ん?佐伯今毛人


 

ん?佐伯今毛人

 


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デンマンさん。。。どうして急に佐伯今毛人(さえきのいまえみし)を取り上げたのでござ~♪~ますか?


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いや。。。 僕が取り上げたわけじゃないのですよ。。。

でも、タイトルを書くのはデンマンさん以外にいませんわァ。。。

確かに、タイトルを書いたのは僕ですけれど、“佐伯今毛人”を持ち出したのは僕じゃありません。。。

じゃあ、どなたが“佐伯今毛人”を持ち出したのでござ~ますかァ?

ちょっと次のリストを見てください。。。


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『拡大する』

『佐伯今毛人は臆病者か?』




これはライブドアの僕の『徒然ブログ』の日本時間で5月25日の午後3時8分から午後7時50分までの約5時間の「生ログ」の一部ですよ。。。 赤枠で囲んだ箇所を見て欲しいのです。。。



あらっ。。。 5月25日の午後3時17分にGOOGLEで検索して『佐伯今毛人は臆病者か?』を読んだネット市民がいたのですわねぇ~。。。

そうです。。。 立命館大学で日本古代史を専攻している佐伯 亜利素(さえき ありす)さんが読んだのです。。。

あらっ。。。 またIPアドレスを調べたのですかァ~?

そうです。。。


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『拡大する』



どうしてデンマンさんのブログには おきれいな女性たちが群がってくるのでござ~ますかァ~?



あのねぇ~、GOOGLEで検索してやって来たのですよゥ。。。 たまたま佐伯 亜利素(さえき ありす)さんが美人だというだけのことです。。。 特に、きれいな女性だけが僕のブログにやって来るわけではないのですよ。。。

じゃあ、どういうわけで佐伯 亜利素(さえき ありす)さんの写真をゲットしたのでござ~ますかァ?

だから、佐伯 亜利素(さえき ありす)さんが『佐伯今毛人は臆病者か?』を読んだら、卑弥子さんが出てきたので調べたら京都の女子大学で「日本文学と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授だと知ってわけです。。。 それで、『源氏物語』にも関心がある亜利素(ありす)さんは、ぜひ卑弥子さんの研究室にお邪魔してお話を伺いたいというメールを僕に送ってきたのです。

なぜ、あたくしに直接メールを送ってくださらなかったのですかァ~?

それでは、失礼に当たると思ったのですよ。。。 僕から紹介されて、初めて卑弥子さんに京都の女子大の卑弥子さんの研究室で会うのが順当なエチケットだと亜利素(ありす)さんは言うわけです。。。

信じられませんわァ。。。 それは、デンマンさんの見え見えの作り話でござ~ますわァ~。。。

つまり、これだけの材料を揃えてまで、僕が作り話をしていると卑弥子さんは断定するのですかァ~?

デンマンさんと、ここで議論する時間は無いのでござ~ますわァ。。。 ただでさえ長いデンマンさんの記事が、さらに長~♪~くなってしまいますわァ~。。。 この記事を読んでくださっているネット市民の皆様が他のブログへ飛んでしまう前に、本題に入ってくださいなァ~。。。 佐伯 亜利素(さえき ありす)さんは、いったい どのようなキーワードを入れてGOOGLEで検索したのでござ~ますかァ?

次のようにして検索したのです。。。


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『拡大する』

『佐伯今毛人は臆病者か?』

『現時点での検索結果』




あらっ。。。「佐伯今毛人 臆病者」と入れて検索したのですわねぇ~。。。



そうです。。。

でも。。。、でも。。。、それは、ちょっとばかり でき過ぎているのではござ~ませんかァ?

何ができ過ぎているのですか?

だってぇ~、「佐伯今毛人 臆病者」と入れて検索して『佐伯今毛人は臆病者か?』を読んだということは、偶然にしては、でき過ぎていると誰だって思いますわよう!

あのねぇ~、たまたま、そのようにして検索したからこそ 佐伯 亜利素(さえき ありす)さんは僕のブログへやって来たのですよ。。。 他のキーワードを入れていたら、僕のブログにはやって来なかったはずです。。。 そんなことは検索エンジンの常識ですよ!

そうでしょうかァ~?

卑弥子さんは、僕が作り話をしていると疑っているから、そのような余計な考えに取り付かれているのですよ!

そうでしょうかしら。。。?

もっと素直な気持ちで僕の話を聞いてくれませんかァ~。。。

分かりましたわァ。。。 んで、どうして佐伯 亜利素(さえき ありす)さんは「佐伯今毛人は臆病者なのかしら?」と疑ってネットで調べ始めたのでござ~ますかァ?

卑弥子さんは、平安時代に多くの日本人が遣唐使船に乗って唐に行ったということを知ってますよねぇ~。。。

もちろん、あたくしは存じ上げておりますわ。。。

それなら話は簡単ですよ。。。 遣唐使船に乗るということは生きるか死ぬかという危険が付きまとっていた。 生きて唐に着くか? 生きて日本へ帰れるか? その成功確率は50%ほどだった。 まさに、100円硬貨を空に投げて手に受け取り、裏が出るか?表が出るか?という確率だったのですよ。 当時でも、勇気のない男は尻込みして名誉の遣唐使にさえ就くのを辞退した。

そのように尻込みして遣唐使を辞退した人がマジで居たのでござ~♪~ますか?

居たのですよ。 それが宝亀6年(775年)の遣唐大使に任命されたのが佐伯今毛人(さえきのいまえみし)だった。 宝亀8年(777年)4月、節刀を賜り再度(前年は大宰府から引き返している)出発したが羅城門までくると病になり渡航を断念し摂津に留まることとなったのですよ。。。

あらっ。。。 病気になってしまったのでござ~ますか?

でも、卑弥子さんのように疑り深い世間では 素直に そのようには受け止めなかった。

つまり、佐伯今毛人(さえきのいまえみし)さんは、仮病を使って遣唐使になることを渋った、とその当時の世間の皆様は疑ったのでござ~ますかァ?

その通りですよ。。。 当時、遣唐使になるには、それほど勇気が必要だったということです。

それで、その時の遣唐使船はどうなったのでござ~♪~ますか?

仕方がないので、この時は副使の小野石根(おののいわね)が佐伯今毛人に代わって大使の任務を代行した。 でも、小野石根が乗った遣唐使船の第1船は帰路遭難して亡くなってしまったのですよ。

やっぱり、遣唐使船に乗るのは命がけなのですわねぇ~。。。

そうです。。。 だから、 佐伯 亜利素(さえき ありす)さんは「佐伯今毛人はマジで臆病者だったのかしら?」と思って調べ始めたというわけですよ。。。

。。。で、佐伯 亜利素(さえき ありす)さんはデンマンさんの記事を読んで その答えを見い出したのですか?

そうです。。。 実は、僕も亜利素(ありす)さんと同じような疑問を持ったのです。。。 でもねぇ~、思い当たることがあったァ~。。。


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遣唐使に命じられた佐伯今毛人は

仮病を使って役を免れたのか?

しかし、彼は「藤原良継の変」に参加し

横暴を極めた藤原仲麻呂を倒そうとした。

彼の真実の姿は。。。?




つまり、佐伯今毛人さんが臆病者だったら横暴を極めた藤原仲麻呂を倒そうという計画に参加しなかったということですか?



そうですよ。

でも、計画に参加するぐらいで、それ程の勇気が必要なのでしょうか?

あのねぇ~、「藤原良継の変」の前に、「橘奈良麻呂の乱」という大きな事件があったのです。


橘奈良麻呂の乱

橘奈良麻呂の父の左大臣橘諸兄は、聖武天皇の治世に政権を担当していた。

陰謀の計画と発覚

藤原仲麻呂の専横に不満を持ったのが、諸兄の子の奈良麻呂である。
奈良麻呂は不満を持つ者たちを集めて仲麻呂を除こうと画策する。

755年(天平勝宝7年)6月28日(7月22日)、山背王が孝謙天皇に「奈良麻呂が兵をもって仲麻呂の邸を包囲しようと計画している」と密告した。
7月2日(7月26日)、孝謙天皇と光明皇太后が、諸臣に対して「謀反の噂があるが、皆が逆心を抱くのをやめ、朝廷に従うように」との詔勅を発した。

しかし、その日の夜、中衛府の舎人上道斐太都から、前備前守小野東人に謀反への参加を呼びかけられたと仲麻呂へ密告があった。
仲麻呂はただちに孝謙天皇に報告して、中衛府の兵を動かして前皇太子道祖王の邸を包囲し、小野東人らを捕らえて左衛士府の獄に下した。

756年7月3日(7月27日)、右大臣・藤原豊成、中納言・藤原永手らが小野東人を訊問。
東人は無実を主張した。
その報告を受けて、孝謙天皇は仲麻呂を傍らに置いて、塩焼王、安宿王、黄文王、橘奈良麻呂、大伴古麻呂を前に「謀反の企てがあるとの報告があるが自分は信じない」との宣命を読み上げた。

ところが同日事態は急変する。
右大臣豊成が訊問から外され、再度、永手らを左衛士府に派遣し小野東人、答本忠節(たほのちゅうせつ)らを拷問にかけた。
東人らは一転して謀反を自白した。

その内容は、橘奈良麻呂、大伴古麻呂、安宿王、黄文王らが一味して兵を発して、仲麻呂の邸を襲って殺して皇太子を退け、次いで皇太后の宮を包囲して駅鈴と玉璽を奪い、右大臣豊成を奉じて天下に号令し、その後天皇を廃し、塩焼王、道祖王、安宿王、黄文王の中から天皇を推戴するというものであった。

過酷な処分

東人の供述により、7月4日(7月28日)に奈良麻呂を始め、道祖王、黄文王、大伴古麻呂、多冶比犢養(たじひのこうしかい)、賀茂角足(かものつのたり)ら、一味に名を挙げられた人々は直ちに逮捕され、永手らの訊問を受けた。
訊問が進むにつれ、全員が謀反を白状した。
奈良麻呂は永手の聴取に対して「東大寺などを造営し人民が辛苦している。政治が無道だから反乱を企てた。」と打ち明けた。

この後すぐに獄に移され、永手、百済王敬福、船王らの監督下、杖で全身を何度も打つ拷問が行われた。
道祖王(麻度比と改名)、黄文王(久奈多夫礼と改名)、大伴古麻呂、東人、犢養、角足(乃呂志と改名)は同日、過酷な拷問に耐えかねて次々と絶命した。
また首謀者である奈良麻呂の名が『続日本紀』に残されていないが、同じく拷問死したと考えられる。

安宿王は佐渡島、大伴古慈悲(藤原不比等の娘婿)は土佐国に配流され(両者ともその後赦免)、塩焼王は直接関与した証拠がなかったために臣籍降下(「氷上眞人塩焼」と改名)することで不問とされた。
反乱計画に直接関与していなかったものの佐伯全成は捕縛され奈良麻呂から謀反をもちかけられた顛末を自白した上で自害した。

他にもこの事件に連座して流罪、徒罪、没官などの処罰を受けた役人は443人にのぼる。
また、右大臣・藤原豊成が息子乙縄とともに事件に関係したとして大宰員外帥に左遷された。

中納言・藤原永手も、その後仲麻呂派で固められた朝廷内で政治的に孤立し逼塞を余儀なくされたと言う説がある。
豊成・永手らは反仲麻呂派であると同時に奈良麻呂らの標的とされた孝謙天皇の側近であった人々であり、天皇廃立を企てた奈良麻呂らに対して過酷な尋問や拷問を行った人々であった。

その後

仲麻呂はこの事件により、自分に不満を持つ政敵を一掃することに成功した。
758年(天平宝字2年)、大炊王が即位し(淳仁天皇)、仲麻呂は太保(右大臣)に任ぜられ、恵美押勝の名を与えられる。

そして、760年(天平宝字4年)には太師(太政大臣)にまで登りつめ栄耀栄華を極めた。
だが、その没落も早く、孝謙天皇の寵愛は弓削道鏡に移り、764年(天平宝字8年)、仲麻呂は乱を起こして敗れ、その一族は滅んだ(藤原仲麻呂の乱)。




出典: 「橘奈良麻呂の乱」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




要するに上の事件は政権闘争なのですよ。 この事件で佐伯今毛人の一族である佐伯全成は自害した。 大伴家持の一族の大伴古麻呂は、過酷な拷問に耐えかねて絶命したのですよ。



つまり、佐伯氏と大伴氏が権力闘争で敗れたのですか?

