聖徳太子のチューター


 

聖徳太子のチューター

 


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デンマンさん。。。、聖徳太子のチューターは女性だったのでござ~♪~ますかァ~?


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いや、違います。。。 卑弥子さんを呼び出したついでに、卑弥子さんに似た人を貼り出したまでです。。。 深い意味はないのですよ。。。

でも、どういうわけで急に聖徳太子のチューターというタイトルにしたのでござ~ますかァ?

実は、東京に住んでいる 正徳 多恵(しょうとく たえ)さんが僕の記事を読みにやって来たのです。。。 次のリストを見てください。。。


(liv70710a4.png)


『拡大する』

『聖徳太子の家庭教師』




これはライブドアの僕の『徒然ブログ』の7月9日の午後3時から午後8時23分までの約5時間半の「生ログ」の一部です。。。 赤枠で囲んだ箇所に注目して欲しいのですよ。



あらっ。。。 7月9日の午後3時19分にGOOGLEで検索して『聖徳太子の家庭教師』を読んだのでござ~ますわねぇ~。。。

そうです。。。

IPアドレスを調べて 東京に住んでいる 正徳 多恵(しょうとく たえ)さんが『聖徳太子の家庭教師』を読んだと突き止めたのでござ~ますかァ?

その通りです。。。


(ip223106b.png)

『拡大する』



でも、IPアドレスを調べてもアクセス者の名前まではゲットできないのですわァ~。。。



卑弥子さんは、また きびしいツッコミを入れるのですかァ~?

だってぇ~、事実は事実ですものォ~。。。 上の結果を真に受けて、IPアドレスを調べると、個人情報までゲットできるような間違った印象をネット市民の皆様に与えるのはよろしくござ~ませんわァ。

あのねぇ~、正徳 多恵(しょうとく たえ)さんは『聖徳太子の家庭教師』を読んで、とっても面白かったというメールを僕に寄越したのです。。。

つまり、、正徳 多恵(しょうとく たえ)さんも デンマンさんのブログの常連さんの一人だと言いたいのでござ~ますかァ?

そうです。。。 僕が自作自演をしているのではないということを示すために、わざわざIPアドレスを公開しているのですよ。

。。。で、多恵さんは、どのようにしてデンマンさんの記事を探しだしたのでござ~ますかァ?

もちろん、GOOGLEで次のように検索したのですよ。。。


(gog70710c.png)


『拡大する』

『現時点での検索結果』




あらっ。。。 「聖徳太子 家庭教師」と入れて検索したのですわねぇ~。。。



そうです。。。 42,700件ヒットするのですよ。。。

正徳 多恵(しょうとく たえ)さんは赤枠で囲んだ記事を読んだのでござ~ますか?

そういうことです。。。

でも。。。、でも。。。、多恵さんは、どういうわけで聖徳太子に家庭教師がいたことを知っていたのでござ~ますかァ?

あのねぇ~、多恵さんは東京の文京区目白台にある日本女子大学の文学部史学科の4年生なのですよ。。。


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(tjkoshidai.jpg)


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つまり、日本古代史の聖徳太子で卒論を書こうとしているのでござ~ますかァ?



そういうことです。。。

。。。で、卒論のヒントを得るためにGOOGLEで検索したのでござ~ますかァ?

その通りです。。。

。。。で、何が参考になったのでござ~ますかァ?

多恵さんは次の箇所を読んでオツムに閃(ひらめ)くものがあったのですよ。。。


4) 聖徳太子の母親はペルシャ人だった


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宇宙の摂理ブログ聖徳太子の母親はペルシャ人だった? 聖徳太子の母親は ペルシャ人だった? 渡来人 聖徳太子とその時代を考えるとき、私たちは日本古代史の中で考えようとします。昔の日本で起こったことを考えるのだから、それも当然のことのように思えます。 ...

http://barclay.wablog.com/4.html - 95k

5) 聖徳太子の個人教授には

  ペルシャ人がいた

宇宙の摂理ブログ確証があるわけではありませんが、これが事実とするならば、聖徳太子には、16分の1のペルシャ人の血が流れていたことになり ... ここで、聖徳太子の母親にペルシャ人の血が混じっていたこと、また彼女の回りにペルシャ人を含めて、多くの渡来人が居た ...

http://barclay.wablog.com/3.html - 98k




(2008年7月10日午後4時現在)

『「聖徳太子 ペルシャ人」 の検索結果』




つまり、聖徳太子にはペルシャ人の血が流れたいたのかもしれない、と多恵さんは関心を深めたのですか?



そうです。。。 それで次の部分をじっくりと読んだのです。。。



 

聖徳太子の個人教授には

ペルシャ人がいた



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太子は、高句麗からの渡来僧・慧慈(えじ)を個人教授として内教(仏教)を学んだとされています。さらに外典(そとふみ)を覚袈(かくか)から学んだそうです。仏教から外典というと、その中には儒教、道教、景教、拝火教、バラモン教、つまり仏教以外のさまざまな経典が含まれます。この覚袈が渡来人であったと言われていますが、どこの国からやって来たのか、については確証がありません。

聖徳太子は、蘇我氏の一員だと言っても過言ではないほど、蘇我氏とは切っても切れない繋がりを持っています。また、蘇我氏は渡来人を支配することによって実力をつけてきたということからも分かるように、渡来人の集団とは強い絆で結ばれています。私は、蘇我氏自身も高句麗りからやって来たとみています。このことについては、このページ (蘇我氏は高句麗からやってきた) で説明しています。

要するに、聖徳太子は、小さな頃から渡来人に取り囲まれて生活していたと言うことは、まず間違いないようです。従って、成長してからも彼の回りには実に渡来人が多いのです。先ほど述べた高句麗からの渡来僧・慧慈(えじ)と外典(そとふみ)を教えた覚袈(かくか)は、太子に影響を与えた数多い渡来人の中のたった二人に過ぎません。

太子の個人教授にはこの二人の他に慧聡(えそう)がいます。この人は、実は慧慈(えじ)と同じ年に百済から来朝しています。『書紀』 に 「慧慈、慧聡は内教を弘演(ひろめ)て並(ならび)に三宝の棟梁となる」、とあります。これら名僧は、飛鳥寺を造り終えると同時に、飛鳥寺の住僧となっています。

しかし、この当時の国際関係を考えると、一見、不思議な感じがします。交戦を続ける高句麗と百済の敵国同士の両僧が、同時に来朝し、飛鳥寺に共に居住して、仏教の二大棟梁となる、ということは、常識的には考えられません。こじつけて、説明しようとするならば、高句麗の慧慈を通して北朝仏教を、一方百済の慧聡を通して南朝仏教をともに導入しようとした、ということが言えるでしょう。しかし、これとても、もう一つ説得力に欠けます。そこで、この当時の坊さんの役目を考えてみる必要があります。

一言で言ってしまえば、言葉の響きは良くありませんが、坊さんは頭を丸めたスパイです。仏教を国教とする時代です。しかも、「推古女帝と聖徳太子」のページで述べているように、蘇我馬子の宗教観には、仏教を思想面で受け入れると言うよりも、政治に利用するという意図がありありと見て取れます。したがって、慧慈、慧聡、覚袈は、太子の宗教の専門の師であるばかりでなく、高度の政治外交の顧問格でもあったわけです。しかも、スパイとしての役目を担っていますから、「同時に来朝し、飛鳥寺に共に居住して、仏教の二大棟梁となる」ことは、不思議でもなんでもない。むしろ、この二人にとっては、好都合だったと言えるでしょう。居ながらにして情報交換ができるのですから。

後年、慧慈(えじ)は高句麗へ戻っています。もちろん、時の高句麗王に報告のためです。坊さんになってスパイ活動をしたという良い例は、藤原鎌足の長男・定慧(じょうえ)です。この人のことは、このページ (藤原鎌足と長男・定慧) で詳しく述べています。あまり出過ぎたことをしたために、天智天皇の命令で殺されています。

百済は高句麗や新羅にたえず攻められるため、大和朝廷に幾度も軍事援助を求めています。派兵の代償として、五経博士などの文化使節を送ってきたわけで、慧聡(えそう)もそうした文化使節の一員です。その記事は 『日本書紀』 の「継体紀」 「欽明紀」や 『百済本紀』 に書かれています。しかし、文化使節とは、表向きのはずで、慧聡(えそう)のような僧侶は、時の権力者に近づく機会が多いわけで、よく言えば、百済大使、悪く言えばスパイの親分として活動していたことは、いわば当然のことです。

五経博士の「五経」とは儒教の易・書・詩・礼・春秋で、これとともに医博士、暦博士、採薬師施(くすりかりのはかせ)や僧侶など、各分野の専門家を送って来ており、諸博士の人名も中国の南朝人と分るものもあり、時の大和朝廷は百済のみならず、百済を介して南朝文化の導入も意図していたことがうかがわれます。

ここで、このページのタイトルについて考えてみましょう。覚袈(かくか)は果たしてペルシャ人だったのだろうか?覚袈は外典(そとふみ)を太子に教えたのです。外典とは儒教、道教、景教、拝火教(ゾロアスター教)、バラモン教を含めた仏教以外のさまざまな経典ですから、儒教と道教については百済人や高句麗人でも教えることができたかもしれません。しかし、景教、拝火教、バラモン教となると、百済人や高句麗人では手に負えなかったのではないでしょうか?このように考えれば、覚袈がペルシャ人であったとしても不自然ではありません。

 

聖徳太子の一族に

ペルシャ人が居たの?


ここで考えなければならないことは、これらの高度の文化を、一体、大和朝廷の誰が受容できたのであろうか?と言うことです。語学の素養もない、外国文化に触れたこともない一般の官吏ではまず無理です。つまり、これらの高度の文化を受け入れることができるのは語学の素養もあり、外国文化に触れたこともある東漢人(やまとのあやひと)や今来漢人(いまきのあやひと)などの渡来人です。

この人たちを掌握していたのは一体誰か?蘇我氏です。従って、蘇我氏の中にもまた語学の素養があり、外国文化に明るい人たちがたくさん居ないと、彼らを掌握し切れません。このことからも、蘇我氏が渡来系の氏族であったということがよく分かります。

上に述べたような理由で蘇我氏のもとには渡来人がたくさん集まってきます。渡来人の中には、もちろんペルシャ人も居ました。当然のことながら、蘇我氏を頼って行ったでしょう。

ここで、前のページからの本題に入ります。聖徳太子の母親はペルシャ人だったのか?


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当時ペルシャ人をハシ人と呼び、波斯人と書きました。太子の個人教授の一人である覚袈(かくか)がペルシャ系の人ではないかという推測は、太子の母が穴穂部間人(あなほべのはしひと)と書かれている事と、大いに関係があります。間人(はしひと)とは波斯人(はしひと)でペルシャ人のことではないか!と、言うわけです。太子が赤い髪の毛をしていたと言う伝承があります。この伝承に真実が隠されているのではないか?もしそうだとするなら、太子の母親がペルシャ人であると言う事も決して荒唐無稽な事ではありません。


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聖徳太子の父は用明天皇、母は蘇我稲目の孫娘です。この稲目の父は高麗(こま)で、高句麗からやってきたのですが、実はこの人がペルシャのサカ族の出身だと言う研究家も居ます。しかし、そんな遠いところにペルシャ人を持ってゆかなくてもよいのです。私はその説よりも、むしろ穴穂部間人の母親、つまり小姉君(おあねぎみ)がペルシャ人の血を受け継いでいるのではないか、とみています。

もし当時、ペルシャ人が日本へやってきて、どの一族を頼りにするかといえば、当然、飛ぶ鳥を落とす勢いの蘇我氏の元を訪れたことでしょう。その頃、渡来人を掌握していたのが蘇我氏だからです。ペルシャ人の中には、蘇我氏との絆を確固なものにするために、蘇我稲目に娘を側室として差し出す親も現れたでしょう。そのようにして穴穂部間人が生まれた、と考えるわけです。

小姉君の父はたしかに稲目なのですが、母親の出自について日本書紀は沈黙しています。なぜ沈黙する必要があるのか?その答えを出すには誰が日本書紀を書いたかが分かれば簡単です。天武天皇の息子の舎人親王が編集長だったと言うように書かれていますが、彼はむしろ発行人であり、実際に編集に当たっていたのは藤原不比等です。藤原氏は、元、中臣氏ということで、日本古来の氏族となっていますが、不比等のおじいさんの御食子(みけこ)は百済からやって来ました。従って、自分たちが「よそ者」であるということを書きたくなっかたように、穴穂部間人の出自についても沈黙していたのです。

では、なぜ、不比等は自分の名前を編集長として書紀に書かなかったのか?それには、これまた事情があります。そのことについてはこのページ (『壬申の乱』は天智帝暗殺で始まった) で説明しています。

しかし、この説を採ると、飛び越えねばならないハードルがあります。どういうことかというと、実は、小姉君の母親が物部氏出身と思える節があるのです。

というのは、当時の皇子・皇女は一定の年齢まで母方の実家で養育されるのが普通でした。そして育った土地の名前をつける慣習がありました。飛鳥で育った大王の娘なら飛鳥皇女と呼ばれるわけです。すると穴穂部間人皇女の穴穂も地名に由来することになります。大和周辺に穴穂の地名は河内と奈良の石上にあります。皇女がどちらで育ったか分りませんが、どちらも物部氏の領地なのです。

