合っていたら、デンマンさんもバカになるということですよ。。。

マジで。。。?

そんなことより、なぜ村上春樹の本を持ち出してきたのですか?

オマエの記事の中でも独創性に触れている。。。

それで、村上春樹が書いたオリジナリティーについてを引用したわけですかァ~?

そうだよ。。。 オマエは不満なのォ~?

不満ではありませんが、せっかく格調高い話題を取り上げたのに、「現実主義者」を持ち出したのは間違いですよ。。。

でもさァ~、この男は「生きる価値のないクズの廃人であることをネットで広めたい」と言うのだよ!

それで、わざわざ その馬鹿をこの記事でも取り上げたのですかァ~?

オマエは不満なのォ~?

デンマンさん!。。。 貴方は“バカに交わってバカになっている!”のですよう。。。 今後、オイラを呼び出す時には、この愚か者のことは一切口にしないでくださいねぇ~。。。

オマエがそう言うのであれば、これからは「現実主義者」と名乗る馬鹿を連れてこないようにするからねぇ~。。。



(foolw.gif)


【レンゲの独り言】


(manila07.gif)

ですってぇ~。。。

あなたも、「現実主義者」と自称しているバカの顔を見るのは、もう飽き飽きしましたか?

ええっ。。。 「そんなことは、どうでもいいから、もっと他に面白い話しをしろ!」

あなたは、私に、そのような口調で命令するのですか?

分かりましたわ。。。 それではソプラノ歌手の高島一恵さんの次の歌を聴いてしみじみと泣いてくださいねぇ~。。。

 


(kazue01.jpg)



 

ええっ。。。 「歌は、もういいから、他にもっとも面白いことを話せ!」

あなたは、そのような命令口調で あたしに強制するのですか?

分かりましたわ。。。

これまで、太田さんはデンマンさんに さんざ馬鹿にされたので

そのお返しをしたのですわァ。

だから、太田さんは次のサイトで抗議録を公開したのです!


(kogiroku9.png)

『実際の抗議録』

デンマン注:しかし太田将宏が上の抗議録を掲載したサイトは消滅してしまいました!

 

デンマンさんも上の抗議録を読んで ムキになって反論しています。

『嘘を書く日記』

 

太田さんはこれに対しては反論ができないのか、それ以降 無言で通しています。

でも、そのうち忘れた頃にまたコメントを書き込むかもしれません。。。

あなたは、どう思いますか?

とにかく、ネットには “めちゃキモい”人たちがウヨウヨしています。

太田将宏さんは、まだ良い方ですわ。

中には、まるで得意になって、愚かな事をして遊んでいる オツムの足りない人たちがたくさん居ます。

また、見かけは普通のブログでも、悪徳スパマーが手を変え品を変えて 悪徳サイトへ誘い込もうとしています。

スパムコメントで褒められると、ついついその気になって、

相手のブログへ飛んでゆき、お返しに、あるいはお礼にと思って

読者に登録してしまったりするものですわァ。

どうか スパマーの思う壺にはまらないでくださいね。

悪徳スパマーは悪徳サイトへ誘おうと

てぐすね引いて待っているのですから。。。

悪徳サイトを利用して、

メールアドレスで登録したりすると、

あなたのメールアドレスは第3者や第4者に売られてしまう危険性があります。

あなたは、そのようなスパム・コメントや 成りすましスパマーには

騙されないと思い込んでいるでしょう?

でもねぇ~、もしかすると騙されているかもよ。。。

とにかく気をつけてくださいね。

次回も、さらに面白い話題が続きます。

あなたも、どうか、また記事を読みに戻ってきてください。

では。。。


(hand.gif)


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『センスあるランジェリー』



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ショスタコーヴィチ


 

ショスタコーヴィチ

 


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デンマンさん。。。、どういうわけで ショスタコーヴィチ を取り上げるのですかァ~?