簡単に言ってしまえば、そう言う事なのです。

その後に「藤原良継(よしつぐ)の変」が起こったのですか?

そうです。 当然の事だけれど、事変が発覚すれば最悪、拷問死や自害も覚悟しなければならない。 それは「橘奈良麻呂の乱」を見れば明らかなことです。

つまり、佐伯今毛人さんが命が惜しくって仮病を使ってまで遣唐使になるのを拒む性格であれば、「藤原良継の変」に参加しなかったとデンマンさんは言うのでござ~ますか?

その通りですよ。

。。。んで、その「藤原良継の変」は成功したのですか?

残念ながら失敗したのです。 藤原良継は佐伯今毛人・石上宅嗣・大伴家持らと結託し藤原仲麻呂を暗殺する計画をたてた。 ところが計画が仲麻呂側に漏れてしまう。 763年(天平宝字7年)4人は逮捕されるてしまう。

死刑ですか?

いや。。。この当時は死刑はなかった。 この時、藤原良継(当時の名前は宿奈麻呂【すくなまろ】)は他の3人を救うために単独犯行を主張した。 一応認めれれて八虐の一つである大不敬との罪により解官の上、姓も剥奪されたのですよ。

佐伯今毛人さんは無罪放免になったのでござ~♪~ますか?

いや。。。そう簡単には事は運ばなかった。 3人は罪には問われなかったものの左遷されてしまった。 佐伯今毛人は九州に飛ばされ、大宰府営城監という役についた。 石上宅嗣は大宰少弐に、そしてあの有名な大伴家持は薩摩守に落とされた。

つまり、佐伯今毛人さんは反骨の人だったわけですわねぇ~?

そうだと思います。 佐伯今毛人が関わった事件をじっくりと見つめてみると、少なくとも彼が仮病を使って遣唐使を辞退するような人ではなかったと僕には思えるのですよ。

佐伯 亜利素(さえき ありす)さんも記事を読んでデンマンさんに同意したのですか?

そうです。。。

でも。。。、でも。。。、どうして亜利素(ありす)さんは、佐伯今毛人に興味を抱いたのですか?

あのねぇ~、卑弥子さんは、藤原不比等の後妻となった橘三千代、またの名を県犬養三千代(あがたのいぬかい の みちよ)に関心があるでしょう?

当然ですわァ~、だってぇ~、あたくしのご先祖様ですものォ~。。。

実は、佐伯今毛人は亜利素(ありす)さんのご先祖さまなのですよ。。。

マジで。。。?

佐伯今毛人さんの妻の名前を若狭郎女(わかさのいらつめ)というのです。。。


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   若狭郎女

 



 


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佐伯 亜利素(さえき ありす)さん



つまり、亜利素(ありす)さんは若狭郎女のDNAを体内に持っているので、顔が似ている、とデンマンさんは証拠のつもりで上の写真を並べたのでござ~ますかァ?



そうですよ。。。 “百聞は一見にしかず!”と言いますからねぇ~。。。 これならば、疑り深い卑弥子さんも信じると思ったのですよ。。。



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【卑弥子の独り言】


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ですってぇ~。。。

やっぱり、ちょっとでき過ぎていますわよねぇ~。。。

あなただってぇ、そう思うでしょう?

ところで、あたくしには紫式部の血も流れているのでござ~ますわァ。。。

信じられないでしょう?

では、あたくしの次のお話を読んでくださいませぇ~。。。


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『卑弥子の源氏物語』

どうですか? あたくしが“平成の紫式部”だと納得がゆきましたかァ~?

ええっ。。。 ちょっと納得がゆかないのでござ~ますかァ?

でもねぇ~、あたくしは 一応 京都の女子大学で腐女子たちに「日本文化と源氏物語」を講義しているのでござ~ますゥ。

だけど、どういうわけか結婚相手が 現れないのですわよゥ。

あたくしは別に高望みはしていないのでござ~ますう。

“寅さん”のような人でもいいのです。。。

ついでだから、寅さんの映画でも見てください。


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ちなみに、紫式部のお話も面白いですけれど、古代の話も心にしみます。

たまには、日本の古代史の記事も読んでくださいませぇ。

そういうわけで あなたのために平安史、古代史の記事を用意しました。

ぜひ 覗いてみてくださいねぇ~。。。

天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。
 

天智天皇は暗殺された 

定慧出生の秘密 

藤原鎌足と長男・定慧 

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?


今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?


マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?


とにかく、次回も興味深い記事が続きます。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてください。
じゃあ、またねぇ~。。。


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ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
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ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。

卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。




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『下衆のかんぐり』

『桓武天皇のママがネットで』

『ござが天皇とGOOGLE』

『エロ 建礼門院』

『一敗が三人に!』

『行田の黒い霧をはらう』

『ペルシャ人が飛鳥に』

『小柴垣草子』

『後白河上皇ダントツ』

『ブスと美人』

『エロい話が好き?』

『死んでも生きてる』

『失意の太田将宏』


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『オルフェと聖徳太子』

『源氏物語とおばさんパンツ』

『霊仙はなぜ毒殺されたの?』

『紫式部が地獄へ』

『破戒僧円載』

『アショーカ王の愛と苦悩』

『どら平太の世界』

『三四郎とデンマンさん』

『ヒトラーの姪』

『ゴヤと三島由紀夫』

『仏陀とキリストと娼婦』


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『ズロースと戦争』

『伊藤若冲ブーム?』

『ブッダと物理学』

『加藤清正ブーム?』

『愛憎と三輪山』

『松原智恵子 お尻ペンペン』

『坂本龍馬は流れ者か?』

『野ざらし』

『紫式部堕獄説』

『日本最古のポルノ?』

『源氏物語の性描写』

『寅さんの本棚と急行まつしま』

『ヒトラーは草食系?』

『ブッダとキリストと娼婦』

『顔文字とオナラ』


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『宝暦の恨みを明治維新で』

『デウキと紅葉@行田』

『薄い陰毛と紅のボートピープル』

『江戸の閨房術』

『ずるがしこい現代人』

『春画@源氏物語』

『千早振る』

『あれっ、松本清張』

『キスと源信』

『伎楽は呉から…?』

『紺瑠璃杯に魅せられて』

『神聖娼婦 マリア』

『安徳帝は生きていた』

『白石川の桜』

『ブログ村のマリア様』

『萌える済子女王』

『ピンク桃色@徒然』

『富沢金山の桜』

『ピンク桃色村』

『紫式部@徒然』

『絵里香@ペルー』

『ペルシャ人の楊貴妃』



軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
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安徳帝は生きていた


 

安徳帝は生きていた

 


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安徳天皇と守貞親王

 


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ところで、守貞親王と入れ替わった安徳帝は、その後どうなったのでしょう。

まずまず無事に守貞親王に化けおおせ、治部卿局(じぶきょうのつぼね)たちとともに都に戻り、法皇との対面ののち、上西門院の猶子(ゆうし)となって成長、そして承久の乱勃発後、太上天皇(だいじょうてんのう)として再び政治の座についたのです。

泉下の平家一門はどれだけ喜んだでしょう。

しかし46歳にして惜しくも崩御されてしまいました。

この事実を、治部卿局以外、誰も知らなかったとは考えられませんが、なんの破綻もなく、これまでおさまったのは、天佑神助(てんゆうしんじょ)のたまものというべきでしょうか。

 


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(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




197ページ 『義経』
著者: 宮尾登美子
2004(平成16)年11月25日 第1刷発行
発行所: 日本放送出版協会


 




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幼かった安徳天皇が おばあちゃんの二位尼(平時子)に抱き上げられて 一緒に瀬戸内海の波間に沈んでいったのではなく、そのおばあちゃんが抱いていたのは、身代わりになった守貞親王で、実は、安徳天皇は生きていて 承久の乱勃発後、太上天皇(だいじょうてんのう)として再び政治の座についた、とデンマンさんは信じているのでござ~♪~ますか?


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いや。。。 実は、僕は初めて そのような事を信じている人がいるのを知って ちょっと驚いたのですよ。。。 もう亡くなってしまったけれど、宮尾登美子さんが書いた上の本をバンクーバー図書館で借りて読んでいたら、上の箇所に出くわしたというわけです。。。

そのような事はありえないと、デンマンさんは考えているのですかァ~?

だから、それをちょっと確かめてみたくなって卑弥子さんを呼んだのですよ。。。

あたくしは、そのような事を考える人たちが居ても 決して不思議ではないと思いますわァ~。。。

卑弥子さんは、どうしてそう思うのですか?

だってぇ~、源義経が亡くなったのは、実は、影武者が殺されたので 本人は生きていて後にジンギスカンになって大陸で活躍したというお話は多くの人が信じていますわァ。

でもねぇ~、その伝説は今では学術的に完全に否定されてるのですよ。。。


義経の伝説


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優れた軍才を持ちながら非業の死に終わった義経の生涯は、人々の同情を呼び、このような心情を指して判官贔屓というようになった。
また、義経の生涯は英雄視されて語られるようになり、次第に架空の物語や伝説が次々と付加され、史実とは大きくかけ離れた義経像が形成された。

義経伝説の中でも特に有名な武蔵坊弁慶との五条大橋での出会い、陰陽師・鬼一法眼の娘と通じて伝家の兵書『六韜』『三略』を盗み出して学んだ話、衣川の戦いでの弁慶の立ち往生伝説などは、死後200年後の室町時代初期の頃に成立したといわれる『義経記』を通じて世上に広まった物語である。
特に『六韜』のうち「虎巻」を学んだことが後の治承・寿永の乱での勝利に繋がったと言われ、ここから成功のための必読書を「虎の巻」と呼ぶようになった。

また後代には、様々な文物が由緒の古さを飾るために義経の名を借りるようになった。
例えば、義経や彼の武術の師匠とされる鬼一法眼から伝わったとされる武術流派が存在する。

 

不死伝説

後世の人々の判官贔屓の心情は、義経は衣川で死んでおらず、奥州からさらに北に逃げたのだという不死伝説を生み出した。
このような伝説、あるいは伝説に基づいて史実の義経は北方に逃れたとする主張を、義経北方(北行)伝説と呼んでいる。
この伝説に基づいて、寛政11年(1799年)、蝦夷地のピラトリ(現・北海道沙流郡平取町)に義経神社が創建された。

義経北方(北行)伝説の原型となった話は、室町時代の御伽草子に見られる『御曹子島渡』説話であると考えられている。
これは、頼朝挙兵以前の青年時代の義経が、当時「渡島(わたりしま)」と呼ばれていた北海道に渡ってさまざまな怪異を体験するという物語である。
未知なる地への冒険譚が、庶民の夢として投影されているのである。

このような説話が、のちに語り手たちの蝦夷地のアイヌに対する知識が深まるにつれて、衣川で難を逃れた義経が蝦夷地に渡ってアイヌの王となった、という伝説に転化したと考えられる。
またアイヌの人文神であるオキクルミは義経、従者のサマイクルは弁慶であるとして、アイヌの同化政策にも利用された。
またシャクシャインは義経の後裔であるとする(荒唐無稽の)説もあった。
これに基づき、中川郡の本別町には義経山や、弁慶洞と呼ばれる義経や弁慶らが一冬を過ごしたとされる洞窟が存在する。

 

義経=ジンギスカン説


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この北行伝説の延長として幕末以降の近代に登場したのが、義経が蝦夷地から海を越えて大陸へ渡り、成吉思汗(ジンギスカン)になったとする「義経=ジンギスカン説」である。

この伝説の萌芽もやはり日本人の目が北方に向き始めた江戸時代にある。
清の乾隆帝の御文の中に「朕の先祖の姓は源、名は義経という。その祖は清和から出たので国号を清としたのだ」と書いてあった、あるいは12世紀に栄えた金の将軍に源義経というものがいたという噂が流布している。
これらの噂は、江戸時代初期に沢田源内が発行した『金史別本』の日本語訳が発端である。