つまり小姉君は蘇我稲目の娘であると同時に、物部氏の娘でもあったのです。しかも穴穂部間人皇女は物部の土地で成長しました。しかし、ご存知のように、仏教をめぐって蘇我氏と物部氏は対立し、それまでの史上最大の戦闘を繰り広げました。したがって、このようなことがあり得るだろうかと、あなたは疑問に思うかもしれません。

ところが、それ以前、朝廷で権力を握っていた大伴氏を退けるため、蘇我氏と物部氏は手を握り合ったことがあります。どういうことかというと、小姉君は、蘇我氏と物部氏が宮中で勢力を伸ばす方策として、互いに婚姻関係を結んでいた当時の産物ということになります。「友情の証」として、蘇我稲目かあるいは彼の父親の高麗が自分の側室の中から美しいペルシャ人の娘を物部の氏の長者に与えたのでしょう。このようなことは、この当時よくあることでした。軽皇子(後の孝徳天皇)が小足姫(おたらしひめ)を中臣鎌足(藤原鎌足)に与えたのもこのような例です。このことについては、このページ (藤原鎌足と軽皇子) で述べています。

そのお返しに、今度は、物部氏がペルシャ人の女性から生まれた娘を蘇我稲目の側室として与えたわけです。その娘から生まれたのが小姉君だというわけです。したがって、小姉君の体内にはペルシャ人の血が4分の1流れていたわけです。彼女の娘が穴穂部間人皇女です。確証があるわけではありませんが、これが事実とするならば、聖徳太子には、16分の1のペルシャ人の血が流れていたことになります。太子が赤い髪の毛をしていたという伝承は、このことによって説明がつきます。

また、後に推古天皇を生む堅塩媛(きたしひめ)と小姉君の間の確執も、このことによっていっそう良く理解することができます。つまり、この腹違いの姉妹は共に欽明天皇の後宮に入ります。ところが、若くてきれいな小姉君へと天皇の愛は傾いてゆきます。それも分かるような気がします。エキゾチックなペルシャ人の血を引いている小姉君は、天皇の目には、さぞかし魅惑的に映ったことでしょう。

しかし、堅塩媛(きたしひめ)にしてみれば我慢のならないことです。このようなことを身近に見て来た娘の豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)も、当然、この混血児の叔母のことを良く思うはずがありません。母親からずいぶんとグチをきかされたことでしょう。この豊御食炊屋姫が推古帝です。

推古天皇は、後年、この小姉君の血を引き継いでいる皇子(聖徳太子も含めて)が天皇になることを極力避けようとしています。推古帝の身になってみると、2重の意味でこのような皇子を排除したかったでしょう。先ず「よそ者」の血が流れているということ。しかも、この混血児の叔母のために、自分の母親がつらい目にあってきたということ。このように考えてゆくと、つまり小姉君にペルシャ人の血が流れているとすれば、このあたりの事情が非常にすっきりと説明できます。

しかし、これだけに止まりません。なぜ、聖徳太子は厩戸王子と呼ばれたのか?母親の穴穂部間人皇女が宮中を見回るうちに、馬屋の前で産気づき、そこで出産したからという逸話が日本書紀などに見られます。これはキリストの生誕を彷佛とさせます。しかし、納得ゆくような説明が見当たりません。

ここで、聖徳太子の母親にペルシャ人の血が混じっていたこと、また彼女の回りにペルシャ人を含めて、多くの渡来人が居たことを考えると、このことも、非常にうまく説明がつきます。では、次のページでもっと詳しくこのことを見て行こうと思います。




この記事は次のページをコピーして編集したものです。

http://beaverland.web.fc2.com/oldhist/persia3.html




リンク元(referer)

Google.co.jp 聖徳太子 ペルシャ人
Google.co.jp えじ えそう
Google.co.jp 聖徳太子 ペルシャ
Google.co.jp 聖徳太子 ペルシャ人
Google.com 聖徳太子 物部 鎌足
Google.com 高句麗 聖徳太子
Google.com 聖徳太子 ペルシャ人
Google.co.jp 聖徳太子はペルシャ人か
Google.co.jp ペルシャ人
Google.co.jp 聖徳太子 ペルシャ人

(2008年7月13日現在)




『聖徳太子の個人教授にはペルシャ人がいた』より
 (2005年6月2日)




どうですか、卑弥子さん?。。。 京都の女子大学で腐女子たちに「日本文学と源氏物語」を講義している卑弥子さんにとっても 面白いと思えるでしょう?



いつものようにデンマンさんの理屈に引き込まれそうでござ~♪~ますわ。

僕は理屈を捏(こ)ね回しているわけではないのですよう。

根拠に基づいているとおっしゃるのでござ~♪~ますか?

もちろんですよう。 上の記事の中に貼ってあるすべてのリンクをたどって僕が書いた記事を読めば、納得できるように書いてあるのです。

デンマンさん。。。、あのですねぇ~。。。よほど暇がある人でない限り、デンマンさんが書いた記事をすべて読むなんて無理でござ~♪~ますわ。

でもねぇ、僕も驚いたのだけれど、上の中で引用されている記事は結構読まれているのですよう。

どうして分かるのですか?

アクセス解析で訪問者の数が分かるのですよう。 僕と同じように聖徳太子の時代に、壮大な歴史ロマンを感じている人が結構、たくさん居るのですよう。 上の記事を読むだけでも、国際的な広がりを感じませんか? 僕は源氏物語より面白いと思いますね。

デンマンさん!。。。あたくしは、これでも京都の女子大学で「日本文化と源氏物語」を講義している者でござ~♪~ますわ。

知ってますよう。

そのあたくしに向かって、“源氏物語よりも聖徳太子物語の方が面白い!”。。。デンマンさんは、そう宣(のたま)うのでござ~♪~ますか?

宣(のたま)うなんて、すごい事を言いますねぇ~ うへへへへ。。。

デンマンさん!。。。笑いで誤魔化さないでくださいな。 あたくしは真面目に腹を立てているのでござ~♪~ますわ。

分かりました。。。 僕は源氏物語がつまらない、と言っているのではないのですよう。。。 もちろん、源氏物語は世界的にも認められている素晴しい小説ですよう。。。 でもねぇ~、「聖徳太子物語」は、それ以上に歴史ロマンを感じさせる壮大な絵巻だと思っているのですよう。

でも、そう言う絵巻はござ~♪~ませんわ。

だから、僕がネットで立ち上げようかと。。。 『壮大なる歴史ロマン・聖徳太子物語』。。。 『レンゲ物語』と『小百合物語』に引き続いて、この歴史的大ロマンをスタートさせてみようかと。。。 うへへへへ。。。

デンマンさん。。。マジですか?

夕べ、そう言う夢を見たのですよう。

夢のお話でござ~♪~ますか?。。。 んで、上の“リンク元”と言うのは、どう言う事でござ~♪~ますか?

これは僕が書き加えたものではないのですよう。

誰が書き加えたのでござ~♪~ますか?

『宇宙の摂理ブログ』では、記事を読みにやって来た人のリンク元を上のように最新10個だけ記録するのです。つまり、10個の URL を自動的に書き込むようになっているのですよう。そういう機能が WABLOG のブログにはついているのです。 (デンマン注: WABLOG プロバイダーは 2010年以前に すでに店じまいしました!

「リンク元」に記録されている URL はデンマンさんの記事を読みにやって来る前に、ネットサーファーが居たページの URL でごさ~♪~ますか?

そうですよ。上の10人は、すべて検索エンジンで検索した結果の中に表れた僕の記事のタイトルをクリックして読みにやって来たのです。

それで、その人たちの IP アドレスまで分かるのでござ~♪~ますか?

もちろん、調べる気になれば分かりますが、そこまで記録するようにはなっていません。 だから、上の記録だけでは 読みにやって来た人の IP アドレスまでは分かりません。

。。。んで、多恵さんは卒業論文に聖徳太子を書くことに決めたのでござ~ますかァ?

そうです。。。 女性らしく、“聖徳太子の母親がペルシャ人だった可能性について”という題目で卒論を書こうと決めたのです。


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マジで。。。?



僕はウソと卑弥子さんの尻はつかないことにしているのですよ。。。



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【卑弥子の独り言】


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ですってぇ~。。。

最後のオチは、かなり下品なオシモのオチですわァ~。。。

なんだかオチの意味が解らないネット市民の皆様は、深く考えないようにしてくださいねぇ~。。。


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多恵さんは卒業論文に“聖徳太子の母親がペルシャ人だった可能性について”という題目で書こうと決めたようでござ~ますけれど

あなたは、聖徳太子のママにペルシャ人の血が混ざっていたと考えられますか?


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マユツバものだと思うでしょう?

あたくしだってぇ、ちょっと信じられませんわよう。。。

むしろ、あたくしの“ヴィーナスのえくぼ”が最近、男性の目の保養になっているという事実の方が信じられると思うのですわァ~。

あなたは信じられないかもしれませんけれど、

最近、“ヴィーナスのえくぼ フィーバー”が起こっているのですわよう。。。

ええっ。。。 マジで信じられないのですかァ~?

じゃあ、ちょっと次の検索結果を見てくださいまし。。。


(gog60409a.png)

『拡大する』

『現時点での検索結果』

「卑弥子 女性の本当の魅力 ヴィーナスのえくぼ」と入れてGOOGLEで検索する殿方が多いのでござ~ますわァ。

つまり、あたくしの“ヴィーナスのえくぼ”を目当てにやって来るのですわァ~。。。

うふふふふふふ。。。

あなたも、ビックリするでしょう?

ジムに毎日通って“ヴィーナスのえくぼ”をゲットしたのですわよ。


(buttdimp5.jpg)

どうでござ~ますかァ?

ええっ。。。 あたくしのお尻だとは思えないのでござ~ますかァ~?

どうしてよう?

ええっ。。。 スタイルがよすぎると、おっしゃるのござ~ますかァ~?

あたくしが十二単を一枚、一枚脱いでゆくと、

最後には上のようなおヌードになるのですわよう。

信じてくださいましなァ~。。。

ところで、話は変わりますけれど、古代にはあなたの知らない雄大な、あるいはミステリアスな面白いお話があるのですわよう。。。

あなたのために平安史、古代史の興味深い記事を用意しましたわァ。

ぜひ お読みくださいねぇ~。。。

天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。
 

天智天皇は暗殺された 

定慧出生の秘密 

藤原鎌足と長男・定慧 

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?


今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?


マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?


とにかく、次回も興味深い記事が続きます。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてください。
じゃあ、またねぇ~。。。


(hand.gif)


ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
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(sayuri5.gif)

ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。

卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。




(miya08.jpg)

『下衆のかんぐり』

『桓武天皇のママがネットで』

『ござが天皇とGOOGLE』

『一敗が三人に!』

『行田の黒い霧をはらう』

『ペルシャ人が飛鳥に』

『小柴垣草子』

『後白河上皇ダントツ』

『ブスと美人』

『死んでも生きてる』

『失意の太田将宏』


(annasalleh.jpg)

『オルフェと聖徳太子』

『源氏物語とおばさんパンツ』

『霊仙はなぜ毒殺されたの?』

『紫式部が地獄へ』

『破戒僧円載』

『アショーカ王の愛と苦悩』

『どら平太の世界』

『三四郎とデンマンさん』

『ヒトラーの姪』

『ゴヤと三島由紀夫』

『仏陀とキリストと娼婦』


(zurose2.jpg)

『ズロースと戦争』

『伊藤若冲ブーム?』

『ブッダと物理学』

『加藤清正ブーム?』

『愛憎と三輪山』

『松原智恵子 お尻ペンペン』

『坂本龍馬は流れ者か?』

『野ざらし』

『紫式部堕獄説』

『日本最古のポルノ?』

『源氏物語の性描写』

『寅さんの本棚と急行まつしま』

『ヒトラーは草食系?』

『ブッダとキリストと娼婦』

『顔文字とオナラ』


(hama10.jpg)

『宝暦の恨みを明治維新で』

『デウキと紅葉@行田』

『薄い陰毛と紅のボートピープル』

『江戸の閨房術』

『ずるがしこい現代人』

『春画@源氏物語』

『千早振る』

『あれっ、松本清張』

『キスと源信』

『伎楽は呉から…?』

『紺瑠璃杯に魅せられて』

『神聖娼婦 マリア』

『安徳帝は生きていた』

『白石川の桜』

『ブログ村のマリア様』

『萌える済子女王』

『ピンク桃色@徒然』

『富沢金山の桜』

『ピンク桃色村』

『紫式部@徒然』

『絵里香@ペルー』

『ペルシャ人の楊貴妃』

『ん?佐伯今毛人』

『文学と歴史とウソ』

『百人一首ミステリー』

『芭蕉と遊女再び』

『映画とロマン@仙台』

『源氏物语中的性描写』

『忘れられた歴史ロマン』

『おばさんパンツ@サンホセ』



軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
(godiva05.jpg)


(byebye.gif)
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文学と歴史とウソ


 

文学と歴史とウソ

 


(question.gif)


(histouso.jpg)


(yang103.jpg)


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白拍子というのは、平安時代後期に活躍した、
一口で分かりやすく申し上げるならば、
芸者のような者でござ~♪~ますわ。


(shira15.jpg)