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実は、最近バンクーバー市立図書館で借りていた本を読んでいたら次の箇所に出くわしたのだよ。。。

 



(geidai2.jpg)

 

どうしてそこまでして、作曲家の心情を汲み取る必要があるのだろう?
クラシック音楽の場合、ほとんどの作曲家はとっくに死んでしまっているわけだし、現代の人間が好きなように演奏したって別にかまわないんじゃないだろうか。

そんな僕にヒントをくれたのは、器楽かヴァイオリン専攻の山口真由夏さんだ。
山口さんは切れ長の目で柔らかく微笑みながら言う。

「ソビエト連邦で、音楽も共産党に支配されていた時代、反政府を言葉ではなく音楽で伝えようとした作曲家がいるんですよ。
口で批判したら投獄されますけど、音なら邪魔されないですから」
音楽は自由なんです、と山口さん。

「ショスタコーヴィチという人です。 彼の曲を弾いていると、ものすごく訴えかけてくるものがあって……もう、本当に病んできますよ!」

当たり前だけれど、山口さんにソビエト連邦で弾圧を受けた経験はない。
しかし曲を弾くだけで、作曲家の憤りがありありと伝わってくるのだそうだ。

ソビエト連邦でどんな弾圧があったのかを調べ、ショスタコーヴィチがどんな人生を送ったのかを学んで、彼の気持ちと一体化して……ようやくその曲が弾けるような気がする。
澤村杏太朗(指揮科)さんがやっているのは、そういうことなのか。

「楽譜どおりに演奏するだけではダメなんです。 作曲家の込めたものを汲み取らないと、曲の魅力は引き出せません」

 

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




115-116ページ 『最後の秘境 東京藝大』
著者: 二宮敦人
2016年11月5日 第7刷発行
発行所: 株式会社 新潮社


 



なるほどォ~。。。 上の本を読んで ショスタコーヴィチ を取り上げる気になたのですかァ~?



もちろん、それもあるのだけれど、オマエがかつて ショスタコーヴィチ について衒学的な文章を書いていたのだよ!

。。。ん? オイラが ショスタコーヴィチ について衒学的な文章を書いていた、とデンマンさんは断定するのですか?

そうだよ。。。 オマエは忘れてしまったようだけれど、ここに書き出すから、久しぶりに読んでみたらいいよ。。。

 