このように江戸時代に既に存在した義経が大陸渡航し女真人(満州人)になったという風説から、明治時代になると義経がチンギス・カンになったという説が唱えられるようになった。
明治に入り、これを記したシーボルトの著書『日本』を留学先のロンドンで読んだ末松謙澄はケンブリッジ大学の卒業論文で「大征服者成吉思汗は日本の英雄源義経と同一人物なり」という論文を書き、『義経再興記』(明治史学会雑誌)として日本で和訳出版されブームとなる。

大正に入り、アメリカに学び牧師となっていた小谷部全一郎は、北海道に移住してアイヌ問題に取り組んでいたが、アイヌの人々が信仰する文化の神・オキクルミの正体は義経であるという話を聞き、義経北行伝説の真相を明かすために大陸に渡って満州・モンゴルを旅行した。
彼はこの調査で義経がチンギス・カンであったことを確信し、大正13年(1924年)に著書『成吉思汗ハ源義經也』を出版した。
この本は判官贔屓の民衆の心を掴んで大ベストセラーとなる。
現代の日本で義経=ジンギスカン説が知られているのは、この本がベストセラーになったことによるものである。

こうしたジンギスカン説は明治の学界から入夷伝説を含めて徹底的に否定され、アカデミズムの世界でまともに取り上げられることはなかったが、学説を越えた伝説として根強く残り、同書は昭和初期を通じて増刷が重ねられ、また増補が出版された。
この本が受け入れられた背景として、日本人の判官贔屓の心情だけではなく、かつての入夷伝説の形成が江戸期における蝦夷地への関心と表裏であったように、領土拡大、大陸進出に突き進んでいた当時の日本社会の風潮があった。

現在では後年の研究の結果や、チンギス・カンのおおよその生年も父親の名前も「元朝秘史」などからはっきりと判っていることから、源義経=チンギス・カン説は学術的には完全に否定された説である。




出典: 「源義経」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




こういう話は、昔から“判官贔屓(はんがんびいき)”と言って よく伝説には付き物なんですよ。。。 どう考えたって、義経がジンギスカンになったという話は、荒唐無稽(こうとうむけい)なのですよ。。。



どうしてデンマンさんは荒唐無稽と決め付けるのでござ~ますか?

あのねぇ~、僕がジンギスカンの下で命令を受けて戦うモンゴル人のデンマン将軍だとします。。。

あらっ。。。 面白そうな例えでござ~ますわねぇ~。。。 うふふふふふふ。。。 で、もし、そうだとしたらどうなったと言うのでござ~ますかァ?

義経がジンギスカンになったとしたら、彼は30才をすぎてから大陸に渡ったことになるのですよ。。。 つまり、そうなると、誰もがジンギスカンはモンゴル人じゃなくて日本人だということを知っている。。。 すると、日本人のために命をかけてまで戦う気にならない! 僕は、日本人のジンギスカンを暗殺して自分がモンゴル人の棟梁になろうとしますよ。。。

つまり、モンゴル人のデンマン将軍が日本人のジンギスカンを暗殺して歴史は変わってしまったというのでござ~ますかァ?

その通りですよ。。。 あのねぇ~、現在だって、アメリカの大統領になるにはアメリカで生まれてないと成れない! どこの国でも移民の大統領など居ませんよ。。。 移民は、その国ではせいぜい縁の下の力持ちになる程度で、決してその国の長には成れない! そんな事は移民をしてみればすぐに理解できる事なのですよ。。。

つまり、義経がモンゴルに移民してジンギスカンになることは デンマンさんの経験上からありえないという事ですわねぇ~。。。

いや。。。 僕の経験からも言えることだけれど、そのような事は歴史を見ればすぐに理解できる事ですよ。。。 フジモリ大統領だってぇ、ペルーの第91代大統領になったけれど、移民したわけじゃない。。。 ペルーの首都リマのミラフロレス区で仕立物屋を営む父・直一と母・ムツエの間に生まれたのですよ。。。 要するに、その国で生まれ育った人物でなければ、その下で働く人たちの意欲が湧かないのですよ。。。 だから、日本から30才過ぎてやってきた義経に従ってモンゴル人が命をかけて戦うなんて、とてもありえない!

モンゴル生まれのデンマン将軍によって暗殺されてしまうのですか?

僕が、その当時モンゴルで生まれて義経将軍の下で戦うモンゴル人の将軍になったら、まずそうする事になったと思いますよ。。。

分かりましたわ。。。 でも、安徳天皇の場合は、お話が違うと思うのでござ~ますわァ。。。

どう違うのですか?

だってぇ~、安徳天皇はモンゴルに移住したわけではありませんわァ。。。 守貞親王が安徳天皇の身代わりになって海に沈んだのですわ。。。 だから、安徳天皇は守貞親王として、都で暮らし、やがて承久の乱勃発後、太上天皇(だいじょうてんのう)として再び政治の座についたのでござ~ますわァ。

卑弥子さんもマジで それを信じているのですかァ~?

だってぇ~、そうでも考えないと、安徳天皇があまりにも お可哀想ですわァ~。。。 



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最期を覚悟して神璽と宝剣を身につけた おばあちゃんの二位尼(平時子)は安徳天皇を抱き上げました。

「おばあちゃん、僕をどこへ連れてゆくのォ~」

二位尼は涙をおさえて 諭(さとし)します。

「坊ちゃんは 前世の修行によって天子としてお生まれになられましたが、悪縁により、御運はもはや尽きてしまいました。 この世は辛く厭(いと)わしいところです。

これから、このバアが、極楽浄土という結構なところにお連れ申すのですよ」

「楽しいところなのォ~」

「そうですよ。。。 これからバアと一緒にゆきます。 だから、この世にさようならをしましょうねぇ~」

 


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すると、幼い天皇は小さな手を合わせ、東を向いて伊勢神宮を遙拝し、続けて西を向いて念仏を唱えました。

二位尼は「波の下にも都がございます」と慰め、安徳天皇を抱いたまま壇ノ浦の急流に身を投じたのでした。

安徳天皇は、歴代最年少の数え年8歳(満6歳と4か月)で崩御したのです。




『平家物語』「先帝身投」より卑弥子が現代語に意訳しました。




卑弥子さんは意外に涙もろいのですねぇ~。。。



この場面を想い浮べると、あたくしは涙無しにはおられないのでござ~ますわァ。。。

卑弥子さん。。。 涙が鼻水になって、鼻からずいぶん出てますよ。。。 ハンカチでは間に合わないからタオルを持ってきますねぇ~。。。

デンマンさん! 愚かな事を言ってないで話の先を進めてくださいなァ~。。。

あのねぇ~、よく考えてくださいよ! 安徳天皇が満6歳と4か月で おばあちゃんと一緒に瀬戸内海の海の底に沈んだから、そうやって卑弥子さんの涙がドバドバと出てくるのですよ。。。 もしですよゥ。。。 そうじゃなくて守貞親王が安徳天皇の身代わりになっていたとしたら、『平家物語』の上の箇所は、涙をそれほど誘わないのですよ。。。 むしろ、現在の倫理観としたら、人権無視もはなはだしい! もしもですよ、卑弥子さんが 守貞親王のお母さんだとしたら、安徳天皇の身代わりに自分の幼い息子を差し出しますかァ~?

いいえ。。。 絶対にイヤでござ~ますわァ~。。。

でしょう!?。。。 だから、安徳天皇は本人が おばあちゃんと一緒に入水したのです。。。 そうでないと日本文学の素晴らしい『平家物語』が安っぽい話になってしまうのですよ。。。



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【卑弥子の独り言】


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ですってぇ~。。。

あなたは どう思いますか?

安徳天皇は壇ノ浦で入水せず、つまり、おばあちゃんだけが “ねんねこ”をかかえて、さも安徳天皇を抱くようにして、一人で入水したのだと信じている人たちも居るのですわよう。。。

それから、安徳天皇は平氏の残党に警護されて地方に落ち延びたと言うのでござ~ますわァ。

だから、九州や四国地方を中心に全国に20か所あまりの伝承地があるのですわよ。

では、高知県の山の中に墓があるというミステリーをご覧くださいませぇ~。。。


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上のクリップを観てあなたはどう思いましたか?

話は変わりますけれど、あたくしは“平成の紫式部”と呼ばれているのでござ~ますわァ。

うふふふふふふ。。。

ええっ。。。 信じられないってぇ~。。。?

じゃあ、『卑弥子の源氏物語』を お読みくださいませぇ~。。。


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『卑弥子の源氏物語』

どうですか? あたくしが “平成の紫式部”だと納得がゆきましたか?

ええっ。。。 ちょっと納得がゆかないのでござ~ますかァ?

でも こう見えても 一応 京都の女子大学で腐女子たちに「日本文化と源氏物語」を講義しているのでござ~ますわァ。

ただし、なかなか あたくしの魅力を認めてもらえないのでござ~ますう。

つまり、結婚相手が 現れないのですわァ。

この際 高望みはいたしません。

“寅さん”のような人でもいいですわ。

旅に出ていることが多いので 手がかからないと思うのでござ~ますう。

ついでだから、寅さんの映画でも見て、希望をつなごうと思います。

“袖触れ合うも他生の縁”と申します。

あなたも 一緒に寅さんのYouTubeでも見てくださいねぇ~。。。


(tora019.jpg)



ちなみに、紫式部のお話も面白いですけれど、古代のお話も心にしみますわァ。

たまには、日本の古代史の記事も読んでくださいませぇ。

そういうわけで あなたのために平安史、古代史の記事を用意しました。

ぜひ 覗いてみてくださいね。

天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。
 

天智天皇は暗殺された 

定慧出生の秘密 

藤原鎌足と長男・定慧 

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?


今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?


マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?


とにかく、次回も興味深い記事が続きます。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
じゃあ、またねぇ~。。。


(hand.gif)


ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
(30june.jpg)


(surfing9.gif)



(sayuri5.gif)

ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。

卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。



(hama10.jpg)

『ハマグリにハマる』

『ハマグリの誘惑』

『ハマグリの足跡を追って』

『芭蕉と遊女』

『光源氏もビックリ』

『エロエロ源氏物語』

『悲痛の紫式部』

『卑弥子のえっち』

『白妙の和歌を探して』

『キーワード診断』

『紅のボート難民』

『ん?ネトウヨ』


(miya08.jpg)

『下衆のかんぐり』

『桓武天皇のママがネットで』

『ござが天皇とGOOGLE』

『エロ 建礼門院』

『一敗が三人に!』

『行田の黒い霧をはらう』

『ペルシャ人が飛鳥に』

『小柴垣草子』

『後白河上皇ダントツ』

『ブスと美人』

『エロい話が好き?』

『死んでも生きてる』

『失意の太田将宏』


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『オルフェと聖徳太子』

『源氏物語とおばさんパンツ』

『霊仙はなぜ毒殺されたの?』

『紫式部が地獄へ』

『破戒僧円載』

『アショーカ王の愛と苦悩』

『どら平太の世界』

『三四郎とデンマンさん』

『ヒトラーの姪』

『ゴヤと三島由紀夫』

『仏陀とキリストと娼婦』


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『ズロースと戦争』

『伊藤若冲ブーム?』

『ブッダと物理学』

『加藤清正ブーム?』

『愛憎と三輪山』

『松原智恵子 お尻ペンペン』

『坂本龍馬は流れ者か?』

『野ざらし』

『紫式部堕獄説』

『日本最古のポルノ?』

『源氏物語の性描写』

『寅さんの本棚と急行まつしま』

『ヒトラーは草食系?』

『ブッダとキリストと娼婦』

『顔文字とオナラ』

『宝暦の恨みを明治維新で』

『デウキと紅葉@行田』

『薄い陰毛と紅のボートピープル』

『江戸の閨房術』

『ずるがしこい現代人』

『春画@源氏物語』

『千早振る』

『あれっ、松本清張』

『キスと源信』

『伎楽は呉から…?』

『紺瑠璃杯に魅せられて』

『神聖娼婦 マリア』



軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
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宝暦の恨みを明治維新で


 

宝暦の恨みを明治維新で

 


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デンマンさん。。。 どういうわけで“宝暦の恨みを明治維新で”というタイトルにしたのでござ~♪~ますのォ~。。。?