このように白の水干(すいかん)に
立烏帽子(たてえぼし)、白鞘巻(しろさやまき)という男装で
「今様」と呼ばれる歌を謡(うた)いながら、
男舞と呼ばれる舞を舞うのでござ~♪~ます。

白拍子であった祗王(ぎおう)は、
時の権力者・平清盛の寵愛を受け、
彼の館で幸せに暮らしておりました。

あるとき、清盛に歌舞を披露したいという
別の白拍子が現れたのです。
その者が仏御前だったのですわ。

ただの白拍子に過ぎない仏御前を清盛は追い返そうとしました。
でも、遠路はるばるやってきた彼女を見かねて、
心の優しい祗王がとりなしたのでござ~♪~ますわ。

それで、仏御前は清盛に舞を見せることになりました。
しかし、これを見た清盛は心を奪われ、
仏御前を寵愛するようになってしまったのでござ~♪~ます。

皮肉なものでござ~♪~ますわねぇ~。
男と言うのは本当に浮気なものでござ~♪~ますわ。
祗王の座を奪う気持ちのない仏御前は辞退しようとしました。

しかし、それに気づいた清盛は、
邪魔な祗王を追放してしまったのですわ。
本当に悲しい事でござ~♪~ますゥ。



(seisho05.gif)

萌え出づるも

枯るるも同じ

野辺の花

いづれか秋に

あわではづべき



館を出る祗王がせめてもの忘れ形見にと
詠んだ句でござ~♪~ます。

さらに翌春、清盛は退屈している仏御前を慰めるためといって、
祗王に仏御前の前で舞を披露することを強要したのです。
祗王は、あまりの屈辱に死を決意するのでござ~♪~ました。

しかし、五逆罪になることを母親が説き、
やむなく祗王は清盛の館へ向かうのです。



(shira15.jpg)

仏もむかしは凡夫なり

われらも遂には仏なり

いずれも仏性具せる身を

隔つるのみこそ悲しけれ



このように謡(うた)いながら舞い踊り、
諸臣の涙を誘ったのでござ~♪~ます。

祗王は都に居れば、
また同じような思いをしなければならないと、
母、妹と共に尼となり、嵯峨の山里で仏門に入るのでした。

当時、祗王21歳、妹の祇女は19歳、
母の刀自(とじ)は45歳でござ~♪~ました。

ところが、ある秋の夕べ、仏御前は祗王の元を訪れたのです。
なぜ。。。? どうした事でござ~♪~ましょうか?


(hotoke06.jpg)

実は、祗王の運命を自分に重ねて世の無常を思い、
仏御前は、清盛の館を抜け出して
尼となっていたのでござ~♪~ます。

それからのち、祗王一家と仏御前は、余念無く仏道に励み、
みな往生の本懐を遂げたのでござ~♪~ます。

小百合さん、いかがでござ~♪~ますか?
女の身として涙なくしては読めないですよね。
おほほほほ。。。


(giou-ji.jpg)

それにしても、祗王寺のお庭は
苔がとっても美しいですことォ~。。。
見とれてしまいますわぁ~。

あああぁ~。。。デンマンさんとご一緒に見たいわぁ。。。
うしししし。。。

 


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『愛憎と苔寺』より
(2008年10月7日)






デンマンさん。。。 どういうわけで、白拍子の祗王と平清盛のお話を持ち出してきたのでござ~ますかァ?



“文学と歴史とウソ”について卑弥子さんと語り合うためですよ。。。

つまり、上のお話の中にウソがある、とデンマンさんは主張するのですか?

ウソだと断定できないかもしれないけれど、『平家物語』をじっくり読むと、どうやら仏御前の話は清盛さんを貶(おとし)めるための創作だという気がしてきたのですよ。

清盛さんを貶(おとし)めるための創作。。。?

そうですよ。

でも。。。 でも。。。 どうして清盛さんを貶(おとし)める必要があるのでござ~ますか?

あのねぇ~。。。、平清盛は日本史上「悪者」として評価され続けてきたのですよ。 たとえば、あの有名な道鏡もそうですよ。 だから道鏡などは未だにエロい冗談が巷の間で次のように囁(ささや)かれている。


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つまり、清盛さんも日本史の時間に悪者として教えられたのでエロい話がたくさんあるとデンマンさんは言うのですか?



そうですよ。

でも、誰がそのように清盛さんを貶めたのですか?

もちろん、平家を滅ぼした源氏ですよ。 源氏は正義の味方として悪者の平清盛とその一族を滅ぼしたということを宣伝したのですよ。 歴史では何度も繰り返されてきたことです。 つまり、勝てば官軍なのですよ。

でも、清盛さんを貶めるために仏御前が利用されたのでござ~ますか?

僕は『平家物語』の「祗王」を何度も繰り返して読んでみて、その思いを強くしたのです。

それは、いったいどこでござ~ますか?

次の箇所を読んでみて下さい。



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また京都に白拍子の名手がひとり現れた。
加賀の国(石川県南部)の生まれ、名を仏という。
歳は16とのことである。
京都の人は、上も下も、昔から多くの白拍子は見たが、これほど上手な舞は見たことがないと、しきりにもてはやす。

ある時、仏御前は、
「わたしは、世にもてはやされてはいるが、当世栄(は)えめでたき平家太政(だいじょう)の入道清盛公に召されぬことばかりが心のこり。
遊び女のならいなれば、かまわぬはず。
こちらより、おしかけてみようか」
とある時自分から、西八条の清盛の邸へ伺った。

取り次ぎの者が、「いまは都に名の聞こえた仏御前が参りました」と言上すると、清盛は気色をそこねて、
「なんと、そのような遊び女は、人に召されてくるものだ。
かってに推参(すいざん)する法があるか。
神であろうと、仏であろうと、祗王のおるところへは参ってはならぬ。
早々に追い払え」
と言う。

仏御前はすげないその言葉に、やむなく帰りかけたが、その時、祗王が清盛公に、
「遊び女が自分から参りましたのは、世の常のならわし、それもまだ年端(としは)のゆかぬ者、たまたま思い立って参りましたものを、すげなく申されて帰すのはふびんでございます。
いかばかりはずかしいことか、はた目にも気の毒です」

(デンマン注:読み易いように改行を加えました。
写真はデンマン・ライブラリーより)




31-32ページ 『平家物語(上)』
2004年10月20日 初版発行
現代語訳: 中山義秀
発行所: 河出書房新社




今で言えば仏御前はこの時、満15歳ですよ。



そうですわねぇ~、 昔は歳は数(かぞ)えでしたから。。。

仏御前が清盛の屋敷に行ったのは、ちょうどアイドル歌手の熱狂的なファンがアイドルの家に押しかけて行ったようなものですよ。

そうかしら。。。?

だから、清盛も初めは「招きもしないのに来きやがってぇ~。。。んもおォ~。。。 非常識だ!」と気分を損ねたのですよ。。。 『平家物語』にも、そう書いてある。。。

。。。で、それがどうしたのでござ~ますか?

それで仏御前は祗王の運命を自分に重ねて世の無常を思い、清盛の館を抜け出して尼となって、祗王が住んでいた庵(いおり)を尋ねたのですよ。 この時、仏御前は次のように言った。


あなたが襖障子(ふすましょうじ)に、「いづれか秋にあはで果(は)つべき」と書きおかれたお言葉、まことにその通りだと心にひしと感じておりました。
いつぞやあなたが屋敷に召されて、今様をおうたいなされたときも、つくづくと浮かれ女の身のつらさを、思い知らされました。

そののちは、いずこへお住まいかぞんじませんでしたが、このほど噂によれば、母子三人様姿を変え、ごいっしょに念仏されている由(よし)、聞くにつけてもうらやましゅうぞんじて、いつもおいとまを願い申しましたが、入道殿はいっこうにおゆるしになりませぬ。
ひとり思いあわせてみますと、この世の栄華は夢の中の夢、楽しみ栄えたとてなんになりましょう。

人の身に生まれ出ることはむずかしく、仏の御教(みおし)えにあう機会もめったにございません。
このたび地獄におちましたなら、いかに生まれ変わり死に変わりましても、ふたたび人間界に浮かび上がることはむずかしゅうございます。

老少不定(ろうしょうふじょう: 老人と若者のどちらが先に死ぬかわからない)の世の中ですから、年が若くともたのみになりませぬ。
出る息のはいる間も待つ暇とてもなく、かげろうや稲妻よりも、なおはかない命---いちじの栄華を誇って、後生知らずと言われんも悲しく、今朝ひそかに館を抜け出して、このような姿になって参りました。


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(デンマン注:読み易いように改行を加えました。
写真はデンマン・ライブラリーより)




45-46ページ 『平家物語(上)』
2004年10月20日 初版発行
現代語訳: 中山義秀
発行所: 河出書房新社




仏御前が祗王に向かって申し述べた上のお言葉がどうだとデンマンさんは言うのでござ~ますか?



いくらなんでも、この話はできすぎているでしょう! 満15歳のミーハーが、まるで60歳の老婆のような悟りを開いている。 「老少不定の世の中、年が若くともたのみになりませぬ。出る息のはいる間も待つ暇とてもなく、かげろうや稲妻よりも、なおはかない命---いちじの栄華を誇って、後生知らずと言われんも悲し」い、と15歳や16歳の女の子が言えるわけがない。 この言葉はこのエピソードを創作した作者の言葉です。 仏御前に成り代わって書いているのですよ。

そうでしょうか? あたくしは『平家物語』に書いてある通りに素直に受け取れましたわ。

『平家物語』というのは初めから清盛を悪者に仕立てて書き始めているのですよ。

マジで。。。?

だってそうでしょう! 「祗園精舎の鐘の声。。。」のあとで秦(しん)の趙高(ちょうこう)、漢の王莽(おうもう)、梁(りょう)の周伊(しゅうい)、唐の禄山(ろくざん)のような中国の悪者の名を挙(あ)げて、清盛もこの男たちと同じように「旧主先皇の政治に学ばず、快楽に走り、諫言(かんげん)を受け入れず、天下の乱れや民の愁いも知ることがなかったために滅んだ」と書いてあるのですよ。

つまり、デンマンさんは掌(てのひら)を返したように今では清盛さんのお味方をしたいのですか?

いや。。。もちろん違いますよ。 僕が言いたいのは必要以上に他人を貶(おとし)めるためのエピソードをでっち上げるのは悪いことだと言ってるのですよ。。。 真実を曲げることです。。。 偽ることです。。。 それはウソですよ!

つまり、『平家物語』の「祗王」のエピソードはでっち上げだとデンマンさんは断定なさるのですか?

もちろん、すべてがすべて、でっちあげだと言うつもりはありません。 「火のない所に煙は立たず」ですからね。 でもねぇ、少なくとも仏御前は一人じゃない。 二人の白拍子の話を組み合わせて話をでっち上げたのですよ。 だから、仏御前の話を読むと、60年生きてきた白拍子が人生の悟りを開いたようなことを言っている。 それは『平家物語』の作者の声ですよ。

でも。。。でも。。。、それはデンマンさんの個人的な意見でしょう?

あのねぇ~、僕は、最近 バンクーバー図書館で再び『平家物語』を手にとって読んでみたら、解説に次のように書いてあった。


『平家物語』 解説


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ところで『平家物語』の作者・成立時期・成立事情などが、いまなおはっきりしていないことは冒頭で述べたとおりであるが、実は、『平家物語』そのものが、もともとどのようなものであったのかも謎に包まれたままなのである。

今日、通常『平家物語』と呼ばれ、学校教育の場などで用いられているテキストは、南北朝時代、明石覚一(かくいち)という琵琶法師が、それまでの詞章を整理し、物語を再構成した、いわゆる覚一本の系統に属するが、こうした『平家物語』諸本(異本)は50種類以上も伝わっており、『平家物語』研究の難しさをこの点に求める場合も少なくない。
しかし多くのテキストが存在することは、『平家物語』の世界をより豊かにし、『平家物語』を読む楽しさを、一層、増してくれもするのである。

本書から屋島の合戦の一齣を描いた「巻十一 嗣信(つぎのぶ)最期」を例にとってみよう。
そこでは主君 源義経の矢楯となった嗣信が、死に臨んで次のように述べたと記されている。


弓矢取る身の敵矢(かたきや)に当たって

死ぬるは覚悟の前、ことにも

「源平の合戦に、奥州の

佐藤三郎兵衛嗣信と申す者が、

讃岐の国 屋島の磯べで、

主君の御命にかわって射たれた」と、

末代までの物語にされることは、

今生(こんじょう)の面目、

冥土(めいど)の思い出、

これに上越す誉(ほま)れはございませぬ。


この言葉は、主君に対する武士の献身の道徳を示す例として、しばしば取り上げられるが、別のテキストでは、「奥州に残してきた老母に今一度会えないことが心残りです」と母子の情愛を優先しており、さらに別のテキストでは、主君の身代わりとして死ぬことを名誉とする文言も、老母のことも見えないのである。

中世武士の主従倫理をどのように考えればよいのか。
相異なる『平家物語』のテキストは重要な課題を提起してくれていると言えよう。

本書で『平家物語』の面白さや魅力に出会われた読者には、よく言われるように、ぜひとも原文にも挑戦していただきたいが、その際、もう一度踏み込んで、いくつかのテキストの読みくらべもおすすめしたいと思う。

いま一点、付け加えておきたいのは、『平家物語』における史実と虚構に関してである。
たしかに『平家物語』は歴史資料としても十分に有益であるが、しかし、あくまで物語であって、そこには虚構・創作も含まれていることは当然であろう。
たとえば「巻一 殿下(てんが)の乗合(のりあ)い」を見てみよう。

この話は、父清盛と違って、温厚で知られる重盛の次男資盛(すけもり)が、鷹狩りの帰途、礼儀を欠くふるまいをしたとして、摂政 藤原基房(もとふさ)の一行から散々に痛めつけられたことに激怒した清盛が、報復のため、今度は武士たちに基房一行を襲わせ、『平家物語』作者をして「これぞ、平家悪行(あくぎょう)の初めである」と述べさせているものであるが、史実はまったく違うのである。
すなわち実際に基房一行への報復を命じたのは、清盛でなく『平家物語』では、わが子をたしなめ清盛をいさめている重盛なのである。

こうした逆転がなされたのはなぜか。
異なるテキストの読みくらべとともに、史実と虚構というテーマにも挑戦していただきたいものである。

専修大学非常勤講師・樋口州男(くにお)

 

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




349-352 ページ 『平家物語』 (下)
現代語訳者: 中山義秀
2004年12月20日 初版発行
発行所: 河出書房新社




つまり、『平家物語』を読むと、長男の重盛は心優しい素晴らしい武士として語られているのに対して、父親の清盛は、子供の悪行までを引き受けさせられて、すっかり悪者にされているのですよ!