18.2 Dimitri Shostakovich

言いたい事を言うこと自体が目的なのではない。言いたい事を言える場、状況を得る事が目的なのである。それでこそ、言いたい事はいつでもいえる。それなしには言論、表現の自由はあり得ない。そうした自由は天与の、一人一人の人間に与えられた権利なのであろうか。それとも、我々が自ら獲得しなければならない、人間としての責務なのであろうか。多分、前者だけであったのならば、無責任な、と言う事は、無意味な自由だけしか残らないであろうし、後者だけであったならば、強者のみの自由に終わるであろう。
さて、今ある状況で何処まで言えるか、という事に神経を擦り減らしてきた後で、比較相対的には自由に発言できる場を確保した時に、或いはそうした状況にめぐり合った時に、ふと、自分は言うべき何ものをも現在はもっていない、という事に気がついた、という様な消耗しきった人を見る事は心痛む事である。
私は今、Dimitri Shostakovichのことを言っているのである。彼の作品の多くは、妥協の産物と言うよりは、失敗した弁証法なのであろう。此処で私が意味する弁証法とは、自己の主体性と自己の外界との軋轢及びそれらの止揚である。B. Bartókは前者しか見なかったが故に、<<Concerto for Orchestra>>でShostakovichの作品を揶揄していたのであろうか。そういう資格は一切の妥協を拒んだBartókにはあるのではあるが、私には、それは強者による事態の単純化ではないか、と思えるのである。
我々、西側に住んでいた人間は東側の人々よりも自由であったであろうか。多分そうで(あったで)あろう。しかしながら、何か身動きも出来ない、といった閉塞感にいる(いた)のは、私だけではないであろう。音楽ひとつとって見ても、無思考で無責任な自由と、金力による自由が野合した商業資本という権力によって、どれほど我々が管理されている(いた)か、という事が気にならないとしたら目出度い限りである。それではBartókの晩年の困窮もなかったことであろう。
Shostakovichについては多くの事が書かれてきた。また、彼自身の遺言とされた<証言>もある。それらに見られる記述に比較して、彼の作品の響きは、先入観なしに聴けば、それほどまでには暗くはない、というのが私の印象である。私がここで、陰鬱である方が良いとか、深刻である方が高級である、などとは言ってはいないのは断わるまでもないであろう。より悲壮がかった雰囲気をもつ作品を作る作曲家は、捜すまでもなく幾人もいるではないか(草子地:ポーランドの作曲家の作品に顕著である)。そうではなくて、私がShostakovichの作品を聴くときに辛く感じるのは、敢えて言うのであるが、その音楽の中に、何か薄笑いにも似た表情を見てとる時である。それが、私には、前後の経過とは然したる関連もなく、ときおり顔を覗かせる様に見える(聞こえる)のである。その、うわの空、とでもいった様な仮面の微笑は、彼の資質によるものなのか、はたまた強いられた古典主義、とでも言える彼の作曲技法からくるものなのか、私には分からないのであるが、もともと、それは区別できるものでもないかもしれない。好き
か、と聞かれれば、好きではない、としか答えられない一方、それが嫌いか、と聞かれれば、嫌いだとか不快だとか言うには、あまりに軽すぎる冷笑である。
丁度、ソヴィエト社会主義連邦共和国そのものが、反定立としての成熟した資本主義を欠いたままでの擬似的に成立した体制であったように、Shostakovichは、自己の尊厳と権力からの圧力を止揚するのに、その手段を奪われていたが故に失敗せざるを得なかった。その失敗した弁証法は、行き先のない結果を苦悩する。S. Kierkegaardは、苦悩だけが真実だ、と繰り返し書いていた。しかし、私は、Shostakovichに未だその真実を聴けないでいる。問題は、多分に、私の側にあるのかも知れないが、ただ、別の見方をすれば、彼についての記述から彼の作品が充分に自立する可能性については、今なお年月を要するのではないか、とも考えられるのである。私は、ここでは、例えば、J.S. Bachが神を信じていたか、いなかったかに拘わらずに、彼のfugaは自立している、と言う意味で<自立>という言葉を使用しているのであるが、一方、この例にしても、彼のKirchenkantatenが同じく自立しているかどうかは議論の余地があろう。しかるに、そうした自立に終局的な意味があるかどうかは、別次元の話題である。現代に於いて、それは個人の価値観の問題でもあり、そうでなければならないであろう。ただ、私は、Shostakovichの作品の幾分かは、永久にそうした自立を促すような性格を持ってはいない、と予想してはいるのである。
五十歩百歩と言う言葉がある。五十歩逃げた人間は、百歩逃げた人に対して誇ってはならない、という意味であろう。
私は、しかしながら、百歩逃げた人間は、五十歩逃げた人に対して恥じねばならない、という事をも忘れてはならないと思う。私のような者でさえ、仕事の第一線から退いたときは、これで戦いは終わった、としみじみ思ったものである。
一歩も逃げないで、なおかつ、他を裁かなかった人を、私はひとりだけ知っている。

蛇足(コーダ):
単純な家内は、不愉快な気分になるのなら、(そんな)音楽など聴かなければいい、などというが、その不愉快さを含めて何ものでも存在するのだ。直接的にも、間接的にも、他人とつき合うという事は、嫌であっても、そういう事であろう。いいとこ取りのつまみ食いは良くない。
ほど良い(名)曲を聴きたいと、と思う時に、私は、Shostakovichの<<ピアノ協奏曲 第二番 ヘ長調>>(Op. 102、特に第二楽章)を聴く。こういう言い方は作曲者に対して失礼であるのは承知しているのではあるが、典型的な名曲を聴くのも腹にこたえすぎる時というのもあるのである。Dimitri Shostakovich Juniorのさわやかな演奏(Chandos CHAN 8443)には眼をみはるものがある。




78-79ページ
『前奏曲集―あるアマチュアの覚書-作品 1の1』より

デンマン注: 太田将宏が会費を滞納したようで上のリンク先は削除されてます!