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あのねぇ~、たまたま夕べ バンクーバー市立図書館で借りた本を読んでいたら次の箇所に出くわしたのですよ。。。


宝暦治水


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中部地方には、「木曽三川」といわれる河川(揖斐川・長良川・木曽川)がある。

これらの河川は、岐阜県海津市あたりできわめて近接して流れており、昔はそれぞれの河川で洪水があるたびに、流路をまたがって流れたため、一流域で大雨が降ると、それが全下流域に及ぶといった被害がたびたび発生した。

そこで、江戸幕府は、この三川の近接部をきちんと分流することとし、木曽川は木曽川の流路、長良川は長良川の流路、揖斐川は揖斐川の流路になるよう、三川を分離する治水工事を実施することにした。

島津藩に御手伝い普請を命じて行わせたこれは「宝暦治水」(1754年~1755年)と呼ばれている。

この工事はきわめて何工事であったため、多数の島津藩士が病死したり自害したりした。

また、予想外の費用がかかったことから、工事責任者であった島津藩家老の平田靱負は、工事完了時に切腹して責任を取った。



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しかし、江戸時代の技術力ではこの三川を分離することは不可能だった。

木曽三川が完全に分流され今日の姿になったのは、明治以降の治水努力の成果なのである。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)


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74-76ページ 『国土が日本人の謎を解く』
著者: 大石久和
2015(平成27)年9月16日 第5刷発行
発行所: 株式会社 文藝春秋




この部分を読んで、僕が中学生の時の歴史の時間に先生が言った事を思い出したのですよ。。。



つまり、歴史の先生が“宝暦の恨みを明治維新で”と言ったのでござ~ますかァ~?

そうなのです。。。 この部分を読まなかったら、その歴史の先生のことなど思い出すことはなかったでしょうねぇ~。。。

。。。で、その先生のお名前は。。。?

それが、全く記憶にない。。。 思い出そうとしても思い出せない。。。 ところが、上の「宝暦治水」を読んだら、その先生の言った事だけは鮮やかに思い出されたのですよ。。。 その先生の姿や行田中学2年の時の教室までも はっきりと思い出すことができた。。。 不思議と言えば不思議ですよ。。。

デンマンさんは、中学生の頃から歴史に興味があったのでござ~ますかァ~?

好きでしたねぇ~。。。 好奇心を刺激されました。。。 それに、その先生も歴史にハマッていたのですよ。。。 かなり熱のこもった授業でした。。。

。。。で、この「宝暦治水」というのは、江戸幕府が島津藩の恨みを買うほどのひどい工事だったのですか?

それは、それは、ひどい工事だったのですよ。。。


宝暦治水事件


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宝暦治水事件(ほうれきちすいじけん、ほうりゃくちすいじけん)は、江戸時代中期に起きた事件。
幕命によって施工された木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)の治水事業(宝暦治水)の過程で、工事中に薩摩藩士51名自害、33名が病死し、工事完了後に薩摩藩総指揮の家老平田靱負も自害した。

宝暦治水とは、江戸時代の宝暦年間(1754年(宝暦4年)2月から1755年(宝暦5年)5月)、幕命により薩摩藩が行った治水工事。
濃尾平野の治水対策で、木曽川、長良川、揖斐川の分流工事。三川分流治水ともいう。

木曽川・長良川・揖斐川の3河川は濃尾平野を貫流し、下流の川底が高いことに加え、三川が複雑に合流、分流を繰り返す地形であることや、小領の分立する美濃国では各領主の利害が対立し統一的な治水対策を採ることが難しかったことから、洪水が多発していた。
また、美濃国側では尾張藩の御囲堤より3尺(91cm)以上低い堤しか作ってはいけなかったとする伝承もある。

1735年(享保20年)、美濃郡の代官であった井沢為永(井沢弥惣兵衛)が三川の調査の上で分流工事を立案したが、この時はあまりに大規模な案であり、財政難の幕府の許可が下りなかったとされる。
このとき立案された計画が後に宝暦治水に利用されたと言われているが、確たる証拠はない。
ただし、それ以前も以降も輪中地域の住人は三川分流を幕府へ度々願い出ていた。

幕府は延享4年(1747年)に二本松藩主丹羽高庸に対し、井沢の案を規模縮小した形で御手伝普請として治水工事を命じたが、これが完成してもなお抜本的解決にはなり得なかった。

時代が下るにつれて木曽三川流域は土砂の堆積や新田開発による遊水地の減少により洪水による被害がさらに激化していった。
1753年(宝暦3年)12月28日、第九代将軍徳川家重は薩摩藩主島津重年に手伝普請という形で正式に川普請工事を命じた。
この普請は幕府の指揮監督の下、薩摩藩が資金を準備し人足の動員や資材の手配をする形態であった。
また地元の村方を救済するため、町人請負を基本的に禁止して村請により地元に金が落ちる方針を取った。

1754年(宝暦4年)1月16日薩摩藩は家老の平田靱負に総奉行、大目付伊集院十蔵を副奉行に任命し、藩士を現地に派遣して工事にあたらせた。
度々水害に見舞われ貧窮する輪中地域の住民を労働に当てて救済する目的もあり、通常の公儀普請に比べて割高な賃金を工事に関して経験や技術の乏しい地元住民に支払うことを余儀なくされた。
また、工事が進んでいたところを水害に見舞われ工事済みの部分が破壊されることもあった。
さらに見試し工法によって工事が進められたため、工事の設計が途中で変更されることがしばしばあったことにより当初予想されたよりも大量の費用が必要となった。

宝暦治水は設計、計画は幕府によって行われるお手伝い普請であり、幕府側の総責任者は勘定奉行一色政沆、監督者として水行奉行高木新兵衛が命じられている。
高木は自家の家臣のみでは手に余ると判断し、急遽治水に長けた内藤十左衛門を雇っている。

事件概要

当時すでに66万両もの借入金があり財政が逼迫していた薩摩藩では、工事普請の知らせを受けて幕府のあからさまな嫌がらせに「一戦交えるべき」との強硬論が続出した。
財政担当家老であった平田靱負は強硬論を抑え薩摩藩は普請請書を1754年(宝暦4年)1月21日幕府へ送った。

同年1月29日には総奉行平田靱負、1月30日には副奉行伊集院十蔵がそれぞれ藩士を率いて薩摩を出発。
工事に従事した薩摩藩士は追加派遣された人数も含め総勢947名であった。

同年2月16日に大坂に到着した平田は、その後も大坂に残り工事に対する金策を行い、砂糖を担保に7万両を借入し同年閏2月9日美濃に入った。
工事は同年2月27日に鍬入れ式を行い着工した。

最初の犠牲者

1754年(宝暦4年)4月14日。薩摩藩士の永吉惣兵衛、音方貞淵の両名が自害した。
両名が管理していた現場で3度にわたり堤が破壊され、その指揮を執っていたのが幕府の役人であることがわかり、その抗議の自害であった。

以後合わせて61名が自害を図ったが平田は幕府への抗議と疑われることを恐れたのと、割腹がお家断絶の可能性もあったことから自害である旨は届けなかった。
また、この工事中には幕府側からも、現場の責任者が地元の庄屋とのもめ事や、幕府側上部の思惑に翻弄されるなどして、内藤十左衛門ら2名が自害している。
さらに、人柱として1名が殺害された。


幕府側は工事への嫌がらせだけでなく、食事も重労働にも拘らず一汁一菜と規制しさらに蓑、草履までも安価で売らぬよう地元農民に指示した。
ただし経費節減の観点から普請役人への応接を行う村方に一汁一菜のお触れを出すことは当時は普通のことであった。

赤痢

1754年(宝暦4年)8月には薩摩工事方に赤痢が流行し、粗末な食事と過酷な労働で体力が弱っていた者が多く、157名が病に倒れ32名が病死した。

1755年(宝暦5年)5月22日工事が完了し幕府の見方を終え、同年5月24日に総奉行平田靱負はその旨を書面にして国許に報告した。
その翌日5月25日早朝美濃大牧の本小屋で平田は割腹自殺した。


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辞世の句は以下のとおり:


住み馴れし
 

里も今更
 

名残にて、
 

立ちぞわずらう
 

美濃の大牧

 


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薩摩藩が最終的に要した費用は約40万両(現在の金額にして300億円以上と推定)。

大坂の商人からは22万298両を借入。
返済は領内の税から充てられることとなり、特に奄美群島のサトウキビは収入源として重視され、住民へのサトウキビ栽培の強要と収奪を行った。
現地では薩摩藩への怨嗟から「黒糖地獄」と呼ばれた。

その後

この工事は一定の成果を上げ、治水効果は木曽三川の下流地域300か村に及んだ。
ただし長良川上流域においては逆に洪水が増加するという問題を残した。
これは完成した堤が長良川河床への土砂の堆積を促したためと指摘されている。

薩摩藩では治水事業が終了したあとも現地に代官を派遣したが後に彼らは尾張藩に組み込まれている。
その後、近代土木技術を用いた本格的な治水工事は、明治初期に「お雇い外国人」ヨハニス・デ・レーケの指導による木曽三川分流工事によって初めて行われた。

1900年(明治33年)の分流工事完成時に、宝暦治水碑が千本松原南端に建てられている。
1938年(昭和13年)には、平田靱負ら85名の薩摩藩士殉職者を、「祭神」として顕彰するために『治水神社』(所在地:岐阜県海津市海津町油島(旧海津郡海津町))が建立された。

岐阜県と旧薩摩藩の大部分を継承する鹿児島県は、これが縁で1971年(昭和46年)7月27日に姉妹県盟約を締結しており、両県は、県教育委員会同士の交流研修として、お互いの県に小中高校教員を転任させている。
2007年(平成19年)より岐阜県では他県への教職員派遣を止める事にしたが、鹿児島県のみ継続している。
鹿児島県で発生した平成5年8月豪雨の際は岐阜県より復旧支援の土木専門職員が派遣され支援に当たった。
岐阜県海津市と鹿児島県霧島市は、これが縁で友好提携を結んでいる。




出典: 「宝暦治水事件」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




そもそも、なんで とんでもなく遠い鹿児島にある島津藩が岐阜の治水工事を命ぜられたのござ~ますかァ?



あのねぇ~、18世紀の中頃、島津藩は琉球との貿易によって財力を得ていたのですよ。。。 だから、徳川幕府のお偉方は、島津藩を恐れていた。

つまり、島津藩が財力に物を言わせて 幕府に抵抗して謀反を起こすと考えたのでござ~ますかァ~?

そうですよ。。。 いつの時代にもスパイが活躍しているのです。。。 そのスパイが幕府のお偉方に“島津藩に注意せよ!”と告げ口するわけです。。。

でも。。。、でも。。。、上の説明によると、工事を命令された当時、島津藩はすでに66万両もの借入金があり財政が逼迫していたというではござ~ませんかァ!

でもねぇ~、幕府としては、スパイの言うことを信じるわけですよ。。。 事実、島津藩は琉球と密貿易をしていたのだから。。。

要するに、幕府のお偉方は島津藩の密貿易の証拠を握っていたわけですわねぇ~。。。

そういうことです。。。 だから、幕府の命令を 島津藩は断固として断るわけにはゆかなかったのですよ。。。

でも、島津藩からすれば、“嫌がらせ”以外の何物でもないわけですよねぇ~。。。

そうです。。。 幕府のお偉方だって、うすうす島津藩の台所事情が良くない事ぐらい知っていたはずです。。。 でもねぇ~、この際、島津藩の財力を ごっそりとそぎとってやろうという意地悪な気持ちが頭をもたげたのですよ。。。 島津藩が貧乏になれば、幕府のお偉方は枕を高くしてグッスリと眠れるわけだから。。。

つまり、わざと難工事を島津藩に押し付けたわけでござ~ますかァ?