だから、それは『平家物語』があくまでも物語で、創作であるので、仕方がないのでござ~ますわァ~。。。

ところが、物語ではなく“史書”として、すでに2000年以上もの間 歴史書として信じられている『史記』にもウソが書いてある。


史記


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『史記』は、中国前漢の武帝の時代に司馬遷によって編纂された中国の歴史書である。
正史の第一に数えられる。
二十四史のひとつ。
計52万6千5百字。
著者自身が名付けた書名は『太史公書』(たいしこうしょ)であるが、後世に『史記』と呼ばれるようになるとこれが一般的な書名とされるようになった。

「本紀」12巻、「表」10巻、「書」8巻、「世家」30巻、「列伝」70巻から成る紀伝体の歴史書で、叙述範囲は伝説上の五帝の一人黄帝から前漢の武帝までである。
このような記述の仕方は、中国の歴史書、わけても正史記述の雛形となっている。

二十四史の中でも『漢書』と並んで最高の評価を得ているものであり、単に歴史的価値だけではなく文学的価値も高く評価されている。

『史記』のような歴史書を作成する構想は、司馬遷の父司馬談が既に持っていた。
だが、司馬談は自らの歴史書を完成させる前に憤死した。司馬遷は父の遺言を受けて『史記』の作成を継続する。

紀元前99年に司馬遷は、匈奴に投降した友人の李陵を弁護したゆえに武帝の怒りを買い、獄につながれ、翌年に宮刑に処せられる。
この際、獄中にて、古代の偉人の生きかたを省みて、自分もしっかりとした歴史書を作り上げようと決意した。

紀元前97年に出獄後は、執筆に専念する。
結果紀元前91年頃に『史記』が成立した。

『史記』は司馬遷の娘に託され、武帝の逆鱗に触れるような記述がある為に隠されることになり、宣帝の代になり司馬遷の孫の楊惲が広めたという。




出典: 「史記」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




あらっ。。。 おチンチンを切られてしまった司馬遷のおじ様が書いた『史記』にマジでウソが書いてあるのでござ~ますかァ~? あたくしは、そのように主張するデンマンさんのお言葉が信じられませんわァ。。。



あのねぇ~、僕が言い始めたわけじゃないのですよ。。。 ちょっと次の小文を読んでみてください。。。


熒惑(火星)


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『史記』によれば(国内巡行)に出発する直前の始皇36(前211)年には不吉なことが続いた。
まず熒惑(けいわく:火星)が東方の心宿(しんしゅく:サソリ座)の位置に留まったという。
赤く輝く熒惑は災害や兵乱を招く星であった。

サソリ座の心臓にあたるアンタレスは赤色巨星の一等星であり、中国では青龍の心臓にあたる、不吉な星とされていた。
そこに赤い熒惑が近づいて留まった。
このときの火星は東に向かって順行し、しばらく停止してから西に逆行し、またしばらくして東に順行する。

中国古代では1年間の太陽の軌道である黄道(こうどう)に28宿(しゅく)の星座を配置した。
太陽、月、五星(惑星)の動きを測る座標軸のようなものである。
東方の空の7宿のうち6つを結ぶと青龍が夜空に浮かび上がる。

龍の角が角宿、首は亢宿(こうしゅく)、胸は氐宿(ていしゅく)、原は房宿、心臓は心宿、尾は尾宿(びしゅく)となる。

 (中略)

中国古代の天文暦法の研究者によれば、火星がアンタレスに近づいて留まるのは前211年ではなく、翌年の前210年であるという。
しかも小沢賢二氏が近年明らかにしたことは、前210年の始皇帝の死去の8月丙寅(へいいん:21日)の日に、再順行した火星がアンタレスに最接近しているというのである。

実は、私は始皇帝の死は7月ではなく、8月丙寅であると考えている。
そうであれば46年周期のこの特異な現象は、始皇37年の始皇帝の無くなった年の亡くなった日に起こったことになる。
この偶然の事実をどのように考えたらよいのだろうか。

8月丙寅の夜空で起こった不吉な天文現象を見た人びとは大勢いただろう。
その日まさに始皇帝が亡くなったことは極秘にされていたとはいえ、当時始皇帝が病中にあることを知るならば、その死を連想したかもしれない。

少なくとも『秦記』という秦の本来の史書には、皇帝の死の日付は正確に記されていたはずである。
しかし『史記』の記述はそうなっていない。

皇帝の死を1ヶ月さかのぼらせて7月丙寅の日に死去したと書き改め、また熒惑守心(けいわくしゅしん)を1年も前の天文現象としたのは一体だれか。


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おそらく同時代の人びとの改竄ではなく、始皇帝の死を前年の予兆からはじまるストーリーとして構築した者の作為であろう。

それが司馬遷であるのか、司馬遷が依拠した何らかの書籍であるのか、断定することはまだできない。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




157-161 ページ 『人間・始皇帝』
著者: 鶴間和幸 2015年 初版発行
発行所: 株式会社 岩波書店




当時、火星がアンタレスに近づいて留まる年には不吉なことが起こるということが信じられていたのですわねぇ~。。。



そうです。。。 それは、現在で言えば、地動説が正しいと思われているほど常識的な事だった。。。 それで、実際には、火星がアンタレスに近づいて留まったのは始皇帝が亡くなった紀元前210年なのだけれど、その当時の常識と食い違わないように、1年前の紀元前211年だと『史記』には書いてあるのですよ。。。

要するに、始皇帝の死を前年の予兆からはじまるストーリーとして構築した者の作為であろう、と『人間・始皇帝』の著者は言うのですわねぇ~。。。

そういうことです。。。

でも、それが「司馬遷であるのか、司馬遷が依拠した何らかの書籍であるのか、断定することはまだできない」と書いてありますわねぇ~。。。

僕は司馬遷が 当時の人々の常識に合うように そうしただろうと思うのですよ。。。

その根拠は。。。?

上の本にも書いてあるように『秦記』という秦の本来の史書には、皇帝の死の日付は正確に記されていたはずなのですよ。。。 そうであるならば、司馬遷も すべてを知っていたはずですからね。。。



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【卑弥子の独り言】


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ですってぇ~。。。

あなたはデンマンさんの言うことを信じることができますかァ~?

考えてみると、"Nobody is perfect!" という英語の格言がござ~ますけれど、

確かに、司馬遷のおじ様も完璧な人間ではござ~ませんでしたから、

始皇帝の死を前年の予兆からはじまるストーリーとして創作したことも十分に考えられますよねぇ~。。。

歴史書と信じられているものでも、

すべてを事実として信じることは かなり危険なことなのかもしれません。。。

歴史は、たいてい勝者が書くものでござ~ますから。。。

ところで、あたくしには紫式部の血も流れているのでござ~ますわァ。。。

信じられないでしょう?

では、あたくしの次のお話を読んでくださいませぇ~。。。


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『卑弥子の源氏物語』

どうですか? あたくしが“平成の紫式部”だと納得がゆきましたかァ~?

ええっ。。。 ちょっと納得がゆかないのでござ~ますかァ?

でもねぇ~、あたくしは 一応 京都の女子大学で腐女子たちに「日本文化と源氏物語」を講義しているのでござ~ますゥ。

だけど、どういうわけか結婚相手が 現れないのですわよゥ。

あたくしは別に高望みはしていないのでござ~ますう。

“寅さん”のような人でもいいのです。。。

ついでだから、寅さんの映画でも見てください。


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ちなみに、紫式部のお話も面白いですけれど、古代の話も心にしみます。

たまには、日本の古代史の記事も読んでくださいませぇ。

そういうわけで あなたのために平安史、古代史の記事を用意しました。

ぜひ 覗いてみてくださいねぇ~。。。

天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。
 

天智天皇は暗殺された 

定慧出生の秘密 

藤原鎌足と長男・定慧 

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?


今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?


マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?


とにかく、次回も興味深い記事が続きます。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてください。
じゃあ、またねぇ~。。。


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ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
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ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。

卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。




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『下衆のかんぐり』

『桓武天皇のママがネットで』

『ござが天皇とGOOGLE』

『エロ 建礼門院』

『一敗が三人に!』

『行田の黒い霧をはらう』

『ペルシャ人が飛鳥に』

『小柴垣草子』

『後白河上皇ダントツ』

『ブスと美人』

『エロい話が好き?』

『死んでも生きてる』

『失意の太田将宏』


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『オルフェと聖徳太子』

『源氏物語とおばさんパンツ』

『霊仙はなぜ毒殺されたの?』

『紫式部が地獄へ』

『破戒僧円載』

『アショーカ王の愛と苦悩』

『どら平太の世界』

『三四郎とデンマンさん』

『ヒトラーの姪』

『ゴヤと三島由紀夫』

『仏陀とキリストと娼婦』


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『ズロースと戦争』

『伊藤若冲ブーム?』

『ブッダと物理学』

『加藤清正ブーム?』

『愛憎と三輪山』

『松原智恵子 お尻ペンペン』

『坂本龍馬は流れ者か?』

『野ざらし』

『紫式部堕獄説』

『日本最古のポルノ?』

『源氏物語の性描写』

『寅さんの本棚と急行まつしま』

『ヒトラーは草食系?』

『ブッダとキリストと娼婦』

『顔文字とオナラ』


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『宝暦の恨みを明治維新で』

『デウキと紅葉@行田』

『薄い陰毛と紅のボートピープル』

『江戸の閨房術』

『ずるがしこい現代人』

『春画@源氏物語』

『千早振る』

『あれっ、松本清張』

『キスと源信』

『伎楽は呉から…?』

『紺瑠璃杯に魅せられて』

『神聖娼婦 マリア』

『安徳帝は生きていた』

『白石川の桜』

『ブログ村のマリア様』

『萌える済子女王』

『ピンク桃色@徒然』

『富沢金山の桜』

『ピンク桃色村』

『紫式部@徒然』

『絵里香@ペルー』

『ペルシャ人の楊貴妃』

『ん?佐伯今毛人』



軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
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ん?佐伯今毛人


 

ん?佐伯今毛人

 


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デンマンさん。。。どうして急に佐伯今毛人(さえきのいまえみし)を取り上げたのでござ~♪~ますか?


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いや。。。 僕が取り上げたわけじゃないのですよ。。。

でも、タイトルを書くのはデンマンさん以外にいませんわァ。。。

確かに、タイトルを書いたのは僕ですけれど、“佐伯今毛人”を持ち出したのは僕じゃありません。。。

じゃあ、どなたが“佐伯今毛人”を持ち出したのでござ~ますかァ?

ちょっと次のリストを見てください。。。


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『佐伯今毛人は臆病者か?』




これはライブドアの僕の『徒然ブログ』の日本時間で5月25日の午後3時8分から午後7時50分までの約5時間の「生ログ」の一部ですよ。。。 赤枠で囲んだ箇所を見て欲しいのです。。。



あらっ。。。 5月25日の午後3時17分にGOOGLEで検索して『佐伯今毛人は臆病者か?』を読んだネット市民がいたのですわねぇ~。。。

そうです。。。 立命館大学で日本古代史を専攻している佐伯 亜利素(さえき ありす)さんが読んだのです。。。

あらっ。。。 またIPアドレスを調べたのですかァ~?

そうです。。。


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どうしてデンマンさんのブログには おきれいな女性たちが群がってくるのでござ~ますかァ~?



あのねぇ~、GOOGLEで検索してやって来たのですよゥ。。。 たまたま佐伯 亜利素(さえき ありす)さんが美人だというだけのことです。。。 特に、きれいな女性だけが僕のブログにやって来るわけではないのですよ。。。

じゃあ、どういうわけで佐伯 亜利素(さえき ありす)さんの写真をゲットしたのでござ~ますかァ?