 



思い出しました。。。 確かに、上の文章はオイラが書いたものです。。。 しかし、この文章が衒学的だと、デンマンさんは主張するのですか?



そうだよ。。。 英語で言うなら pedant。。。、論理の形式、厳密性、正確性などに過剰にこだわったり、学識をひけらかし、傲慢な態度を見せるような書き方なんだよ!

まさかァ~。。。?

まさかじゃないよ! 読んでいて、なんとなく鼻持ちならないんだよ! しかも、オマエの上の文章は とにかく読みづらいのだよ! おそらく、上の文章を読み始めたネット市民の皆様の半分以上が、オマエの読みづらい文章を途中まで読んで 他のブログへ飛んでしまったと思うのだよ!

それほどオイラの文章は悪文でしょうか?

オマエの文章ほど読みづらい悪文を 僕は他に見たことがないよ! 改行もなく、長い文章がのた打ち回っている。。。 それに、やたらと横文字が入っている!

マジで。。。?

見れば、すぐに判るじゃないかァ! 僕には、到底、オマエの文章を最後まで読む気になれず、仕方がないから次のように楽しく、面白く読めるように編集し直したのだよ。。。 オマエも読んでごらんよ。。。

 


18.2 ドミートリイ・ショスタコーヴィチ

     Dmitri Shostakovich



(dmitri01.jpg)

 

言いたい事を言うこと自体が目的なのではない。
言いたい事を言える場、状況を得る事が目的なのである。
それでこそ、言いたい事はいつでもいえる。
それなしには言論、表現の自由はあり得ない。

そうした自由は天与の、一人一人の人間に与えられた権利なのであろうか。
それとも、我々が自ら獲得しなければならない、人間としての責務なのであろうか。
多分、前者だけであったのならば、無責任な、と言う事は、無意味な自由だけしか残らないであろうし、後者だけであったならば、強者のみの自由に終わるであろう。

さて、今ある状況で何処まで言えるか、という事に神経を擦り減らしてきた後で、比較相対的には自由に発言できる場を確保した時に、或いはそうした状況にめぐり合った時に、ふと、自分は言うべき何ものをも現在はもっていない、という事に気がついた、という様な消耗しきった人を見る事は心痛む事である。

私は今、ドミートリイ・ショスタコーヴィチのことを言っているのである。

彼の作品の多くは、妥協の産物と言うよりは、失敗した弁証法なのであろう。
此処で私が意味する弁証法とは、自己の主体性と自己の外界との軋轢及びそれらの止揚である。

ベーラ・バルトークは前者しか見なかったが故に、<<オーケストラのための協奏曲>>でドミートリイ・ショスタコーヴィチの作品を揶揄していたのであろうか。」

 



バルトーク:オーケストラのための協奏曲



ショスタコーヴィチ:ピアノ、トランペット、

弦楽器のための協奏曲(Op.35)


 

そういう資格は一切の妥協を拒んだバルトークにはあるのではあるが、私には、それは強者による事態の単純化ではないか、と思えるのである。

我々、西側に住んでいた人間は東側の人々よりも自由であったであろうか。
多分そうで(あったで)あろう。
しかしながら、何か身動きも出来ない、といった閉塞感にいる(いた)のは、私だけではないであろう。

音楽ひとつとって見ても、無思考で無責任な自由と、金力による自由が野合した商業資本という権力によって、どれほど我々が管理されている(いた)か、という事が気にならないとしたら目出度い限りである。
それではバルトークの晩年の困窮もなかったことであろう。

ドミートリイ・ショスタコーヴィチについては多くの事が書かれてきた。
また、彼自身の遺言とされた<証言>もある。
それらに見られる記述に比較して、彼の作品の響きは、先入観なしに聴けば、それほどまでには暗くはない、というのが私の印象である。