島津藩の財力を弱らせるには、一番それが手っ取り早い方法だからですよ。。。 だから、工事費用は島津藩が全額負担とした。。。 それに加えて幕府は、大工などの専門職人を一切雇ってはならないと命令した。

どうして、そういう命令を出したのでござ~ますかァ?

専門職人がいなければ、所々でミスをやらかすわけですよ。。。 そうなれば、幕府はやり直しを命ずることができる。。。そうなれば、ますます島津藩はお金を使うことになる。。。

そうやって、イジメながら島津藩を貧乏にするためなのですかァ~?

そういうことです。。。 幕府のやり方は マジで汚いのですよゥ。

工事に携(たずさ)わった島津藩士はアタマにきたでしょうねぇ~?

当然でしょう!。。。 僕が島津藩家老の平田靱負ならば、絶対に我慢できませんよ。

デンマンさんならば、どうなさるのですかァ~?

琉球は幕府には内緒で清国とも密貿易をしていた。。。 もちろん、その事は公然の秘密だった。。。 だから、僕が島津藩家老の平田靱負ならば「そのような無理を幕府が我が藩に課するならば、我が藩は清国と琉球と共同戦線を組んで幕府と一戦を構える覚悟です」と幕府の重役たちに言いきかせますよ。。。

つまり、脅(おど)しをかけるのでござ~ますか?

当たり前でしょう!

18世紀の中ほどにデンマンさんが島津藩に生きていなくて良かったと思いますわァ。。。 もし、それが現実になったら、日本の歴史は変わっていたでござ~ましょうねぇ~。。。

だいたい、幕府のやり方が汚すぎるのですよ。。。 幕府のやり方は露骨な弾圧ですよ!。。。 島津藩が恨みに思うのも もっともです。。。 とにかく、平田靱負は、平和を愛する人だったに違いないのです。。。 我慢に我慢を重ねた。。。 40万両にも上る工事費用を捻出するため大坂豪商から借金を重ね、幕府へもたびたび専門職人の雇用許可を要請した。

許可がおりたのでござ~ますかァ?

もちろん、幕府は度重なる願い事もすべて退けたのですよ。。。 むちゃくちゃですよ。。。 しかも、工事のやり直しを命じることがしばしばだった。。。 だから、工事に派遣された薩摩藩士達の過労や伝染病による死亡が相次ぎ、また幕府に抗議して切腹する薩摩藩士達も続出した。

ちょっとひどいですわよねぇ~。。。

だから、幕府の監視役の中からも、島津藩に同情する良心的な人物までが出てきた。。。

あらっ。。。 マジで。。。?

薩摩藩に同情して抗議の切腹を行う幕府の監視役の武士が二名いたのですよ。。。

あらっ。。。 感動させるエピソードですわァ~。

ところが、平田靱負は、あくまでも平和を愛する人物のようです。。。 切腹した島津藩士が 51人も出たというのに、幕府との摩擦を回避するため、切腹した藩士たちを事故死として処理していたのですよ。。。

それで、最終的に工事が終わった時点で、平田靱負は50歳で切腹して果てたのでござ~ますか?

そうなのです。。。 分流工事は着工より1年3ヶ月ほどでようやく完成したのだけれど、平田靱負は藩への多大な負担の責任を取って自害した。。。 さらに、島津藩主の島津重年も心労で、後を追うように翌月に27歳で病没しているのです。

マジで。。。?

ところが、この話の元になっている史料は、昭和29年に発行された「宝暦治水と薩摩義士」という書物なのですよ。。。 でもねぇ~、それ以前の史料には平田靱負が自害した記録が無いとされている。

あらっ。。。 それってぇ、どういうわけでござ~ますか?

それどころか「島津氏世録正統系図」には、「平田は昨年から病気でいまだ回復せず、さらに胃を病んで5月24日数度吐血し、25日死す」と書かれている。

あらっ。。。 じゃあ、「平田靱負が藩への多大な負担の責任を取って自害した」というのは、創作された美談なのでござ~ますか?

ただし「同時代の公式記録に自刃という出来事を載せない」という慣習が島津藩にはあったという歴史家もいるのですよ。。。

真相はどうなのでござ~ますか?

あのねぇ~、島津藩主の島津重年が心労で、27歳の若さで亡くなってしまったのですよ。。。 そのことを考えれば、50歳の平田靱負も、工事が終了したときには、病気で棺桶に片足が入っていたとしてもおかしくない。

つまり、平田靱負の死を無駄にしないために、「平田靱負が藩への多大な負担の責任を取って自害した」という美談に仕立て上げたのでござ~ますか?

僕は、そうだと思います。。。 そうすることにより、島津藩が長州藩と一緒に弾圧政府の江戸幕府を倒して明治維新を断行したという正当な理由にしたと思うのですよ。



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【卑弥子の独り言】


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ですってぇ~。。。
あなたは、どう思いますか?

確かに、江戸幕府のやり方はひどすぎたのでござ~ますわァ。
遅かれ早かれ、幕府は倒されて近代日本が生まれるのは宿命だったのかもしれませんわねぇ~。。。

ところで、個人的なことになりますけれど、あたくしは“平成の紫式部”と呼ばれているのでござ~ますわァ。

ええっ。。。 信じられないってぇ~。。。?

じゃあ、『卑弥子の源氏物語』を お読みくださいませぇ。。。


(genjiero4.jpg)

『卑弥子の源氏物語』

どうですか? あたくしが “平成の紫式部”だと納得がゆきましたか?

ええっ。。。 ちょっと納得がゆかないのでござ~ますかァ?

そうでしょうねぇ~。。。 あたくしだって、デンマンさんの お話を聞いていて なんとなく 騙されているような気になるのですものォ~。。。 

でも こう見えても 一応 京都の女子大学で腐女子たちに「日本文化と源氏物語」を講義しているのでござ~ますわァ。

ただし、なかなか あたくしの魅力を認めてもらえないのでござ~ますう。
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旅に出ていることが多いので 手がかからないと思うのでござ~ますう。

ついでだから、寅さんの映画でも見て、希望をつなごうと思います。

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あなたも 一緒に寅さんのYouTubeでも見てくださいねぇ~。。。


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ちなみに、紫式部のお話も面白いですけれど、古代のお話も心にしみますわァ。
たまには、日本の古代史の記事も読んでくださいませぇ。

そういうわけで あなたのために平安史、古代史の記事を用意しました。
ぜひ 覗いてみてください。

天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。
 

天智天皇は暗殺された 

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とにかく、次回も興味深い記事が続きます。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
じゃあ、またねぇ~。。。


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ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。

卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
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『ござが天皇とGOOGLE』

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『一敗が三人に!』

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『小柴垣草子』

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『失意の太田将宏』


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軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
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大奥女中の淫らな恋

 

大奥女中の淫らな恋

 


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大奥女中の淫らな信仰


(tsukioka1.jpg)

新撰東錦絵 延命院日当話 [明治18年 (1885)]

大奥の信仰厚い延命院の僧・日当(史実では日道)は

多くの女中と関係していた。


(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




126-127ページ 『衝撃の絵師 月岡芳年』
執筆者: 平松洋
2011年8月16日 第2刷発行
発行所: 株式会社 新人物往来社





(merange12.jpg)

デンマンさん。。。、 あんさんは どういうわけで淫らなタイトルを付けはったん?


(kato3.gif)

あのなァ~、実は夕べ、バンクーバー市立図書館で借りていた本を見ていたら上の絵が目に留まったのやがなァ~。。。

つまり、あんさんは“淫らな恋”に興味があるのォ~。。。?

別に、淫らな恋に興味があるわけではあらへん。。。

それやのに、どないなわけで、上の絵を取り上げる気になりはったん?

冒頭の絵を見たときに、何やセクシーやなあああァ~というかァ。。。 妖艶というかァ~。。。 いかにも江戸時代の艶(なまめ)かしい女を 実によく描いているなあァ~、と感心したのやがなァ~。。。

つまり、あんさんは江戸時代にタイムスリップしたら、このような薄っぺらな女と寝床を共にしやはるのォ~。。。?


(tsukioka1b.jpg)



めれちゃんには、上の女が薄っぺらな女に映るのかァ~。。。?



そやかてぇ、あんさんがコラージュしてデッチあげた わたしのピンアップ写真と比べたら、どのように見ても薄っぺらに見えますやん。。。


(renge00e.gif)



う~♪~ん。。。 確かに、上の写真と比べれば、江戸時代の女は薄紙にべったりと書いたように見えるわなァ~。。。 そやけど、江戸時代の女の しどけない格好が、セクシーやと思うねん。。。



わたしには、なんとのう だらしなさそうな尻軽女に見えますわァ~。。。

それは、男の見方と女の見方の違いやと思うねん。

つまり、あんさんは この江戸時代の女に惹かれなはったん?

そうやがなァ~。。。、実は、それよりも大奥の信仰厚い延命院の僧・日当(史実では日道)は多くの女中と関係していたという事実に興味を持ったのやがなァ~。。。

要するに、あんさんは江戸時代にタイムスリップしやはったら、坊さんに成りすまして 大奥の女中をナンパしやはるつもりやのォ~?

めれちゃんは、何も知らないような表情を浮かべながら 男の心の奥底まで グサッと突っ込んでくるのやなァ~。。。

あんさん!。。。 そないな やわな気持ちでおったら、ナンパなどできしまへんでぇ~。。。

さよかァ~。。。 とにかく、わては その色恋事件を調べてみたのやがなァ~。。。


延命院


(enmei01.jpg)

延命院(えんめいいん)は、東京都荒川区にある日蓮宗の寺院。
山号は宝珠山。
本尊は大曼荼羅。
旧本山は大本山妙顕寺。

慶安元年(1648年)日長の開山により創建され、江戸幕府旗本小堀政貞の生母で江戸幕府4代将軍徳川家綱の乳母三沢局の帰依を得て堂宇が改修された。
この寺にある七面大明神(七面天女)は、慶安3年(1650年)に造られた。

文化財として東京都指定天然記念物の「延命院の大シイ」がある。



 

延命院事件

 


(enmei02.jpg)

徳川家斉の時代、西の丸大奥の御中臈・梅村の部屋方であった「ころ」という奥女中が、大奥に入る以前から延命院の元歌舞伎役者の僧侶日道と交際し、日道が奥女中と密接な関係を作る手助けをした。

享和年間この寺に来山した日道は美貌の持ち主で幕府の奥女中らと関係を持ったことから寺社奉行脇坂安董に摘発され、享和3年(1803年)死罪に処せられた。

日道は「日月享和政談」(河竹黙阿弥)での延命院「日当」のモデルとなった。

「ころ」と日道の関係も、のちに発覚して捕えられ、「ころ」は大奥を追われた。

(注: 赤字はデンマンが強調。
写真はデンマン・ライブラリーより
読み易くするために改行を加えています)




出典: 「延命院 (荒川区)」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




つまり、“大奥”という所は 男心をくすぐるというかァ~、男の妄想をたくましゅうさらすのですやん。。。



めれちゃんは、何も知らないような表情を浮かべながら 男の心の奥底まで グサッと突っ込んでくるのやなァ~。。。 もしかして細木数子の弟子やったんとちゃうかァ~。。。?

そないな事よりも 元歌舞伎役者がどないなわけで延命院の僧侶になりはったん?

“坊主と乞食は三日やったらやめられない”と昔の人は言うったやないかいなァ~。。。

つまり、喰えない歌舞伎役者やったさかいに、坊主になることに夢を抱いていた、とあんさんは言わはるのォ~?

この元歌舞伎役者の僧侶・日道は、決して喰えないほどの大根役者やなかった。。。 なにしろ、初代尾上菊五郎の忘れ形見だと言われるほどの美男子やったらしい。

つまり、役者稼業よりも坊さんになることを選んだわけやねぇ~。。。

そういうことやなァ~。。。 もともと役者が肌に合わんかったのやろなァ~。。。

それが、どないなわけで、奥女中と関係するようになりはったん?