だから、佐伯 亜利素(さえき ありす)さんが『佐伯今毛人は臆病者か?』を読んだら、卑弥子さんが出てきたので調べたら京都の女子大学で「日本文学と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授だと知ってわけです。。。 それで、『源氏物語』にも関心がある亜利素(ありす)さんは、ぜひ卑弥子さんの研究室にお邪魔してお話を伺いたいというメールを僕に送ってきたのです。

なぜ、あたくしに直接メールを送ってくださらなかったのですかァ~?

それでは、失礼に当たると思ったのですよ。。。 僕から紹介されて、初めて卑弥子さんに京都の女子大の卑弥子さんの研究室で会うのが順当なエチケットだと亜利素(ありす)さんは言うわけです。。。

信じられませんわァ。。。 それは、デンマンさんの見え見えの作り話でござ~ますわァ~。。。

つまり、これだけの材料を揃えてまで、僕が作り話をしていると卑弥子さんは断定するのですかァ~?

デンマンさんと、ここで議論する時間は無いのでござ~ますわァ。。。 ただでさえ長いデンマンさんの記事が、さらに長~♪~くなってしまいますわァ~。。。 この記事を読んでくださっているネット市民の皆様が他のブログへ飛んでしまう前に、本題に入ってくださいなァ~。。。 佐伯 亜利素(さえき ありす)さんは、いったい どのようなキーワードを入れてGOOGLEで検索したのでござ~ますかァ?

次のようにして検索したのです。。。


(gog70526a.png)


『拡大する』

『佐伯今毛人は臆病者か?』

『現時点での検索結果』




あらっ。。。「佐伯今毛人 臆病者」と入れて検索したのですわねぇ~。。。



そうです。。。

でも。。。、でも。。。、それは、ちょっとばかり でき過ぎているのではござ~ませんかァ?

何ができ過ぎているのですか?

だってぇ~、「佐伯今毛人 臆病者」と入れて検索して『佐伯今毛人は臆病者か?』を読んだということは、偶然にしては、でき過ぎていると誰だって思いますわよう!

あのねぇ~、たまたま、そのようにして検索したからこそ 佐伯 亜利素(さえき ありす)さんは僕のブログへやって来たのですよ。。。 他のキーワードを入れていたら、僕のブログにはやって来なかったはずです。。。 そんなことは検索エンジンの常識ですよ!

そうでしょうかァ~?

卑弥子さんは、僕が作り話をしていると疑っているから、そのような余計な考えに取り付かれているのですよ!

そうでしょうかしら。。。?

もっと素直な気持ちで僕の話を聞いてくれませんかァ~。。。

分かりましたわァ。。。 んで、どうして佐伯 亜利素(さえき ありす)さんは「佐伯今毛人は臆病者なのかしら?」と疑ってネットで調べ始めたのでござ~ますかァ?

卑弥子さんは、平安時代に多くの日本人が遣唐使船に乗って唐に行ったということを知ってますよねぇ~。。。

もちろん、あたくしは存じ上げておりますわ。。。

それなら話は簡単ですよ。。。 遣唐使船に乗るということは生きるか死ぬかという危険が付きまとっていた。 生きて唐に着くか? 生きて日本へ帰れるか? その成功確率は50%ほどだった。 まさに、100円硬貨を空に投げて手に受け取り、裏が出るか?表が出るか?という確率だったのですよ。 当時でも、勇気のない男は尻込みして名誉の遣唐使にさえ就くのを辞退した。

そのように尻込みして遣唐使を辞退した人がマジで居たのでござ~♪~ますか?

居たのですよ。 それが宝亀6年(775年)の遣唐大使に任命されたのが佐伯今毛人(さえきのいまえみし)だった。 宝亀8年(777年)4月、節刀を賜り再度(前年は大宰府から引き返している)出発したが羅城門までくると病になり渡航を断念し摂津に留まることとなったのですよ。。。

あらっ。。。 病気になってしまったのでござ~ますか?

でも、卑弥子さんのように疑り深い世間では 素直に そのようには受け止めなかった。

つまり、佐伯今毛人(さえきのいまえみし)さんは、仮病を使って遣唐使になることを渋った、とその当時の世間の皆様は疑ったのでござ~ますかァ?

その通りですよ。。。 当時、遣唐使になるには、それほど勇気が必要だったということです。

それで、その時の遣唐使船はどうなったのでござ~♪~ますか?

仕方がないので、この時は副使の小野石根(おののいわね)が佐伯今毛人に代わって大使の任務を代行した。 でも、小野石根が乗った遣唐使船の第1船は帰路遭難して亡くなってしまったのですよ。

やっぱり、遣唐使船に乗るのは命がけなのですわねぇ~。。。

そうです。。。 だから、 佐伯 亜利素(さえき ありす)さんは「佐伯今毛人はマジで臆病者だったのかしら?」と思って調べ始めたというわけですよ。。。

。。。で、佐伯 亜利素(さえき ありす)さんはデンマンさんの記事を読んで その答えを見い出したのですか?

そうです。。。 実は、僕も亜利素(ありす)さんと同じような疑問を持ったのです。。。 でもねぇ~、思い当たることがあったァ~。。。


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遣唐使に命じられた佐伯今毛人は

仮病を使って役を免れたのか?

しかし、彼は「藤原良継の変」に参加し

横暴を極めた藤原仲麻呂を倒そうとした。

彼の真実の姿は。。。?




つまり、佐伯今毛人さんが臆病者だったら横暴を極めた藤原仲麻呂を倒そうという計画に参加しなかったということですか?



そうですよ。

でも、計画に参加するぐらいで、それ程の勇気が必要なのでしょうか?

あのねぇ~、「藤原良継の変」の前に、「橘奈良麻呂の乱」という大きな事件があったのです。


橘奈良麻呂の乱

橘奈良麻呂の父の左大臣橘諸兄は、聖武天皇の治世に政権を担当していた。

陰謀の計画と発覚

藤原仲麻呂の専横に不満を持ったのが、諸兄の子の奈良麻呂である。
奈良麻呂は不満を持つ者たちを集めて仲麻呂を除こうと画策する。

755年(天平勝宝7年)6月28日(7月22日)、山背王が孝謙天皇に「奈良麻呂が兵をもって仲麻呂の邸を包囲しようと計画している」と密告した。
7月2日(7月26日)、孝謙天皇と光明皇太后が、諸臣に対して「謀反の噂があるが、皆が逆心を抱くのをやめ、朝廷に従うように」との詔勅を発した。

しかし、その日の夜、中衛府の舎人上道斐太都から、前備前守小野東人に謀反への参加を呼びかけられたと仲麻呂へ密告があった。
仲麻呂はただちに孝謙天皇に報告して、中衛府の兵を動かして前皇太子道祖王の邸を包囲し、小野東人らを捕らえて左衛士府の獄に下した。

756年7月3日(7月27日)、右大臣・藤原豊成、中納言・藤原永手らが小野東人を訊問。
東人は無実を主張した。
その報告を受けて、孝謙天皇は仲麻呂を傍らに置いて、塩焼王、安宿王、黄文王、橘奈良麻呂、大伴古麻呂を前に「謀反の企てがあるとの報告があるが自分は信じない」との宣命を読み上げた。

ところが同日事態は急変する。
右大臣豊成が訊問から外され、再度、永手らを左衛士府に派遣し小野東人、答本忠節(たほのちゅうせつ)らを拷問にかけた。
東人らは一転して謀反を自白した。

その内容は、橘奈良麻呂、大伴古麻呂、安宿王、黄文王らが一味して兵を発して、仲麻呂の邸を襲って殺して皇太子を退け、次いで皇太后の宮を包囲して駅鈴と玉璽を奪い、右大臣豊成を奉じて天下に号令し、その後天皇を廃し、塩焼王、道祖王、安宿王、黄文王の中から天皇を推戴するというものであった。

過酷な処分

東人の供述により、7月4日(7月28日)に奈良麻呂を始め、道祖王、黄文王、大伴古麻呂、多冶比犢養(たじひのこうしかい)、賀茂角足(かものつのたり)ら、一味に名を挙げられた人々は直ちに逮捕され、永手らの訊問を受けた。
訊問が進むにつれ、全員が謀反を白状した。
奈良麻呂は永手の聴取に対して「東大寺などを造営し人民が辛苦している。政治が無道だから反乱を企てた。」と打ち明けた。

この後すぐに獄に移され、永手、百済王敬福、船王らの監督下、杖で全身を何度も打つ拷問が行われた。
道祖王(麻度比と改名)、黄文王(久奈多夫礼と改名)、大伴古麻呂、東人、犢養、角足(乃呂志と改名)は同日、過酷な拷問に耐えかねて次々と絶命した。
また首謀者である奈良麻呂の名が『続日本紀』に残されていないが、同じく拷問死したと考えられる。

安宿王は佐渡島、大伴古慈悲(藤原不比等の娘婿)は土佐国に配流され(両者ともその後赦免)、塩焼王は直接関与した証拠がなかったために臣籍降下(「氷上眞人塩焼」と改名)することで不問とされた。
反乱計画に直接関与していなかったものの佐伯全成は捕縛され奈良麻呂から謀反をもちかけられた顛末を自白した上で自害した。

他にもこの事件に連座して流罪、徒罪、没官などの処罰を受けた役人は443人にのぼる。
また、右大臣・藤原豊成が息子乙縄とともに事件に関係したとして大宰員外帥に左遷された。

中納言・藤原永手も、その後仲麻呂派で固められた朝廷内で政治的に孤立し逼塞を余儀なくされたと言う説がある。
豊成・永手らは反仲麻呂派であると同時に奈良麻呂らの標的とされた孝謙天皇の側近であった人々であり、天皇廃立を企てた奈良麻呂らに対して過酷な尋問や拷問を行った人々であった。

その後

仲麻呂はこの事件により、自分に不満を持つ政敵を一掃することに成功した。
758年(天平宝字2年)、大炊王が即位し(淳仁天皇)、仲麻呂は太保(右大臣)に任ぜられ、恵美押勝の名を与えられる。

そして、760年(天平宝字4年)には太師(太政大臣)にまで登りつめ栄耀栄華を極めた。
だが、その没落も早く、孝謙天皇の寵愛は弓削道鏡に移り、764年(天平宝字8年)、仲麻呂は乱を起こして敗れ、その一族は滅んだ(藤原仲麻呂の乱)。




出典: 「橘奈良麻呂の乱」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




要するに上の事件は政権闘争なのですよ。 この事件で佐伯今毛人の一族である佐伯全成は自害した。 大伴家持の一族の大伴古麻呂は、過酷な拷問に耐えかねて絶命したのですよ。



つまり、佐伯氏と大伴氏が権力闘争で敗れたのですか?

簡単に言ってしまえば、そう言う事なのです。

その後に「藤原良継(よしつぐ)の変」が起こったのですか?

そうです。 当然の事だけれど、事変が発覚すれば最悪、拷問死や自害も覚悟しなければならない。 それは「橘奈良麻呂の乱」を見れば明らかなことです。

つまり、佐伯今毛人さんが命が惜しくって仮病を使ってまで遣唐使になるのを拒む性格であれば、「藤原良継の変」に参加しなかったとデンマンさんは言うのでござ~ますか?

その通りですよ。

。。。んで、その「藤原良継の変」は成功したのですか?

残念ながら失敗したのです。 藤原良継は佐伯今毛人・石上宅嗣・大伴家持らと結託し藤原仲麻呂を暗殺する計画をたてた。 ところが計画が仲麻呂側に漏れてしまう。 763年(天平宝字7年)4人は逮捕されるてしまう。

死刑ですか?

いや。。。この当時は死刑はなかった。 この時、藤原良継(当時の名前は宿奈麻呂【すくなまろ】)は他の3人を救うために単独犯行を主張した。 一応認めれれて八虐の一つである大不敬との罪により解官の上、姓も剥奪されたのですよ。

佐伯今毛人さんは無罪放免になったのでござ~♪~ますか?

いや。。。そう簡単には事は運ばなかった。 3人は罪には問われなかったものの左遷されてしまった。 佐伯今毛人は九州に飛ばされ、大宰府営城監という役についた。 石上宅嗣は大宰少弐に、そしてあの有名な大伴家持は薩摩守に落とされた。

つまり、佐伯今毛人さんは反骨の人だったわけですわねぇ~?

そうだと思います。 佐伯今毛人が関わった事件をじっくりと見つめてみると、少なくとも彼が仮病を使って遣唐使を辞退するような人ではなかったと僕には思えるのですよ。

佐伯 亜利素(さえき ありす)さんも記事を読んでデンマンさんに同意したのですか?

そうです。。。

でも。。。、でも。。。、どうして亜利素(ありす)さんは、佐伯今毛人に興味を抱いたのですか?

あのねぇ~、卑弥子さんは、藤原不比等の後妻となった橘三千代、またの名を県犬養三千代(あがたのいぬかい の みちよ)に関心があるでしょう?

当然ですわァ~、だってぇ~、あたくしのご先祖様ですものォ~。。。

実は、佐伯今毛人は亜利素(ありす)さんのご先祖さまなのですよ。。。

マジで。。。?

佐伯今毛人さんの妻の名前を若狭郎女(わかさのいらつめ)というのです。。。


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   若狭郎女

 



 


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佐伯 亜利素(さえき ありす)さん



つまり、亜利素(ありす)さんは若狭郎女のDNAを体内に持っているので、顔が似ている、とデンマンさんは証拠のつもりで上の写真を並べたのでござ~ますかァ?