私がここで、陰鬱である方が良いとか、深刻である方が高級である、などとは言ってはいないのは断わるまでもないであろう。
より悲壮がかった雰囲気をもつ作品を作る作曲家は、捜すまでもなく幾人もいるではないか(草子地:ポーランドの作曲家の作品に顕著である)。

そうではなくて、私がドミートリイ・ショスタコーヴィチの作品を聴くときに辛く感じるのは、敢えて言うのであるが、その音楽の中に、何か薄笑いにも似た表情を見てとる時である。
それが、私には、前後の経過とは然したる関連もなく、ときおり顔を覗かせる様に見える(聞こえる)のである。

その、うわの空、とでもいった様な仮面の微笑は、彼の資質によるものなのか、はたまた強いられた古典主義、とでも言える彼の作曲技法からくるものなのか、私には分からないのであるが、もともと、それは区別できるものでもないかもしれない。

好きか、と聞かれれば、好きではない、としか答えられない一方、それが嫌いか、と聞かれれば、嫌いだとか不快だとか言うには、あまりに軽すぎる冷笑である。

丁度、ソヴィエト社会主義連邦共和国そのものが、反定立としての成熟した資本主義を欠いたままでの擬似的に成立した体制であったように、ドミートリイ・ショスタコーヴィチは、自己の尊厳と権力からの圧力を止揚するのに、その手段を奪われていたが故に失敗せざるを得なかった。

その失敗した弁証法は、行き先のない結果を苦悩する。
キルケゴールは、苦悩だけが真実だ、と繰り返し書いていた。

しかし、私は、ドミートリイ・ショスタコーヴィチに未だその真実を聴けないでいる。
問題は、多分に、私の側にあるのかも知れないが、ただ、別の見方をすれば、彼についての記述から彼の作品が充分に自立する可能性については、今なお年月を要するのではないか、とも考えられるのである。

私は、ここでは、例えば、バッハが神を信じていたか、いなかったかに拘わらずに、彼のフーガは自立している、と言う意味で<自立>という言葉を使用しているのであるが、一方、この例にしても、彼の教会カンタータが同じく自立しているかどうかは議論の余地があろう。
しかるに、そうした自立に終局的な意味があるかどうかは、別次元の話題である。

現代に於いて、それは個人の価値観の問題でもあり、そうでなければならないであろう。
ただ、私は、ドミートリイ・ショスタコーヴィチの作品の幾分かは、永久にそうした自立を促すような性格を持ってはいない、と予想してはいるのである。

五十歩百歩と言う言葉がある。
五十歩逃げた人間は、百歩逃げた人に対して誇ってはならない、という意味であろう。

私は、しかしながら、百歩逃げた人間は、五十歩逃げた人に対して恥じねばならない、という事をも忘れてはならないと思う。

私のような者でさえ、仕事の第一線から退いたときは、これで戦いは終わった、としみじみ思ったものである。
一歩も逃げないで、なおかつ、他を裁かなかった人を、私はひとりだけ知っている。

 

蛇足(コーダ):



 

単純な家内は、不愉快な気分になるのなら、(そんな)音楽など聴かなければいい、などというが、その不愉快さを含めて何ものでも存在するのだ。
直接的にも、間接的にも、他人とつき合うという事は、嫌であっても、そういう事であろう。
いいとこ取りのつまみ食いは良くない。

ほど良い(名)曲を聴きたいと、と思う時に、私は、ドミートリイ・ショスタコーヴィチの<<ピアノ協奏曲 第二番 ヘ長調>>(Op. 102、特に第二楽章)を聴く。

 



ピアノ協奏曲第2番 ヘ長調 Op.102

第2楽章[ナクソス・クラシック・キュレーション

#ロマンチック


 

こういう言い方は作曲者に対して失礼であるのは承知しているのではあるが、典型的な名曲を聴くのも腹にこたえすぎる時というのもあるのである。

ドミートリイ・ショスタコーヴィチ ジュニアのさわやかな演奏(Chandos CHAN 8443)には眼をみはるものがある。

 



ピアノ協奏曲第2番 ヘ長調 Op.102

第2楽章 アンダンテ


 

デンマン注: 残念ながらチャンドス・レコード会社制作のカタログ番号CHAN 8443の CDのコピーはYouTubeにはないようです。

でも、上のクリップの演奏は太田さんも“眼をみはるものがある”と言うかもしれません。




42-43ページ
『前奏曲集―あるアマチュアの覚書-作品 1の1』より

デンマン注: 太田将宏が会費を滞納したようで上のリンク先は削除されてます!