あのなァ~、江戸時代には、異性と交わるのが許されていない職業がふたつあったのやァ~。。。 ひとつは江戸城や大名屋敷の奥勤めの女中。 もうひとつは坊さんやァ。。。 奥女中は江戸城だけでおよそ3000人。 江戸に屋敷を置く約270藩の大小名の奥女中の人数は 平均30人としても、およそ8000人。 合計すれば1万人を越えているねん。。。 この女性たちは異性と交わることを禁じられておったのやがなァ~。。。

可哀想やねぇ~。。。

めれちゃんには、とても奥女中はつとまらんやろなァ~。。。 うしししししし。。。

なして、あんさんは そないな事を言わはるのォ~。。。?

そやかて めれちゃんは つぎのような熱い思いを短歌に詠んでいたのやでぇ~。。。


くちづけ

 


(kiss003.gif)

 

罪深き

ことと知りつつ

この夜も

きみのくちづけ

もとめて止まぬ


 


(merange52.jpg)

 

by めれんげ

2009.01.14 Wednesday 14:21




『即興の詩 冬枯れ』より

(旧『即興の詩』サイトは閉鎖されました)

『めれんげさんと六条の御息所』に掲載
(2010年2月12日)




何も知らへんネット市民が上の短歌を読んだら奥女中の女が詠んだものと思うてしまうでぇ~。。。



つまり、あんさんは わたしが奥女中の女のように日頃から熱い恋の血潮に悩まされている、と思うていやはるのォ~?

そやかて、めれちゃんは“平成の与謝野晶子”なんやでぇ~。。。

それは、あんさんが勝手に言うてるだけですやん。。。

いや。。。 今やネットでは めれちゃんが“平成の与謝野晶子”である事が知れ渡っているねんでぇ~。。。

ホンマかいなァ~。。。?

信じられへんのやったら次の検索結果を見てみィ~なァ~。。。


(gog60826a.png)

『現時点での検索結果』



「平成の与謝野晶子」と入れてGOOGLEで検索したのやがなァ~。。。 赤枠で囲んだタイトルをクリックすると めれちゃんがちゃんと記事の中に出て来よるのやでぇ~。。。


(yosa22.jpg)

『平成の与謝野晶子』



緑の枠で囲んだ写真をクリックすると次にページが出てくるのやがなァ~。。。


(gog60826b.png)

『実際のページ』



上のページの赤丸で囲んだ Visit page をクリックすると、やっぱり わての『徒然ブログ』の『平成の与謝野晶子』が出てきよるねん。。。


(yosa10.jpg)

『平成の与謝野晶子』



さらに 青枠で囲んだタイトルをクリックすると次のページが出てきよるのやでぇ~。。。


(twi60826a.png)

『実際のページ』



要するに、あんさんが勝手に わたしを“平成の与謝野晶子”としてネットで広めてるのですやん。。。



あきまへんかァ~。。。?

アッカ~♪~ン!。。。 そんな事よりも、奥女中の話は、どうなりましたん?

そやから、奥女中のほとんどは、めれちゃんのように熱い恋の血潮に、夜毎に ムンムン、ムレムレしてるねん。。。 うしししししし。。。

そのような下卑た笑いを浮かべんで欲しいねん。。。 あんさんかてぇ、女性と交わることのできない坊さんなどには、絶対になりませんやろう?

いや。。。、わては“仏のデンマン”と言われているさかいに、別に坊さんになっても ええねんでぇ~。。。

あんさんには無理やわァ~。。。

とにかく、異性と交わることを禁じられた女性たちが江戸には1万人近く居たのやがなァ~。。。 いっぽう、僧侶の数は文化12(1815)年の江戸の人口調査では2万6090人という記録が残っているねん。。。 宗旨で妻帯を認めている浄土真宗を例外として、約2万人の坊さんは、女性と交わることが戒律によって禁止されていたのやァ。

つまり、1万人を越える奥女中がいる。。。 そして片方には女性と交わるのを禁じられている、2万人を越える坊さんがいるということやねぇ~。。。

そういうこっちゃがなァ~。。。 

。。。で、奥女中と、その坊さんが出会う機会があったわけやねぇ~。。。

そうやァ~。。。、幕府は奥女中と坊さんにセックスを禁じておきながら、奥女中の寺参りを公認していたのやがなァ~。。。。 奥女中が「奥」と呼ばれる御殿から外の世界に出られるのは、親兄弟の病気見舞いや葬式と、信心のための寺参りだけやった。。。


(ooku002.jpg)



それで大奥女中の淫らな信仰が広まるわけやねぇ~。。。



そうやァ~。。。 親兄弟の病気や葬式は、そう何度もあるわけじゃない。。。 となれば、先祖の墓参りだの、信心のためだのという名目をつけて、寺参りにゆくわけやなァ~。。。 性に飢えている奥女中が、これも飢えている坊さんの許に出かける。 一度ならず、再々出かければ、歌の文句じゃないけれど、「こうして、ああすりゃ、こうなるよ……」というわけになるねん。。。 うへへへへへ。。。

下卑た笑いなど浮かべんで、その先を話しなはれぇ。。。

奥女中と、坊さんが隠れて ふんずほぐれず シコシコと濡れていたのやがなァ~。。。 そやけど、悪い事は長くは続かん。。。 


(genji903.jpg)



享和3(1803)年、「延命院で何か可笑しい事が行われている」という噂が流れるようになったのやがなァ~。。。 延命院に多数の奥女中が出入りしていて、御乱交らしいという評判がついに寺社奉行の耳に達してしまったのやァ~。。。 さあたいへん。。。



。。。で、どうなりはったん?

寺社奉行の耳にはいれば、無視するわけにもゆかん。。。 寺社奉行の脇坂淡路守安董(やすただ)は真面目な人やったァ。。。 判決文によると、日道は延命院の住職だったにもかかわらず 60人ほどの女性と肉体関係を結んでいたと言うねん。。。 

同時並行やったん。。。?

そういうこっちゃァ。。。 そやけど、日道を目当てに延命院に来る女性は60人ではきかなかったのやがなァ~。。。 自分だけでは世話しきれへん。。。 それで寺僧や知り合いの歌舞伎役者にまで相手をさせていたと言うねん。

そらそうやねぇ~。。。 60人の女性をお相手すると、毎日、2人の女性を相手にすることになりますやん。。。 あんさんでなくても、日道さんにとっては、しんどかったと思いますわァ~。。。

そうやろなァ~。。。 わてかて よう続かんと思うわァ~。。。 (微笑)

。。。で、裁判の結果どうなりはったん?

1803年6月24日に延命院に捜査の手が入り、日道さんの身柄は拘束され、取り調べをうけて、起訴され、有罪となり、日本橋の橋詰で晒されたのがなァ~。。。、そのあとで首をちょん切られた。。。 2ヶ月半ほどのスピード審理やったらしい。。。 次のような狂歌が出回ったそうやァ~。。。

 



(jbeauty7.gif)

 

延命院
 

ならば命は
 

延びように
 

短命院で
 

首はころころ

 


(dokuro3.gif)




(laugh16.gif)


【レンゲの独り言】


(manila07.gif)

ですってぇ~。。。
そうですわよねぇ~。。。

とにかく、大奥には性的に不満な女中がたくさん居て
その“はけ口”に 新入りのお女中たちをイジメまくったそうですわァ。


(ooku001.jpg)



そういうわけで、自殺者もたくさん出たそうですわ。。。

あなたも、もしかして自殺を考えているのではありませんか?
だったら、止めたほうがいいですわァ。。。

ええっ。。。 どうしてかってぇ~。。。?

昔の人は言いましたわ。

“死んで花実が咲くものか”

つまり、死んでしまったら、美味しいものが食べられないということですわ。
うふふふふふふ。。。

ところで、話は変わりますけれど、

かつて、めれんげさんの熱烈なファンがたくさんいたのでした。

でも、うっかり めれんげさんが会費を滞納したために、
サイトを削除されてしまったのですわ。

けれども、2013年の6月にライブドアで『即興の詩』サイトを再開しました。

めれんげさんの『即興の詩』サイト

再開して間もないのに 検索結果 3,960,000件中の 9位に躍り出るなんてすごいですよねぇ~。。。


(gog30703.gif)

『現時点での検索結果』

現在、めれんげさんは お休みしています。
でも、これからも、ブログを通して「愛のコラボ」を続けて欲しいですよねぇ~。。。

かつて めれんげさんの「即興の詩をはじめました!」の『極私的詩集』サイトは 次の検索結果で見るようにトップを占めていたのです。


(gog30928a.png)

でも、現在は、5位です。

また、ブログを更新して トップに返り咲いて欲しいものです。

ところで あなたは「どうしたら、上位に掲載されるのォ~?」と考えているかもしれません。

その秘訣を知りたかったらデンマンさんが面白い記事を書いていますわ。

次のリンクをクリックして読んでみてください。


(seo001.png)

『おばさんの下着に見るSEO』

話は変わりますけれど、めれんげさんは可愛い猫を飼っています。

あなたも、猫ちゃんを飼っていますか?

ええっ。。。 ワンワンちゃんを飼っているのですか?

そういえばデンマンさんが『ワンワンちゃん』という面白い記事を書いていました。

気が向いたら下のリンクをクリックして読んでみてください。


(dog202.jpg)

『ワンワンちゃん』

とにかく、次回も興味深い話題が続きます。

あなたもどうか、また読みに戻ってきてくださいね。

では、また。。。


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(surfing9.gif)

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こんにちはジューンです。

卑弥子さんが面白いお話を集めて

楽しいサイトを作りました。

次のリンクをクリックして

ぜひ覗いてみてくださいね。

■ 『あなたのための笑って幸せになれるサイト』

とにかく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょう。

じゃあね。バーィ



(beach02.jpg)


(byebye.gif)

白子屋お熊事件


 

白子屋お熊事件

 


(ken203b.jpg)


(ken303.jpg)


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(june001.gif)

デンマンさん。。。 どうして“白子屋お熊事件”に わたし呼び出したのですかァ~?


(kato3.gif)

もちろん、ジューンさんにも関係あるからですよ。。。 ちょっと次のリストを見てください。


(liv60604b.png)

『拡大する』



これはライブドアの6月1日から4日までの4日間の「リンク元URL」のリストですよ。。。 赤枠で囲んだ 1番と25番に注目してください。。。



あらっ。。。 GOOGLEで検索して デンマンさんの徒然ブログで『大岡越前とセックスと白子屋お熊事件』を読んだネット市民が この4日間に合わせて22人いたということですわねぇ~。。。 ダントツですわァ~。。。

そういうことです。。。 次の記事を読んだのですよ。


(liv70422e.png)

『実際の記事』



でも、どうしてわたしが“白子屋お熊事件”に関係しているのですか?



ジューンさんが上の記事の中に出てくるからですよ。

マジで。。。?