そうですよ。。。 “百聞は一見にしかず!”と言いますからねぇ~。。。 これならば、疑り深い卑弥子さんも信じると思ったのですよ。。。



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【卑弥子の独り言】


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ですってぇ~。。。

やっぱり、ちょっとでき過ぎていますわよねぇ~。。。

あなただってぇ、そう思うでしょう?

ところで、あたくしには紫式部の血も流れているのでござ~ますわァ。。。

信じられないでしょう?

では、あたくしの次のお話を読んでくださいませぇ~。。。


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『卑弥子の源氏物語』

どうですか? あたくしが“平成の紫式部”だと納得がゆきましたかァ~?

ええっ。。。 ちょっと納得がゆかないのでござ~ますかァ?

でもねぇ~、あたくしは 一応 京都の女子大学で腐女子たちに「日本文化と源氏物語」を講義しているのでござ~ますゥ。

だけど、どういうわけか結婚相手が 現れないのですわよゥ。

あたくしは別に高望みはしていないのでござ~ますう。

“寅さん”のような人でもいいのです。。。

ついでだから、寅さんの映画でも見てください。


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ちなみに、紫式部のお話も面白いですけれど、古代の話も心にしみます。

たまには、日本の古代史の記事も読んでくださいませぇ。

そういうわけで あなたのために平安史、古代史の記事を用意しました。

ぜひ 覗いてみてくださいねぇ~。。。

天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。
 

天智天皇は暗殺された 

定慧出生の秘密 

藤原鎌足と長男・定慧 

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?


今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?


マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?


とにかく、次回も興味深い記事が続きます。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてください。
じゃあ、またねぇ~。。。


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ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
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ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。

卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。




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『下衆のかんぐり』

『桓武天皇のママがネットで』

『ござが天皇とGOOGLE』

『エロ 建礼門院』

『一敗が三人に!』

『行田の黒い霧をはらう』

『ペルシャ人が飛鳥に』

『小柴垣草子』

『後白河上皇ダントツ』

『ブスと美人』

『エロい話が好き?』

『死んでも生きてる』

『失意の太田将宏』


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『オルフェと聖徳太子』

『源氏物語とおばさんパンツ』

『霊仙はなぜ毒殺されたの?』

『紫式部が地獄へ』

『破戒僧円載』

『アショーカ王の愛と苦悩』

『どら平太の世界』

『三四郎とデンマンさん』

『ヒトラーの姪』

『ゴヤと三島由紀夫』

『仏陀とキリストと娼婦』


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『ズロースと戦争』

『伊藤若冲ブーム?』

『ブッダと物理学』

『加藤清正ブーム?』

『愛憎と三輪山』

『松原智恵子 お尻ペンペン』

『坂本龍馬は流れ者か?』

『野ざらし』

『紫式部堕獄説』

『日本最古のポルノ?』

『源氏物語の性描写』

『寅さんの本棚と急行まつしま』

『ヒトラーは草食系?』

『ブッダとキリストと娼婦』

『顔文字とオナラ』


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『宝暦の恨みを明治維新で』

『デウキと紅葉@行田』

『薄い陰毛と紅のボートピープル』

『江戸の閨房術』

『ずるがしこい現代人』

『春画@源氏物語』

『千早振る』

『あれっ、松本清張』

『キスと源信』

『伎楽は呉から…?』

『紺瑠璃杯に魅せられて』

『神聖娼婦 マリア』

『安徳帝は生きていた』

『白石川の桜』

『ブログ村のマリア様』

『萌える済子女王』

『ピンク桃色@徒然』

『富沢金山の桜』

『ピンク桃色村』

『紫式部@徒然』

『絵里香@ペルー』

『ペルシャ人の楊貴妃』



軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
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安徳帝は生きていた


 

安徳帝は生きていた

 


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安徳天皇と守貞親王

 


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ところで、守貞親王と入れ替わった安徳帝は、その後どうなったのでしょう。

まずまず無事に守貞親王に化けおおせ、治部卿局(じぶきょうのつぼね)たちとともに都に戻り、法皇との対面ののち、上西門院の猶子(ゆうし)となって成長、そして承久の乱勃発後、太上天皇(だいじょうてんのう)として再び政治の座についたのです。

泉下の平家一門はどれだけ喜んだでしょう。

しかし46歳にして惜しくも崩御されてしまいました。

この事実を、治部卿局以外、誰も知らなかったとは考えられませんが、なんの破綻もなく、これまでおさまったのは、天佑神助(てんゆうしんじょ)のたまものというべきでしょうか。

 


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(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




197ページ 『義経』
著者: 宮尾登美子
2004(平成16)年11月25日 第1刷発行
発行所: 日本放送出版協会


 




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幼かった安徳天皇が おばあちゃんの二位尼(平時子)に抱き上げられて 一緒に瀬戸内海の波間に沈んでいったのではなく、そのおばあちゃんが抱いていたのは、身代わりになった守貞親王で、実は、安徳天皇は生きていて 承久の乱勃発後、太上天皇(だいじょうてんのう)として再び政治の座についた、とデンマンさんは信じているのでござ~♪~ますか?


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いや。。。 実は、僕は初めて そのような事を信じている人がいるのを知って ちょっと驚いたのですよ。。。 もう亡くなってしまったけれど、宮尾登美子さんが書いた上の本をバンクーバー図書館で借りて読んでいたら、上の箇所に出くわしたというわけです。。。

そのような事はありえないと、デンマンさんは考えているのですかァ~?

だから、それをちょっと確かめてみたくなって卑弥子さんを呼んだのですよ。。。

あたくしは、そのような事を考える人たちが居ても 決して不思議ではないと思いますわァ~。。。

卑弥子さんは、どうしてそう思うのですか?

だってぇ~、源義経が亡くなったのは、実は、影武者が殺されたので 本人は生きていて後にジンギスカンになって大陸で活躍したというお話は多くの人が信じていますわァ。

でもねぇ~、その伝説は今では学術的に完全に否定されてるのですよ。。。


義経の伝説


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優れた軍才を持ちながら非業の死に終わった義経の生涯は、人々の同情を呼び、このような心情を指して判官贔屓というようになった。
また、義経の生涯は英雄視されて語られるようになり、次第に架空の物語や伝説が次々と付加され、史実とは大きくかけ離れた義経像が形成された。

義経伝説の中でも特に有名な武蔵坊弁慶との五条大橋での出会い、陰陽師・鬼一法眼の娘と通じて伝家の兵書『六韜』『三略』を盗み出して学んだ話、衣川の戦いでの弁慶の立ち往生伝説などは、死後200年後の室町時代初期の頃に成立したといわれる『義経記』を通じて世上に広まった物語である。
特に『六韜』のうち「虎巻」を学んだことが後の治承・寿永の乱での勝利に繋がったと言われ、ここから成功のための必読書を「虎の巻」と呼ぶようになった。

また後代には、様々な文物が由緒の古さを飾るために義経の名を借りるようになった。
例えば、義経や彼の武術の師匠とされる鬼一法眼から伝わったとされる武術流派が存在する。

 

不死伝説

後世の人々の判官贔屓の心情は、義経は衣川で死んでおらず、奥州からさらに北に逃げたのだという不死伝説を生み出した。
このような伝説、あるいは伝説に基づいて史実の義経は北方に逃れたとする主張を、義経北方(北行)伝説と呼んでいる。
この伝説に基づいて、寛政11年(1799年)、蝦夷地のピラトリ(現・北海道沙流郡平取町)に義経神社が創建された。

義経北方(北行)伝説の原型となった話は、室町時代の御伽草子に見られる『御曹子島渡』説話であると考えられている。
これは、頼朝挙兵以前の青年時代の義経が、当時「渡島(わたりしま)」と呼ばれていた北海道に渡ってさまざまな怪異を体験するという物語である。
未知なる地への冒険譚が、庶民の夢として投影されているのである。

このような説話が、のちに語り手たちの蝦夷地のアイヌに対する知識が深まるにつれて、衣川で難を逃れた義経が蝦夷地に渡ってアイヌの王となった、という伝説に転化したと考えられる。
またアイヌの人文神であるオキクルミは義経、従者のサマイクルは弁慶であるとして、アイヌの同化政策にも利用された。
またシャクシャインは義経の後裔であるとする(荒唐無稽の)説もあった。
これに基づき、中川郡の本別町には義経山や、弁慶洞と呼ばれる義経や弁慶らが一冬を過ごしたとされる洞窟が存在する。

 

義経=ジンギスカン説


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この北行伝説の延長として幕末以降の近代に登場したのが、義経が蝦夷地から海を越えて大陸へ渡り、成吉思汗(ジンギスカン)になったとする「義経=ジンギスカン説」である。

この伝説の萌芽もやはり日本人の目が北方に向き始めた江戸時代にある。
清の乾隆帝の御文の中に「朕の先祖の姓は源、名は義経という。その祖は清和から出たので国号を清としたのだ」と書いてあった、あるいは12世紀に栄えた金の将軍に源義経というものがいたという噂が流布している。
これらの噂は、江戸時代初期に沢田源内が発行した『金史別本』の日本語訳が発端である。

このように江戸時代に既に存在した義経が大陸渡航し女真人(満州人)になったという風説から、明治時代になると義経がチンギス・カンになったという説が唱えられるようになった。
明治に入り、これを記したシーボルトの著書『日本』を留学先のロンドンで読んだ末松謙澄はケンブリッジ大学の卒業論文で「大征服者成吉思汗は日本の英雄源義経と同一人物なり」という論文を書き、『義経再興記』(明治史学会雑誌)として日本で和訳出版されブームとなる。

大正に入り、アメリカに学び牧師となっていた小谷部全一郎は、北海道に移住してアイヌ問題に取り組んでいたが、アイヌの人々が信仰する文化の神・オキクルミの正体は義経であるという話を聞き、義経北行伝説の真相を明かすために大陸に渡って満州・モンゴルを旅行した。
彼はこの調査で義経がチンギス・カンであったことを確信し、大正13年(1924年)に著書『成吉思汗ハ源義經也』を出版した。
この本は判官贔屓の民衆の心を掴んで大ベストセラーとなる。
現代の日本で義経=ジンギスカン説が知られているのは、この本がベストセラーになったことによるものである。

こうしたジンギスカン説は明治の学界から入夷伝説を含めて徹底的に否定され、アカデミズムの世界でまともに取り上げられることはなかったが、学説を越えた伝説として根強く残り、同書は昭和初期を通じて増刷が重ねられ、また増補が出版された。
この本が受け入れられた背景として、日本人の判官贔屓の心情だけではなく、かつての入夷伝説の形成が江戸期における蝦夷地への関心と表裏であったように、領土拡大、大陸進出に突き進んでいた当時の日本社会の風潮があった。

現在では後年の研究の結果や、チンギス・カンのおおよその生年も父親の名前も「元朝秘史」などからはっきりと判っていることから、源義経=チンギス・カン説は学術的には完全に否定された説である。




出典: 「源義経」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




こういう話は、昔から“判官贔屓(はんがんびいき)”と言って よく伝説には付き物なんですよ。。。 どう考えたって、義経がジンギスカンになったという話は、荒唐無稽(こうとうむけい)なのですよ。。。



どうしてデンマンさんは荒唐無稽と決め付けるのでござ~ますか?

あのねぇ~、僕がジンギスカンの下で命令を受けて戦うモンゴル人のデンマン将軍だとします。。。

あらっ。。。 面白そうな例えでござ~ますわねぇ~。。。 うふふふふふふ。。。 で、もし、そうだとしたらどうなったと言うのでござ~ますかァ?

義経がジンギスカンになったとしたら、彼は30才をすぎてから大陸に渡ったことになるのですよ。。。 つまり、そうなると、誰もがジンギスカンはモンゴル人じゃなくて日本人だということを知っている。。。 すると、日本人のために命をかけてまで戦う気にならない! 僕は、日本人のジンギスカンを暗殺して自分がモンゴル人の棟梁になろうとしますよ。。。

つまり、モンゴル人のデンマン将軍が日本人のジンギスカンを暗殺して歴史は変わってしまったというのでござ~ますかァ?

その通りですよ。。。 あのねぇ~、現在だって、アメリカの大統領になるにはアメリカで生まれてないと成れない! どこの国でも移民の大統領など居ませんよ。。。 移民は、その国ではせいぜい縁の下の力持ちになる程度で、決してその国の長には成れない! そんな事は移民をしてみればすぐに理解できる事なのですよ。。。

つまり、義経がモンゴルに移民してジンギスカンになることは デンマンさんの経験上からありえないという事ですわねぇ~。。。

いや。。。 僕の経験からも言えることだけれど、そのような事は歴史を見ればすぐに理解できる事ですよ。。。 フジモリ大統領だってぇ、ペルーの第91代大統領になったけれど、移民したわけじゃない。。。 ペルーの首都リマのミラフロレス区で仕立物屋を営む父・直一と母・ムツエの間に生まれたのですよ。。。 要するに、その国で生まれ育った人物でなければ、その下で働く人たちの意欲が湧かないのですよ。。。 だから、日本から30才過ぎてやってきた義経に従ってモンゴル人が命をかけて戦うなんて、とてもありえない!