ずいぶんと編集し直して、余計なクリップや写真などを貼り付けましたねぇ~。。。 ちょっと手の加えすぎじゃありませんかァ~!?



あのさァ~、オマエの文章にはネット市民の皆様に読んでもらおうという意思が見えないのだよ! 読者のことなど全く頭になくて、これまで通りにオマエが自分の学習ノートに書き付けたままを ネットで公開している!

いけませんかァ~?

当たり前だろう! オマエの学習ノートなど、誰も見たくないのだよ! ネットで公開するなら、ネット市民の皆様が楽しく読めるように公開すべきだよ!

そのつもりで書きましたが。。。

そのつもりになってないよ! 悪文の見本だよ!

分かりました。。。 で、デンマンさんは、オイラが書いたものを読んで、何か間違ったことを書いていると思って取り上げたのですか?

衒学的なオマエの文章には、ウザイと思ったけれど、特に間違っているところがあるとは思わなかった。。。 ただし、オマエの心優しい奥さんが言った事にちょっとだけ引っかかったのだよ。。。

どういうわけで音楽そのものについて語ろうとしないで、オイラの家内のことを取り上げようとするのですかァ~?

これから、音楽そのものを語ろうとするのだよ。。。 その前に、リンゴの嫌いな人に無理やりリンゴを食べさせるのは、拷問に等しいと僕は思うのだよ!

なんでリンゴを持ち出すのですか?

だから、例えだよ! 分かり易いようにリンゴの嫌いな人を持ち出すわけだよ!

つまり、クラシックの嫌いな人にクラシックを聴かせるのは、拷問のようなものだ、とデンマンさんは主張するのですか?

そうだよ。。。

でも、デンマンさんが引用した本に、「ショスタコーヴィチという人です。 彼の曲を弾いていると、ものすごく訴えかけてくるものがあって……もう、本当に病んできますよ!」 「楽譜どおりに演奏するだけではダメなんです。 作曲家の込めたものを汲み取らないと、曲の魅力は引き出せません」 と書いてあります。。。

だから、どうだと言うのォ~?

デンマンさんも、その言葉に共感したのでしょう!?

いや。。。 共感したわけじゃない。。。 演奏家として「楽譜どおりに演奏するだけではダメなんです。 作曲家の込めたものを汲み取らないと、曲の魅力は引き出せません」 という姿勢はもっともだと思うよ! でも、それは演奏家に対してだけ言えることだよ。。。

つまり、聴衆にとっては、そんなことはどうでもいいと言うことですか?

あのさァ~、僕はどちらかと言えば、クラシックは苦手なんだよ! 確かに、≪ピアノ協奏曲 第二番 ヘ長調 第2楽章 アンダンテ≫は、さわやかな演奏だと僕も思うよ。。。 ただ、その事についてクダクダとオマエのように 御託(ごたく)を並べたくないのだよ! さわやかな印象を受け止めることができただけで僕は十分に満足しているのだよ! その印象を大切に温めることが、僕にとってクラシック鑑賞なんだよ。。。

要するに、クラシックそのものよりもオイラの家内の反応の方がデンマンさんに取って より興味深いのですかァ~?

その通りだよ! オマエが奥さんの反応を文章の中に取り上げるから、こういうことになるんだよ! しかも、奥さんの言う通りなんだよ! 不愉快な気分になるのなら、(そんな)音楽など聴かなければいいのだよ! 100人のうち90人から95人が、そう思うはずだよ!