ジューンさんは、すっかり忘れてしまったのですねぇ~。。。 思い出すように、ここに書き出しますからジューンさんも しばらくぶりにじっくりと読んでみてねぇ~。。。



(hakuseki2.jpg)


(kato3.gif)

「ある時(新井白石は)母親に尋ねたそうだ。『母上、おなごというものは、一体いくつになるまで殿方と閨房にて睦み事をなさりたいと思うので御座いますか?』とね。実は、新井白石は、父が57歳、母が42才の時に生まれた子供だった。今日でさえ大変な高齢時の出産といわれる。だから、昔は40才過ぎた母親から生まれると“恥かきっ子”と呼ばれ、からかわれたりした。そういうわけで、白石の頭のどこかで、そのことが気になっていたのかもしれない」


(june001.gif)

「それでお母さんは何と答えたの?」

「それが昔のことだからね、母と息子がセックスの話などするなんてとても考えられない。お母さんも、わが息子が大真面目な顔して、そんなことを尋ねられたものだから、さぞかしビックリしたに違いない」

「それで?」

「お母さんは、どのように答えようかと困ってしまった。昔の女性のことだから、その年になってもポッと頬を染め、うつむいてモジモジと火鉢の中に眼をおとし、火箸で灰の中に『の』の字を書いた」

「それで?」

「『母上、いかがなもので御座いましょうか?』と、息子は返事をさいそくする。お母さんは、うつむいたままモジモジと灰の中に『の』の字を書く。そのうち、頭脳明晰な新井白石には、ハッと閃くものがあった」

「どういうこと?」

「新井白石はおじぎをすると、『ありがとうございました』とお礼を言った」

「答えてくれたの?」

「そうさ。ちゃんと答えた」

「なんと言って?」

「言葉にだしては何も言わなかった」

「分からないわ。どういうこと?」

「『この母ありて、この子あり』 頭脳明晰な新井白石のお母さんだから、やはり頭のよい人だった。お母さんは、ちゃんと仕草で答えを表していたんだ。白石はちゃんと気付いた。あとでお母さんの部屋から出ながら、口の中でつぶやいた。『灰になるまでか!』」

「あたし、まだ分からないわ。どういうこと?」

「ジューンさんは、こういう風習には、あまり馴染みがないかもしれないけれど、日本では、たいてい人が死ぬと遺体を焼くんだ。だから、『灰になるまで』とは、“死ぬまで”という意味だ」

「それ本当にあった母と息子の対話なの?」

「出どころをインターネットで調べたけれど、ついに分からなかった。でも僕と同じように、この話をどこかで聞いたとみえて、ページに載せている人がいた。そのひとのページにはこんな風に紹介されている」



(karesusuki.gif)

近代史解釈:

歴史は夜、つくられるとゆー

その昔、新井白石は母に問うた

「女性の性欲は、何時までありますか」

 .....灰文字
       



「それだけ?」



「そう。 この人のページにも、どこでこの話を聞いたのかは書いてない」

「デンマンさんはどこでこの話を知ったの?」

「若い頃、落語で聞いた覚えがある。 もし、どなたか出どころを知っていたら教えて欲しい」




『大岡越前とセックスと白子屋お熊事件』より
(2007年4月22日)




でも。。。、でも。。。、上のエピソードの中には“白子屋お熊事件”は出てこないではありませんか!



あのねぇ~、確かに上の話の中には“白子屋お熊事件”は出てこないのですよ。。。 でもねぇ~、上の記事の中には出てくる。

どのように。。。?

あのねぇ~、昔 “ワブログ (Wablog)”というブログがあったのですよ。。。 ちょうどライブドアのようなものです。。。 でもねぇ~、経営が悪化したのか。。。? それとも会社の方針なのか。。。? このブログは閉鎖されてしまった。

そのブログ・プロバイダーのサイトに、デンマンさんはブログを立ち上げたのですか?

そうです。。。 10年ぐらい前ですよ。。。 ネットで3年は一昔ですからねぇ~。。。 10年前というと、もう大昔ですよ。。。 (微笑) そのブログ・プロバイダーのサイトに立ち上げたブログの名前が『宇宙の摂理ブログ』というのです。

なんだか壮大な名前ですわねぇ~。。。

そうです。。。 そのブログでの当時の「キーワードランキング表」が次のリストですよ。


(wab70420.gif)



あらっ。。。 2007年の4月20日現在のランキングなのですわねぇ~。。。



そうです。。。 見れば解るように、この時ランキングの1位が「白子屋お熊事件」なんですよ。。。 僕は 名前だけは聞いた覚えがあったのだけれど、この事件について記事を書いた覚えがなかった。

でも。。。、でも。。。、他の記事の中に、この事件を引用したのではありませんか?

そうに違いないと僕も思ったのです。。。 それで、考えてみたのだけれど、たぶん「阿部定事件」の事を書いた時に、この事件を引用したと思いあたった。

。。。で、「白子屋お熊事件」というのは、どのような事件だったのですか?

確か。。。、金に目がくらんだ50代の女が栃木県鬼怒川のホテルオーナーを色仕掛けでおびき出して殺した。。。 そんな風にうろ覚えに記憶していたのですよ。。。 キーワードランキングで1位になるような事件だから、かなりショッキングな事件だったに違いない。。。 ところが、「白子屋お熊事件」というのは江戸時代に起こった事件だったのです。。。 ちょっと次の検索結果を見てください。


(gog60604a.png)

『現時点での検索結果』



「白子屋お熊事件」を入れてGOOGLEで検索すると上のような検索結果になるのです。



あらっ。。。 ライブドアのデンマンさんの『徒然ブログ』に掲載された記事『大岡越前とセックスと白子屋お熊事件』が9番目に出てくるのですわねぇ~。。。

そうです。。。 で、「白子屋お熊事件」というのは、 トップに出てくるウィキペディアの記事に書いてあるように、次のような事件なんですよ。


白子屋お熊事件

享保11年10月17日の早朝、就寝中であった新材木町の材木問屋「白子屋」の娘・くまの夫である又四郎が、白子屋の下女・きく(当時16歳)に頸部を剃刀で切りかかられて抵抗したところ、頭部に傷を負った。
又四郎の傷は浅く、きくを取り押さえた後助けを呼んだため、大事には至らなかった。

白子屋側は、又四郎の実家に示談を持ちかけたが、同家は又四郎・くま夫婦の不仲が噂になっていること、きくの犯行動機が不明であることから白子屋を怪しみ、10月20日に、町奉行所に事件の調査を訴え出た。
奉行所が下手人であるきくを取り調べたところ、きくはつねに犯行を教唆されたことを自白した。
きくの証言を得た奉行所が、つね・くま母子を問い詰めると、又四郎の殺害計画を自供した。

そもそもくまと又四郎の婚約は、当時資金繰りに苦しんでいた白子屋が、大伝馬町の資産家の息子であった又四郎の結納金目当てで取り決めたことであった。
くまは夫を嫌い、結婚後も古参の下女・ひさに手引きをさせて手代の忠八と関係を持っており、母のつねも娘の密通を知りながらこれを容認していた。

くまは離縁を望んでいたが、又四郎と離縁すれば金を返さねばならず、「又四郎を病死に見せかけて殺せば、金を返さず忠八と結婚できる」と考え、共に殺害計画を練るようになった。

最初は病死に見せかけた毒殺を計画し、出入りの按摩であった横山玄柳という盲人を騙して又四郎に毒を盛らせたが、彼は体調を崩すに留まり、死に至らなかった。
毒殺計画が失敗したことによって焦ったつねとくまは、きくを脅して又四郎に切りかかるように仕向けたが、これも前述の通り失敗して殺害計画が露見、白子屋の関係者は各々裁かれることとなった。

妻子の監督を怠り、世間を騒がした罪を問われた店主・庄三郎と、事件に加担した按摩の横山玄柳は江戸所払いとなり、下手人のきくは死罪、密通をそそのかした罪でひさは町中引廻しの上死罪、密通の罪で手代忠八は町中引廻しの上獄門、従犯のつねは遠島、主犯であるくまは密通と夫の殺害未遂という重罪を問われ町中引廻しの上獄門と仕置が下った。


(ken203b.jpg)

くまは結婚前から日本橋中でも美貌で知られており、引廻しの際は評判の美貌の悪女を一目見ようと沿道に観衆が押し掛けた。
裸馬に乗せられたくまは観衆の期待に応えるように、白無垢の襦袢と中着の上に当時非常に高価であった黄八丈の小袖を重ね、水晶の数珠を首に掛けた華やかな姿で、静かに経を唱えて落ち着いた様子であったという。

殺害が未遂に終わったとはいえ、主犯のお熊の美貌や処刑時の派手なパフォーマンスなどから江戸で大変な波紋を呼び、『近世江都著聞集』、『享保通鑑』、『兎園小説余録』、『江戸真砂六十帖広本』、『武江年表』などに事件が取り上げられている。




出典: 「白子屋お熊」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




あらっ。。。 ずいぶん 酷(ひど)い事件ではありませんかァ!



確かに、人間の醜さが、これでもか。。。、これでもか。。。、というように出ている事件ですよ。。。

。。。で、デンマンさんが勘違いした“50代の女が栃木県鬼怒川のホテルオーナーを色仕掛けでおびき出して殺した”という事件は、どのようなものだったのですか?

あのねぇ~、小林カウという女が起こした一連の事件なんですよ。。。 この小林カウという女も酷い女で 塩原温泉の“ホテル日本閣”で起こした事件がもとで、それまでの一連の事件が発覚したのです。。。 この温泉は、栃木県那須塩原市の塩原地区内にある温泉で、箒川沿いの谷間を中心に点在する11の温泉の総称なのです。。。

。。。で、その小林カウは、どのような女性なのですか?

「白子屋お熊事件」のお熊さんよりも ひどい女ですよ。


小林カウは1908年、埼玉県大里郡玉井村(現・熊谷市)の農家に生まれた。
カウの家は集落の中では旧家だったが、例によって貧窮な家庭だった。
カウは7人兄弟の5番目の次女。
小学校を4年で終えて、5年ほど家事を手伝い、やがて都会に憧れて東京・本郷の旅館に女中奉公に出た。

1930年、カウ22歳の時、熊谷の在に嫁いだ姉の口利きで、新潟県柏崎市出身の林秀之助(当時27歳)と見合い結婚した。
秀之助は身長160センチもない貧弱な体格で、青黒いような顔をした青年だった。
結婚してみると、秀之助は慢性胃腸病と慢性淋病の持つ主で、カウは性的にも満足が得られなかった。

夫婦で熊谷市中で雑貨商を営んでいた1931年、長男が誕生するがまもなく死亡。
その後、娘が誕生した。

そのうち商売がうまくいかなくなり、夫婦は熊谷を離れ、東京近辺を転々とした。
この間、戦争が本格化し、秀之助も兵隊にとられるが、体を壊して戻ってきた。
以来、秀之助は気力のない中年男になっていた。

戦争が終わると、夫婦は熊谷に家を建て、自転車のタイヤのブローカーをする傍ら、ゴム、米、砂糖などの禁制品も扱い始める。
またカウは内職で 菓子の五家宝づくりを手がけた。


(gokabo2.jpg)

さらに観光地向けの辛子漬や芋のつるの砂糖漬の土産物製造卸売りを始め、病みがちな夫に代わって、カウの働きで生計が支えられていた。
この頃からカウは金を稼ぐ楽しさを知り、物欲が強まっていった。

精力旺盛なカウは愛人づくりもマメであり秀之助はそれに気づいていたが黙認していた。

ある時、近くの交番の若い巡査が戸口調査簿を手に小林家に現れる。
この男の名は中村又一郎(当時25歳)。
独身ですらりとした男前だった。
闇物資を扱うカウの家では、この訪問は何か気味が悪い。

そこでカウはこの中村巡査に手厚いおもてなしをした。
中村は気をよくして、親しくカウの家を出入りするようになった。
当初、カウは中村を娘の婿に、と考えていた。
ところが欲望が満たされていくなかで唯一性的な満足がなかった40代の女と、おもてなしを好意と受け取った20代の男、そんな2人の関係ができあがってしまうのに時間はかからなかった。

2人の関係は続き、カウは中村と一緒になりたいと考える。
秀之助に「財産は何一ついらないから。暇をもらいたい」と頼んだが、聞き入れられなかった。

1952年10月2日、秀之助が突然異様な唸り声をあげて死んでしまった。
その声にびっくりした隣人が駆けつけると、カウは夫の死に顔を撫でていたという。
秀之助のかかりつけの医師は、保健所の医師立会いの元で脳出血と診断した。
カウ夫妻はたびたび派手な喧嘩をしていたことから、近所でもその死を疑う噂が流れたりしたが、熊谷署は捜査を打ち切った。

その後まもなく、カウは中村を家に引き入れて同棲を始める。
中村は以前からその行状が上司に知られており11月6日に懲戒免職となった。
しかし、そんな同棲生活も2年で終結する。
中村は母親ほどの女性に嫌気がさしたのか、カウを追い出し、若い娘と結婚したのだ。

やがてカウは 近県の温泉地をまわり、1954年、事件の舞台となった栃木県・塩原温泉郷に初めてやってきた。


(siobara3.jpg)