モンゴル生まれのデンマン将軍によって暗殺されてしまうのですか?

僕が、その当時モンゴルで生まれて義経将軍の下で戦うモンゴル人の将軍になったら、まずそうする事になったと思いますよ。。。

分かりましたわ。。。 でも、安徳天皇の場合は、お話が違うと思うのでござ~ますわァ。。。

どう違うのですか?

だってぇ~、安徳天皇はモンゴルに移住したわけではありませんわァ。。。 守貞親王が安徳天皇の身代わりになって海に沈んだのですわ。。。 だから、安徳天皇は守貞親王として、都で暮らし、やがて承久の乱勃発後、太上天皇(だいじょうてんのう)として再び政治の座についたのでござ~ますわァ。

卑弥子さんもマジで それを信じているのですかァ~?

だってぇ~、そうでも考えないと、安徳天皇があまりにも お可哀想ですわァ~。。。 



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最期を覚悟して神璽と宝剣を身につけた おばあちゃんの二位尼(平時子)は安徳天皇を抱き上げました。

「おばあちゃん、僕をどこへ連れてゆくのォ~」

二位尼は涙をおさえて 諭(さとし)します。

「坊ちゃんは 前世の修行によって天子としてお生まれになられましたが、悪縁により、御運はもはや尽きてしまいました。 この世は辛く厭(いと)わしいところです。

これから、このバアが、極楽浄土という結構なところにお連れ申すのですよ」

「楽しいところなのォ~」

「そうですよ。。。 これからバアと一緒にゆきます。 だから、この世にさようならをしましょうねぇ~」

 


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すると、幼い天皇は小さな手を合わせ、東を向いて伊勢神宮を遙拝し、続けて西を向いて念仏を唱えました。

二位尼は「波の下にも都がございます」と慰め、安徳天皇を抱いたまま壇ノ浦の急流に身を投じたのでした。

安徳天皇は、歴代最年少の数え年8歳(満6歳と4か月)で崩御したのです。




『平家物語』「先帝身投」より卑弥子が現代語に意訳しました。




卑弥子さんは意外に涙もろいのですねぇ~。。。



この場面を想い浮べると、あたくしは涙無しにはおられないのでござ~ますわァ。。。

卑弥子さん。。。 涙が鼻水になって、鼻からずいぶん出てますよ。。。 ハンカチでは間に合わないからタオルを持ってきますねぇ~。。。

デンマンさん! 愚かな事を言ってないで話の先を進めてくださいなァ~。。。

あのねぇ~、よく考えてくださいよ! 安徳天皇が満6歳と4か月で おばあちゃんと一緒に瀬戸内海の海の底に沈んだから、そうやって卑弥子さんの涙がドバドバと出てくるのですよ。。。 もしですよゥ。。。 そうじゃなくて守貞親王が安徳天皇の身代わりになっていたとしたら、『平家物語』の上の箇所は、涙をそれほど誘わないのですよ。。。 むしろ、現在の倫理観としたら、人権無視もはなはだしい! もしもですよ、卑弥子さんが 守貞親王のお母さんだとしたら、安徳天皇の身代わりに自分の幼い息子を差し出しますかァ~?

いいえ。。。 絶対にイヤでござ~ますわァ~。。。

でしょう!?。。。 だから、安徳天皇は本人が おばあちゃんと一緒に入水したのです。。。 そうでないと日本文学の素晴らしい『平家物語』が安っぽい話になってしまうのですよ。。。



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【卑弥子の独り言】


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ですってぇ~。。。

あなたは どう思いますか?

安徳天皇は壇ノ浦で入水せず、つまり、おばあちゃんだけが “ねんねこ”をかかえて、さも安徳天皇を抱くようにして、一人で入水したのだと信じている人たちも居るのですわよう。。。

それから、安徳天皇は平氏の残党に警護されて地方に落ち延びたと言うのでござ~ますわァ。

だから、九州や四国地方を中心に全国に20か所あまりの伝承地があるのですわよ。

では、高知県の山の中に墓があるというミステリーをご覧くださいませぇ~。。。


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上のクリップを観てあなたはどう思いましたか?

話は変わりますけれど、あたくしは“平成の紫式部”と呼ばれているのでござ~ますわァ。

うふふふふふふ。。。

ええっ。。。 信じられないってぇ~。。。?

じゃあ、『卑弥子の源氏物語』を お読みくださいませぇ~。。。


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『卑弥子の源氏物語』

どうですか? あたくしが “平成の紫式部”だと納得がゆきましたか?

ええっ。。。 ちょっと納得がゆかないのでござ~ますかァ?

でも こう見えても 一応 京都の女子大学で腐女子たちに「日本文化と源氏物語」を講義しているのでござ~ますわァ。

ただし、なかなか あたくしの魅力を認めてもらえないのでござ~ますう。

つまり、結婚相手が 現れないのですわァ。

この際 高望みはいたしません。

“寅さん”のような人でもいいですわ。

旅に出ていることが多いので 手がかからないと思うのでござ~ますう。

ついでだから、寅さんの映画でも見て、希望をつなごうと思います。

“袖触れ合うも他生の縁”と申します。

あなたも 一緒に寅さんのYouTubeでも見てくださいねぇ~。。。


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ちなみに、紫式部のお話も面白いですけれど、古代のお話も心にしみますわァ。

たまには、日本の古代史の記事も読んでくださいませぇ。

そういうわけで あなたのために平安史、古代史の記事を用意しました。

ぜひ 覗いてみてくださいね。

天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。
 

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平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?


今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?


マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?


とにかく、次回も興味深い記事が続きます。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
じゃあ、またねぇ~。。。


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ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
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ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。

卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。



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『ハマグリにハマる』

『ハマグリの誘惑』

『ハマグリの足跡を追って』

『芭蕉と遊女』

『光源氏もビックリ』

『エロエロ源氏物語』

『悲痛の紫式部』

『卑弥子のえっち』

『白妙の和歌を探して』

『キーワード診断』

『紅のボート難民』

『ん?ネトウヨ』


(miya08.jpg)

『下衆のかんぐり』

『桓武天皇のママがネットで』

『ござが天皇とGOOGLE』

『エロ 建礼門院』

『一敗が三人に!』

『行田の黒い霧をはらう』

『ペルシャ人が飛鳥に』

『小柴垣草子』

『後白河上皇ダントツ』

『ブスと美人』

『エロい話が好き?』

『死んでも生きてる』

『失意の太田将宏』


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『オルフェと聖徳太子』

『源氏物語とおばさんパンツ』

『霊仙はなぜ毒殺されたの?』

『紫式部が地獄へ』

『破戒僧円載』

『アショーカ王の愛と苦悩』

『どら平太の世界』

『三四郎とデンマンさん』

『ヒトラーの姪』

『ゴヤと三島由紀夫』

『仏陀とキリストと娼婦』


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『ズロースと戦争』

『伊藤若冲ブーム?』

『ブッダと物理学』

『加藤清正ブーム?』

『愛憎と三輪山』

『松原智恵子 お尻ペンペン』

『坂本龍馬は流れ者か?』

『野ざらし』

『紫式部堕獄説』

『日本最古のポルノ?』

『源氏物語の性描写』

『寅さんの本棚と急行まつしま』

『ヒトラーは草食系?』

『ブッダとキリストと娼婦』

『顔文字とオナラ』

『宝暦の恨みを明治維新で』

『デウキと紅葉@行田』

『薄い陰毛と紅のボートピープル』

『江戸の閨房術』

『ずるがしこい現代人』

『春画@源氏物語』

『千早振る』

『あれっ、松本清張』

『キスと源信』

『伎楽は呉から…?』

『紺瑠璃杯に魅せられて』

『神聖娼婦 マリア』



軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
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宝暦の恨みを明治維新で


 

宝暦の恨みを明治維新で

 


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デンマンさん。。。 どういうわけで“宝暦の恨みを明治維新で”というタイトルにしたのでござ~♪~ますのォ~。。。?


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あのねぇ~、たまたま夕べ バンクーバー市立図書館で借りた本を読んでいたら次の箇所に出くわしたのですよ。。。


宝暦治水


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中部地方には、「木曽三川」といわれる河川(揖斐川・長良川・木曽川)がある。

これらの河川は、岐阜県海津市あたりできわめて近接して流れており、昔はそれぞれの河川で洪水があるたびに、流路をまたがって流れたため、一流域で大雨が降ると、それが全下流域に及ぶといった被害がたびたび発生した。

そこで、江戸幕府は、この三川の近接部をきちんと分流することとし、木曽川は木曽川の流路、長良川は長良川の流路、揖斐川は揖斐川の流路になるよう、三川を分離する治水工事を実施することにした。

島津藩に御手伝い普請を命じて行わせたこれは「宝暦治水」(1754年~1755年)と呼ばれている。

この工事はきわめて何工事であったため、多数の島津藩士が病死したり自害したりした。

また、予想外の費用がかかったことから、工事責任者であった島津藩家老の平田靱負は、工事完了時に切腹して責任を取った。



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しかし、江戸時代の技術力ではこの三川を分離することは不可能だった。

木曽三川が完全に分流され今日の姿になったのは、明治以降の治水努力の成果なのである。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)


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74-76ページ 『国土が日本人の謎を解く』
著者: 大石久和
2015(平成27)年9月16日 第5刷発行
発行所: 株式会社 文藝春秋




この部分を読んで、僕が中学生の時の歴史の時間に先生が言った事を思い出したのですよ。。。



つまり、歴史の先生が“宝暦の恨みを明治維新で”と言ったのでござ~ますかァ~?

そうなのです。。。 この部分を読まなかったら、その歴史の先生のことなど思い出すことはなかったでしょうねぇ~。。。

。。。で、その先生のお名前は。。。?

それが、全く記憶にない。。。 思い出そうとしても思い出せない。。。 ところが、上の「宝暦治水」を読んだら、その先生の言った事だけは鮮やかに思い出されたのですよ。。。 その先生の姿や行田中学2年の時の教室までも はっきりと思い出すことができた。。。 不思議と言えば不思議ですよ。。。

デンマンさんは、中学生の頃から歴史に興味があったのでござ~ますかァ~?

好きでしたねぇ~。。。 好奇心を刺激されました。。。 それに、その先生も歴史にハマッていたのですよ。。。 かなり熱のこもった授業でした。。。

。。。で、この「宝暦治水」というのは、江戸幕府が島津藩の恨みを買うほどのひどい工事だったのですか?

それは、それは、ひどい工事だったのですよ。。。


宝暦治水事件


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宝暦治水事件(ほうれきちすいじけん、ほうりゃくちすいじけん)は、江戸時代中期に起きた事件。
幕命によって施工された木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)の治水事業(宝暦治水)の過程で、工事中に薩摩藩士51名自害、33名が病死し、工事完了後に薩摩藩総指揮の家老平田靱負も自害した。

宝暦治水とは、江戸時代の宝暦年間(1754年(宝暦4年)2月から1755年(宝暦5年)5月)、幕命により薩摩藩が行った治水工事。
濃尾平野の治水対策で、木曽川、長良川、揖斐川の分流工事。三川分流治水ともいう。

木曽川・長良川・揖斐川の3河川は濃尾平野を貫流し、下流の川底が高いことに加え、三川が複雑に合流、分流を繰り返す地形であることや、小領の分立する美濃国では各領主の利害が対立し統一的な治水対策を採ることが難しかったことから、洪水が多発していた。
また、美濃国側では尾張藩の御囲堤より3尺(91cm)以上低い堤しか作ってはいけなかったとする伝承もある。

1735年(享保20年)、美濃郡の代官であった井沢為永(井沢弥惣兵衛)が三川の調査の上で分流工事を立案したが、この時はあまりに大規模な案であり、財政難の幕府の許可が下りなかったとされる。
このとき立案された計画が後に宝暦治水に利用されたと言われているが、確たる証拠はない。
ただし、それ以前も以降も輪中地域の住人は三川分流を幕府へ度々願い出ていた。

幕府は延享4年(1747年)に二本松藩主丹羽高庸に対し、井沢の案を規模縮小した形で御手伝普請として治水工事を命じたが、これが完成してもなお抜本的解決にはなり得なかった。

時代が下るにつれて木曽三川流域は土砂の堆積や新田開発による遊水地の減少により洪水による被害がさらに激化していった。
1753年(宝暦3年)12月28日、第九代将軍徳川家重は薩摩藩主島津重年に手伝普請という形で正式に川普請工事を命じた。
この普請は幕府の指揮監督の下、薩摩藩が資金を準備し人足の動員や資材の手配をする形態であった。
また地元の村方を救済するため、町人請負を基本的に禁止して村請により地元に金が落ちる方針を取った。

1754年(宝暦4年)1月16日薩摩藩は家老の平田靱負に総奉行、大目付伊集院十蔵を副奉行に任命し、藩士を現地に派遣して工事にあたらせた。
度々水害に見舞われ貧窮する輪中地域の住民を労働に当てて救済する目的もあり、通常の公儀普請に比べて割高な賃金を工事に関して経験や技術の乏しい地元住民に支払うことを余儀なくされた。
また、工事が進んでいたところを水害に見舞われ工事済みの部分が破壊されることもあった。
さらに見試し工法によって工事が進められたため、工事の設計が途中で変更されることがしばしばあったことにより当初予想されたよりも大量の費用が必要となった。