そうでしょうか?

だってさァ~、わざわざ不快な気分を味わうために、クラシックを聴く馬鹿はいないだろう!?

でも。。。、でも。。。、時には、いやな人間とも付き合わなければならないように、いやな気分になる曲も後学のために聴くべきだと思いますよ。。。

あのさァ~、僕は嫌な人間とは付き合わない主義なんだよ! だから、気分が悪くなるような音楽も、聴かないのだよ!

でも。。。、でも。。。、デンマンさんだってぇ、ネットの世界で毛嫌いされている あの50ヅラ下げて 年老いた両親の世話になって狭い部屋に引きこもりながら 嫌がらせのコメントを書き回っている現実主義者と付き合っているじゃありませんかァ~!

 


(einstein91.jpg)


(fool940.jpg)


『天才と現実主義者』

『現実主義者 馬鹿の見本』


 



確かに、あの愚かな現実主義者はネットの世界で毛嫌いされている。。。 でもなァ、僕にとっては、ブログの記事のネタになる マジで興味深い男なんだよ!



つまり、ブログのネタになるので、あの馬鹿とデンマンさんはネットで付き合っているのですか? 

もちろん、ネタになるから足掛け4年も付き合ってきたけれど、こういう嫌がらせのコメントを書く愚か者がネットに出てきては困るのだよ。。。 ブロガーやネット市民の皆様の迷惑になる。。。 だから、そういう愚か者にならないようにと反面教師として取り上げているのだよ!

でも、クラシック音楽は、あの馬鹿とは違いますよ。。。 だから、いやな気分になる曲も後学のために聴くべきだと思います。

同じことなんだよ。。。 いやな曲は聴く必要ないし、いやな人間とも付き合う必要はないのだよ。。。



(laugh16.gif)


【レンゲの独り言】


(manila07.gif)

ですってぇ~。。。

あなたも、いやな曲は聴く必要ないし、いやな人間とも付き合う必要なない、と思いますか?

「ええっ。。。 そんな事は、どうでもいいから、他にもっと面白い話をしろ!」

あなたは、そのように私に強要するのですか?

分かりましたわ。。。 では、話題を変えます。。。

これまで、デンマンさんは太田さんについて

ずいぶんと記事を書いてネット上にアップしたので、

太田さんも次のサイトで抗議録を公開したのです!


(kogiroku9.png)

『実際の抗議録』

デンマン注:しかし太田将宏が上の抗議録を掲載したサイトは消滅してしまいました!

 

デンマンさんも上の抗議録を読んで ムキになって反論しています。

『嘘を書く日記』

 

太田さんは、これに対しては反論ができないのか、それ以降 無言で通しています。

でも、そのうち 忘れた頃にまたコメントを書き込むかもしれません。。。

あなたは、どう思いますか?

とにかく、ネットには “めちゃキモい”人たちがウヨウヨしています。

太田将宏さんは、まだ良い方ですわ。

中には、まるで得意になって、愚かな事をして遊んでいる オツムの足りない人たちがたくさん居ます。

また、見かけは普通のブログでも、悪徳スパマーが手を変え品を変えて 悪徳サイトへ誘い込もうとしています。

スパムコメントで褒められると、ついついその気になって、

相手のブログへ飛んでゆき、お返しに、あるいはお礼にと思って

読者に登録してしまったりするものですわァ。

どうか スパマーの思う壺にはまらないでくださいね。

悪徳スパマーは悪徳サイトへ誘おうと

てぐすね引いて待っているのですから。。。

悪徳サイトを利用して、

メールアドレスで登録したりすると、

あなたのメールアドレスは第3者や第4者に売られてしまう危険性があります。

あなたは、そのようなスパム・コメントや 成りすましスパマーには

騙されないと思い込んでいるでしょう?

でもねぇ~、もしかすると騙されているかもよ。。。

とにかく気をつけてくださいね。

次回も、さらに面白い話題が続きます。

あなたも、どうか、また記事を読みに戻ってきてください。

では。。。


(hand.gif)


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