1956年春、カウはホテル明賀屋前の小店を一軒、1年分の家賃をポンと前払いして借り、「那珂屋物産店」の看板をあげた。
ここでカウは最初の一旗をあげた。

カウの商売魂はおさまらず、翌年春には隣りの店を買いとって、小食堂「風味屋」をひらいた。
店の売上は伸び、銀行預金を増やし、土地も買い、資産300万円ほどになっていた。
成功を手にしていながら、カウはさらに上を見る。

そして「温泉宿をひとつ持ちたい」と思うようになった。
旅館の仕事ならば女中奉公のキャリアがあるし、女主人はカウの理想であるステイタスだった。

1958年秋、カウは「ホテル日本閣」が安値で売りに出ていることを知る。
ホテル日本閣は名前こそ立派だが、実際は三流クラスの小旅館だった。
この日本閣が経営不振で3、400万円で投げ出すという噂があり、カウは飛びつくように交渉した。
しかし、主人である生方鎌助は まるで売る気はなく、話はいったん立ち消えた。

生方鎌助は温泉番頭などを経て、1957年春、ホテル日本閣の看板を掲げた。
しかし、やや強引に開業してしまったために温泉組合からはじき出され、引き湯の権利がとれなかった。
自費で送湯管を敷いたが湯が冷えて、ボイラーで沸かしなおした。

当然ながら、経営は厳しく、閑古鳥はなくばかりだった。
鎌助はおかげで一時気がおかしくなり、宇都宮の精神病院に入院した。
1958年夏に退院したが、誇大妄想に悩まされるようになっていた。

いっそのこと温泉宿は廃業にして出なおそう、と鎌助の妻・ウメは言った。
しかし、鎌助は聞かず、創価学会のご利益に頼って、1959年春には新館の増築にかかった。
だが途中で資金が尽き、未完成のみっともない姿に壊そうにも金がかかり、鎌助は途方にくれることになった。

ここで鎌助は前年交渉にきたカウを思いだし、すぐに融資をもちかけた。
この時の条件は「妻・ウメに対する手切れ金50万を出してくれれば、後釜に迎えてやる」というものだった。
カウは「50万で温泉旅館の内儀さんの座が買える」とこの生方鎌助という男に賭けてみる事にした。
しかし、手切れ金を30万に下げたところ、ウメは50万円を譲らなかった。
「どうせウメは承知しないだろう、こうなれば一文も手切れ金をだすのが惜しい」とカウはウメ殺害を考えた。

1960年1月中旬、カウは日本閣の雑役をしていた大貫光吉(当時36歳)にウメ殺害を命じた。
「手間賃2万円、成功したら抱いてやる」と言ってカウは大貫の手をとり股にはさんだ。
女ッ気のほとんどない大貫は思わずうなずいた。

2月8日、怖くなり殺害を躊躇しつづけていた大貫に、今度は鎌助が励ましの言葉をかける。
「ウメは体が弱っていて、ちょっと絞めればイチコロだから、今夜は間違いなくやってくれよ」
そしてこの夜、大貫はひとり寝ていたウメを首を麻紐で締めて殺した。

その後、カウは今度は邪魔になった鎌助を殺そうと思い立つ。
1960年の大晦日、日本閣の帳場の炬燵で3人はテレビを見ていた。
午後5時過ぎ、カウは夕食の仕度で台所に立ち、忍び足で戻ると、背後から鎌助の首を細引で絞めつけた。
そこへ大貫が鎌助にとびかかる。
カウの持っていた細引がぷつんと切れ、そこで大貫は鎌助を押し倒し首を絞めた。
カウが包丁を差し出すと、大貫は必死に抵抗する鎌助の首に刺し、殺害した。

しかし、悪事はやがて露見するもので、2月20日、ついに小林カウと大貫光吉は逮捕となった。
この時、カウ52歳、それでも小太り丸顔でチャーミングなところがあったという。


(kau02.jpg)




やっぱり悪事は いつか露見してしまうものですよ。。。 逮捕されてから、カウは夫も自分で殺したと白状したのです。



。。。で、その後は どうなったのですか?

もちろん、裁判で死刑の判決がでたのです。。。 でもねぇ~、カウは「私は女だから、絶対に死刑執行はない。。。、いずれ減刑されて釈放されるわァ」と思い込んでいたのです。。。

あらっ。。。 マジで。。。?

釈放されたら、伊豆の大島に土地を買って 老人ホームを運営するんだという夢を抱き続けていたそうです。。。 なかなか頭がいい女なのですよ。。。 当時、すでに高齢化社会を見越して刑務所に居ながら金儲けのことを考えていたというのですからねぇ~。。。

。。。で、釈放されたのですか?

いや。。。 カウは15年ぐらいで出てこられると思っていたようだけれど、世の中は、なかなか思い通りには行かないものですよ。。。 1970年に死刑が執行され、女性では戦後初めて 絞首刑にされた死刑囚になったのです。

やっぱり、悪い事はできないものですわねぇ~。。。

そうですよ。。。 ネットでも、最近、素朴で純情なネット市民を騙して金儲けしようと企んでいる“コメン・トスパマー”や“いいねスパマー”。。。 更には“URLスパマー”や“お気に入り登録スパマー”までが出てきましたからねぇ~。。。


(ame60530b2.png)


『拡大する』

『きさ☆51ヶ国訪問中に注意!』




これはアメブロの僕のブログの5月24日から30日までの1週間の「リンク元URL」のリストなのですよ。。。 このリストを見ただけでも、拝金主義に凝り固まって 金儲けを企んでいる馬鹿なブロガーが多数発生しているのです。。。



でも。。。、でも。。。、まだ人殺しまではしてないでしょう?

その内、始めるかもしれません。。。

デンマンさんが、真っ先にターゲットにされるのではありませんかァ~?

大丈夫ですよ。。。 僕は、この愚か者たちから遠く隔たった所に居ますからねぇ~。。。



(foolw.gif)


【卑弥子の独り言】


(himiko22.gif)

ですってぇ~。。。
確かに、“白子屋お熊”さんのように 魅力ある女性って怖いですよねぇ~。。。

実は、あたくしも、ちょっと心配になっているのですわァ~。

なぜかってぇ~。。。?

なぜならば、“ヴィーナスのえくぼ”をゲットしたので、このところネットで あたくしに人気が集まっているのでござ~ますわよう。


(gog60409a.png)

『拡大する』

『現時点での検索結果』

 

「卑弥子 女性の本当の魅力 ヴィーナスのえくぼ」と入れてGOOGLEで検索する殿方が多いのでござ~ますわァ。

つまり、あたくしの“ヴィーナスのえくぼ”を目当てにやって来るのですわァ~。。。
うふふふふふふ。。。

ジムに毎日通って“ヴィーナスのえくぼ”をゲットしたのですわよゥ。


(buttdimp5.jpg)

どうでござ~ますかァ?

ええっ。。。 あたくしのお尻だとは思えないのでござ~ますかァ~?

どうしてよう?

ええっ。。。 スタイルがよすぎると、おっしゃるのござ~ますかァ~?

あたくしが十二単を一枚、一枚脱いでゆくと、
最後には上のようなおヌードになるのですわよう。
信じてくださいましなァ~。。。

ところで、あなたは『万夜一夜物語』を読んだことがござ~ますかァ~?

“千夜一夜物語”ではなくてぇ、“万夜一夜物語”ですわ。


(manya02.jpg)

『万夜一夜物語』

デンマンさんが書いたのでござ~ますわよう。

ええっ。。。 10,001の話が書かれているのかってぇ~。。。?

とにかく、上のリンクをクリックして読んでみてくださいませぇ~。。。

あなたも、絶対にビックリするようなお話が出てきますわァ。

『万夜一夜物語』だけでは、物足りないのでしたら、
ジューンさんが登場する面白いお話もたくさんあります。

興味のある方は、どうか次のリンクをクリックして読んでくださいましねぇ~。。。



軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人
(godiva05.jpg)

『やっぱり処女とおばさん』

『ウンコで走るバス』

『レダの卵』

『正月の熟女』

『新春画ネット散歩』

『愛と下着の美学』

『モナリザもビックリ』

『象が泣く』

『国際化に加速』

『美しき未亡人』

『ジューンさん、バイザイして』

『ジューンさん“いいね”が付いてるよ』

ジューンさんの熟女下着
(30june.jpg)

『床上手なのねぇ~』

『外国人SEXデンマン』

『外国人SEXデンマン再び』

『大きいことはいいことじゃない』

『デンバー直行便でジューンさんの下着』

『ジューンさんのヌードを探して』

『半分のお尻で…』

『プーフィードレス』


(sylvie122.jpg)

『万夜一夜物語』

『ゆかじょうず』

『日本語じょうず』

『モナリザがニーハオ』

『おばさんの下着がいいの?』

『なぜ、ヤノマミ?』

『マタハラ』

『マタハラとrundll32』

ジューンさんの熟女下着
(30june.jpg)

『お尻のえくぼ』

『なぜカウチポテト?』

『あなたの混浴』

『夢の出会いを求めて』

『乙女と処女』

『戦場に行くことを教えた女教師』

軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人
(godiva05.jpg)

『桜井の別れと母上様』

『ダイアモンドは女の親友』

『愛のコリーダを訳す』

『マルタ島のロマン再び』

『大前研一 奇妙な検索』

『ついに千夜一夜』

『いいね攻略と良妻賢母』

『批判が無いとヒトラーがのさばる』

『混浴入浴風景』



(roten101.jpg+cleoani.gif)

『9日間の女王』

『あなたは敬語?』

『原節子とジューンさん』

『モナリザの妹』

『ナイアガラとマリリンモンロー』

『おばさんパンツ@大晦日』

『ヴィーナスのえくぼ@ジューン』

『乳房振動とブラの研究』

『G線上のアリア』

『悲愴と白鳥』

『ブッダと千夜一夜物語』

『絹の道と千夜一夜物語』

『ヤノマミの乙女』

『ジャータカと今昔物語』

『白木屋お熊とセックス』

『パンツを売る乙女』

『床上手な女@マルタ島』

『宮沢りえとおばさんパンツ』

『マチュピチュとインディー・ジョーンズ』

『映画を愛する薄命の女』

『ベニスの騒動』

『アンネとハンナ』

『名器たこつぼ』


とにかく、次回も興味深い記事が続きますわ。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
じゃあ、また。。。


(hand.gif)



(chiwawa5.gif)

こんにちは。ジューンです。

スパムメールが相変わらず多いですわよね。

あなたのメールボックスにも、

ジャンクメールがいっぱい入っているでしょう!?

スパムメールを飛ばしているのは

いったい、どういう人たちなのでしょうか?

出会い系サイトのオーナーたちが多いそうですわ。

彼らは会員を集めるためにスパムメールをばら撒きます。

そのためにメールアドレスのリストを購入しています。

では、そのようなリストを販売している人は

どうやってメールアドレスを集めているのでしょうか?

ロボット(自動巡回プログラム)によって

自動収集させているのです。

ところで、サーチエンジンの自動巡回ロボットは

毎日世界中のサイトを訪問し、

その内容をデータベースに書き込んでいます。

同じように、このメールアドレス収集巡回ロボットも、

HTMLソースを分析し、

メールアドレスらしきものをどんどん記録してゆきます。

でも、使っていないメールアドレスが

たくさんあるのですよね。

あなたの使っているメールアドレスのことを

考えてください。

あなたはメールアドレスをいくつ持っていますか?

一つだけではないでしょう?

10以上持っているのではありませんか?

多分、ほとんどのメールアドレスは使ってないでしょう?

そのために、現在実際に使っている

メールアドレスを集めるために、

怪しい人物が使用度の高いメールアドレスを

集めているのですわよ。

だから、あなたもむやみに信用できない人に対して

返信しないようにしてくださいね。

詳しいことはデンマンさんが次の記事で書いています。

『コメント魔』

(2012年4月3日)



(himiko92.jpg)

ところで、卑弥子さんが面白いサイトを

やっています。

興味があったら、ぜひ次のリンクをクリックして

覗いてみてください。

『あなたのための笑って幸せになれるサイト』

とにかく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょう。

じゃあね。 バーィ



(juneswim.jpg)


(byebye.gif)
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