宝暦治水は設計、計画は幕府によって行われるお手伝い普請であり、幕府側の総責任者は勘定奉行一色政沆、監督者として水行奉行高木新兵衛が命じられている。
高木は自家の家臣のみでは手に余ると判断し、急遽治水に長けた内藤十左衛門を雇っている。

事件概要

当時すでに66万両もの借入金があり財政が逼迫していた薩摩藩では、工事普請の知らせを受けて幕府のあからさまな嫌がらせに「一戦交えるべき」との強硬論が続出した。
財政担当家老であった平田靱負は強硬論を抑え薩摩藩は普請請書を1754年(宝暦4年)1月21日幕府へ送った。

同年1月29日には総奉行平田靱負、1月30日には副奉行伊集院十蔵がそれぞれ藩士を率いて薩摩を出発。
工事に従事した薩摩藩士は追加派遣された人数も含め総勢947名であった。

同年2月16日に大坂に到着した平田は、その後も大坂に残り工事に対する金策を行い、砂糖を担保に7万両を借入し同年閏2月9日美濃に入った。
工事は同年2月27日に鍬入れ式を行い着工した。

最初の犠牲者

1754年(宝暦4年)4月14日。薩摩藩士の永吉惣兵衛、音方貞淵の両名が自害した。
両名が管理していた現場で3度にわたり堤が破壊され、その指揮を執っていたのが幕府の役人であることがわかり、その抗議の自害であった。

以後合わせて61名が自害を図ったが平田は幕府への抗議と疑われることを恐れたのと、割腹がお家断絶の可能性もあったことから自害である旨は届けなかった。
また、この工事中には幕府側からも、現場の責任者が地元の庄屋とのもめ事や、幕府側上部の思惑に翻弄されるなどして、内藤十左衛門ら2名が自害している。
さらに、人柱として1名が殺害された。


幕府側は工事への嫌がらせだけでなく、食事も重労働にも拘らず一汁一菜と規制しさらに蓑、草履までも安価で売らぬよう地元農民に指示した。
ただし経費節減の観点から普請役人への応接を行う村方に一汁一菜のお触れを出すことは当時は普通のことであった。

赤痢

1754年(宝暦4年)8月には薩摩工事方に赤痢が流行し、粗末な食事と過酷な労働で体力が弱っていた者が多く、157名が病に倒れ32名が病死した。

1755年(宝暦5年)5月22日工事が完了し幕府の見方を終え、同年5月24日に総奉行平田靱負はその旨を書面にして国許に報告した。
その翌日5月25日早朝美濃大牧の本小屋で平田は割腹自殺した。


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辞世の句は以下のとおり:


住み馴れし
 

里も今更
 

名残にて、
 

立ちぞわずらう
 

美濃の大牧

 


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薩摩藩が最終的に要した費用は約40万両(現在の金額にして300億円以上と推定)。

大坂の商人からは22万298両を借入。
返済は領内の税から充てられることとなり、特に奄美群島のサトウキビは収入源として重視され、住民へのサトウキビ栽培の強要と収奪を行った。
現地では薩摩藩への怨嗟から「黒糖地獄」と呼ばれた。

その後

この工事は一定の成果を上げ、治水効果は木曽三川の下流地域300か村に及んだ。
ただし長良川上流域においては逆に洪水が増加するという問題を残した。
これは完成した堤が長良川河床への土砂の堆積を促したためと指摘されている。

薩摩藩では治水事業が終了したあとも現地に代官を派遣したが後に彼らは尾張藩に組み込まれている。
その後、近代土木技術を用いた本格的な治水工事は、明治初期に「お雇い外国人」ヨハニス・デ・レーケの指導による木曽三川分流工事によって初めて行われた。

1900年(明治33年)の分流工事完成時に、宝暦治水碑が千本松原南端に建てられている。
1938年(昭和13年)には、平田靱負ら85名の薩摩藩士殉職者を、「祭神」として顕彰するために『治水神社』(所在地:岐阜県海津市海津町油島(旧海津郡海津町))が建立された。

岐阜県と旧薩摩藩の大部分を継承する鹿児島県は、これが縁で1971年(昭和46年)7月27日に姉妹県盟約を締結しており、両県は、県教育委員会同士の交流研修として、お互いの県に小中高校教員を転任させている。
2007年(平成19年)より岐阜県では他県への教職員派遣を止める事にしたが、鹿児島県のみ継続している。
鹿児島県で発生した平成5年8月豪雨の際は岐阜県より復旧支援の土木専門職員が派遣され支援に当たった。
岐阜県海津市と鹿児島県霧島市は、これが縁で友好提携を結んでいる。




出典: 「宝暦治水事件」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




そもそも、なんで とんでもなく遠い鹿児島にある島津藩が岐阜の治水工事を命ぜられたのござ~ますかァ?



あのねぇ~、18世紀の中頃、島津藩は琉球との貿易によって財力を得ていたのですよ。。。 だから、徳川幕府のお偉方は、島津藩を恐れていた。

つまり、島津藩が財力に物を言わせて 幕府に抵抗して謀反を起こすと考えたのでござ~ますかァ~?

そうですよ。。。 いつの時代にもスパイが活躍しているのです。。。 そのスパイが幕府のお偉方に“島津藩に注意せよ!”と告げ口するわけです。。。

でも。。。、でも。。。、上の説明によると、工事を命令された当時、島津藩はすでに66万両もの借入金があり財政が逼迫していたというではござ~ませんかァ!

でもねぇ~、幕府としては、スパイの言うことを信じるわけですよ。。。 事実、島津藩は琉球と密貿易をしていたのだから。。。

要するに、幕府のお偉方は島津藩の密貿易の証拠を握っていたわけですわねぇ~。。。

そういうことです。。。 だから、幕府の命令を 島津藩は断固として断るわけにはゆかなかったのですよ。。。

でも、島津藩からすれば、“嫌がらせ”以外の何物でもないわけですよねぇ~。。。

そうです。。。 幕府のお偉方だって、うすうす島津藩の台所事情が良くない事ぐらい知っていたはずです。。。 でもねぇ~、この際、島津藩の財力を ごっそりとそぎとってやろうという意地悪な気持ちが頭をもたげたのですよ。。。 島津藩が貧乏になれば、幕府のお偉方は枕を高くしてグッスリと眠れるわけだから。。。

つまり、わざと難工事を島津藩に押し付けたわけでござ~ますかァ?

島津藩の財力を弱らせるには、一番それが手っ取り早い方法だからですよ。。。 だから、工事費用は島津藩が全額負担とした。。。 それに加えて幕府は、大工などの専門職人を一切雇ってはならないと命令した。

どうして、そういう命令を出したのでござ~ますかァ?

専門職人がいなければ、所々でミスをやらかすわけですよ。。。 そうなれば、幕府はやり直しを命ずることができる。。。そうなれば、ますます島津藩はお金を使うことになる。。。

そうやって、イジメながら島津藩を貧乏にするためなのですかァ~?

そういうことです。。。 幕府のやり方は マジで汚いのですよゥ。

工事に携(たずさ)わった島津藩士はアタマにきたでしょうねぇ~?

当然でしょう!。。。 僕が島津藩家老の平田靱負ならば、絶対に我慢できませんよ。

デンマンさんならば、どうなさるのですかァ~?

琉球は幕府には内緒で清国とも密貿易をしていた。。。 もちろん、その事は公然の秘密だった。。。 だから、僕が島津藩家老の平田靱負ならば「そのような無理を幕府が我が藩に課するならば、我が藩は清国と琉球と共同戦線を組んで幕府と一戦を構える覚悟です」と幕府の重役たちに言いきかせますよ。。。

つまり、脅(おど)しをかけるのでござ~ますか?

当たり前でしょう!

18世紀の中ほどにデンマンさんが島津藩に生きていなくて良かったと思いますわァ。。。 もし、それが現実になったら、日本の歴史は変わっていたでござ~ましょうねぇ~。。。

だいたい、幕府のやり方が汚すぎるのですよ。。。 幕府のやり方は露骨な弾圧ですよ!。。。 島津藩が恨みに思うのも もっともです。。。 とにかく、平田靱負は、平和を愛する人だったに違いないのです。。。 我慢に我慢を重ねた。。。 40万両にも上る工事費用を捻出するため大坂豪商から借金を重ね、幕府へもたびたび専門職人の雇用許可を要請した。

許可がおりたのでござ~ますかァ?

もちろん、幕府は度重なる願い事もすべて退けたのですよ。。。 むちゃくちゃですよ。。。 しかも、工事のやり直しを命じることがしばしばだった。。。 だから、工事に派遣された薩摩藩士達の過労や伝染病による死亡が相次ぎ、また幕府に抗議して切腹する薩摩藩士達も続出した。

ちょっとひどいですわよねぇ~。。。

だから、幕府の監視役の中からも、島津藩に同情する良心的な人物までが出てきた。。。

あらっ。。。 マジで。。。?

薩摩藩に同情して抗議の切腹を行う幕府の監視役の武士が二名いたのですよ。。。

あらっ。。。 感動させるエピソードですわァ~。

ところが、平田靱負は、あくまでも平和を愛する人物のようです。。。 切腹した島津藩士が 51人も出たというのに、幕府との摩擦を回避するため、切腹した藩士たちを事故死として処理していたのですよ。。。

それで、最終的に工事が終わった時点で、平田靱負は50歳で切腹して果てたのでござ~ますか?

そうなのです。。。 分流工事は着工より1年3ヶ月ほどでようやく完成したのだけれど、平田靱負は藩への多大な負担の責任を取って自害した。。。 さらに、島津藩主の島津重年も心労で、後を追うように翌月に27歳で病没しているのです。

マジで。。。?

ところが、この話の元になっている史料は、昭和29年に発行された「宝暦治水と薩摩義士」という書物なのですよ。。。 でもねぇ~、それ以前の史料には平田靱負が自害した記録が無いとされている。

あらっ。。。 それってぇ、どういうわけでござ~ますか?

それどころか「島津氏世録正統系図」には、「平田は昨年から病気でいまだ回復せず、さらに胃を病んで5月24日数度吐血し、25日死す」と書かれている。

あらっ。。。 じゃあ、「平田靱負が藩への多大な負担の責任を取って自害した」というのは、創作された美談なのでござ~ますか?

ただし「同時代の公式記録に自刃という出来事を載せない」という慣習が島津藩にはあったという歴史家もいるのですよ。。。

真相はどうなのでござ~ますか?

あのねぇ~、島津藩主の島津重年が心労で、27歳の若さで亡くなってしまったのですよ。。。 そのことを考えれば、50歳の平田靱負も、工事が終了したときには、病気で棺桶に片足が入っていたとしてもおかしくない。

つまり、平田靱負の死を無駄にしないために、「平田靱負が藩への多大な負担の責任を取って自害した」という美談に仕立て上げたのでござ~ますか?

僕は、そうだと思います。。。 そうすることにより、島津藩が長州藩と一緒に弾圧政府の江戸幕府を倒して明治維新を断行したという正当な理由にしたと思うのですよ。



(laugh16.gif)


【卑弥子の独り言】


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ですってぇ~。。。
あなたは、どう思いますか?

確かに、江戸幕府のやり方はひどすぎたのでござ~ますわァ。
遅かれ早かれ、幕府は倒されて近代日本が生まれるのは宿命だったのかもしれませんわねぇ~。。。

ところで、個人的なことになりますけれど、あたくしは“平成の紫式部”と呼ばれているのでござ~ますわァ。

ええっ。。。 信じられないってぇ~。。。?

じゃあ、『卑弥子の源氏物語』を お読みくださいませぇ。。。


(genjiero4.jpg)

『卑弥子の源氏物語』

どうですか? あたくしが “平成の紫式部”だと納得がゆきましたか?

ええっ。。。 ちょっと納得がゆかないのでござ~ますかァ?

そうでしょうねぇ~。。。 あたくしだって、デンマンさんの お話を聞いていて なんとなく 騙されているような気になるのですものォ~。。。 

でも こう見えても 一応 京都の女子大学で腐女子たちに「日本文化と源氏物語」を講義しているのでござ~ますわァ。

ただし、なかなか あたくしの魅力を認めてもらえないのでござ~ますう。
つまり、結婚相手が 現れないのですわァ。

この際 高望みはいたしません。
“寅さん”のような人でもいいですわ。
旅に出ていることが多いので 手がかからないと思うのでござ~ますう。

ついでだから、寅さんの映画でも見て、希望をつなごうと思います。

“袖触れ合うも他生の縁”と申します。
あなたも 一緒に寅さんのYouTubeでも見てくださいねぇ~。。。


(tora019.jpg)



ちなみに、紫式部のお話も面白いですけれど、古代のお話も心にしみますわァ。
たまには、日本の古代史の記事も読んでくださいませぇ。

そういうわけで あなたのために平安史、古代史の記事を用意しました。
ぜひ 覗いてみてください。

天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。
 

天智天皇は暗殺された 

定慧出生の秘密 

藤原鎌足と長男・定慧 

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?


今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?


マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?


とにかく、次回も興味深い記事が続きます。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
じゃあ、またねぇ~。。。


(hand.gif)


ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
(30june.jpg)


(surfing9.gif)



(sayuri5.gif)

ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。

卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。



(hama10.jpg)

『ハマグリにハマる』

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