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紀元前のメイフラワー号


 

紀元前のメイフラワー号

 


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デンマンさん! どういうわけで紀元前のメイフラワー号を持ち出してきたのでござ~ますかァ~?


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卑弥子さんは僕が持ち出したと思っているのですか?

だってぇ~、タイトルを書くのはデンマンさんでござ~♪~ますわァ~。。。

確かにタイトルを書くのは僕です。。。 でもねぇ~、上のタイトルを書くように促(うなが)したのは他の人なのですよ。。。

それはどなたでござ~ますか?

ちょっと次のリストを見てください。。。

 


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『拡大する』

『日本へ、紀元前のメイフラワー号』

 



これはライブドアの僕の「徒然ブログ」の日本時間で 3月5日の午後3時56分から 6日の午前3時44分までの約12時間の「生ログ」の一部です。。。 赤枠で囲んだ箇所に注目してください。。。



あらっ。。。 3月5日の午後6時5分に『日本へ、紀元前のメイフラワー号』を読んだネット市民がいたのですわねぇ~。。。

 


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『拡大する』

『日本へ、紀元前のメイフラワー号』

 



実は、岐阜県 中津川市に住んでいる 津川美里 (つがわみさと) さんが読んだのです。。。

 


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デンマンさんは、またIPアドレスを調べて津川美里さんが読んだことを突き止めたのですか?



そうです。。。

 


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あらっ。。。 この上の写真の女性が津川美里さんでござ~ますかァ?



そうです。。。

いつものように、女性がアクセスする場合は、きれいな写真を貼り付けるのですわねぇ~!

いけませんかァ~?

そういうことをすると、あの悪名高い「現実主義者」と名乗る男が「デンマンは女尊男卑だァ!」と喚いてムカつくと思いますわァ~。。。

 


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『現実主義者 馬鹿の見本』

 



いや。。。 あの馬鹿はきれいな女性を見れば男性ホルモンを全開してスキップして喜びますよ!

 



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わァ~~ うれしいなあああァ~。。。

40過ぎても 結婚できない

オイラのために デンマンさんが

可哀想だと思って

ちれいな女の子の写真をベタベタ

貼り付けてくれるのです。

 

このぶんだと、上の記事を読んで

読者の中から、

オイラにプロポーズしたい女性が

きっと現れると思います。

オイラはウハウハしながら

男性ホルモンを全開します。

きゃははははは。。。

 

こうなったら、もう無条件に

スキップして喜びたいと思います!


(smilejp.gif)

わァ~~ うれしいなあああァ~。。。

ルンルンルン ランランラ~♪~ン

もう一つおまけに

ルンルンルン ランランラ~♪~ン

ああァ~、うれしいなあああァ~。。。


 



あの馬鹿は、きっとこのように狂喜すると思うのですよ。。。



馬鹿バカしいので、本題に入りますわ。。。 津川美里さんは、どういうわけで『日本へ、紀元前のメイフラワー号』を読んだのでござ~ますか?

あのねぇ~、津川美里さんは岐阜県中津川市にある中京学院大学で経営学を専攻しているのですよ。

 


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経営学を専攻している美里さんは歴史に ものすごく興味があったのですよ。。。 実は、第一志望は名古屋大学文学部で歴史学を専攻しようと思ったのです。。。 でもねぇ、残念ながら落ちてしまって、それで中京学院大学で経営学を勉強することになったのです。。。



でも、やっぱり歴史に興味があってネットサーフィンしていたら『日本へ、紀元前のメイフラワー号』に出くわしたというわけでござ~ますか?

そういうことです。。。

。。。で、美里さんは どうやって『日本へ、紀元前のメイフラワー号』を探し当てたのでござ~ますか?

次のように検索したのです。

 


(gog90306a.png)


『拡大する』

『現時点での検索結果』


 



あらっ。。。 「日本 紀元前 メイフラワー号 barclay1720」と入れて検索したのですわねぇ~。。。



そういうことです。。。

。。。で、いったい美里さんは何を調べようとしたのでござ~ますか?

次の箇所を探していたのですよ。。。



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日本伝承地:

① 佐賀県武雄市

② 佐賀県佐賀市

③ 佐賀県諸富市

④ 福岡県八女市

⑤ 福岡県筑紫野市

⑥ 鹿児島県串木野市

⑦ 鹿児島県坊津町

⑧ 宮崎県延岡市

⑨ 宮崎県宮崎市

⑩ 高知県佐川町

⑪ 山口県上関町祝島

⑫ 広島県宮島町

⑬ 京都府伊根町

⑭ 和歌山県新宮市

⑮ 三重県熊野市

⑯ 愛知県熱田神宮

⑰ 愛知県小坂井町

⑱ 静岡県清水市

⑲ 山梨県富士吉田市

⑳ 山梨県河口湖町

21 東京都八丈町

22 東京都青ヶ島村

23 秋田県男鹿市

24 青森県小泊村

韓国伝承地:

A 済州(チェジュ)島

B 南海(ナメ)島

中国伝承地:

1 秦皇島

2 千童城・丱兮城(黄驊県)

3 黄県 (登州湾)

4 成山頭

5 徐福島 (嶗山湾)

6 徐山 (膠州湾)

7 琅邪台 (琅邪湾)

8 贛楡 (海州湾)

9 東海

10 霊山 (舟山群島)

11 大蓬山 (慈渓・杭州湾)

12 会稽 (紹興・杭州湾)

13 蓬莱山 (象山県)




これだけ伝説の場所が残っているということは、徐福さんが日本へやって来たという可能性があるということですわね。



そうですよ。 「火のない所に煙は立たず」と昔の人も言いましたからね。。。

でも、日本中に伝説の地が散らばっているというのは、どういうわけでござ~ますか?

あのねぇ~、徐福さんの一行は5,000人を越えていたのですよ。。。 ということは一艘の船に 175人が乗るとして、およそ50艘の船でやって来たのですよ。 すると、この50艘の船を造るとしても一箇所では造れない。 だから、出航地も一箇所ではなかったと考えられる。 上の地図にはたった一つの航路だけを書き入れたのだけれど、本当は、もっとたくさんの航路を使ってやって来たわけですよ。

それで、中国でも伝承地がいくつかあるのでござ~ますわねぇ?

そういうことですよ。

でも、船が着いた所が日本中に散らばっているというのは、どういうわけでござ~ますか?


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あのねぇ~、遣唐使のことを考えてみても、当時の船旅は4艘で船出をすると その内の1艘か2艘は遭難したのですよ。 だから、一番近い九州を目指したとしても、黒潮に流されて、四国や、和歌山県のあたりや 東海地方、八丈島や青ヶ島に流されたりしてしまう。 また黒潮は日本海のほうにも分かれていて、それに乗ると京都府の伊根町や、遠く、秋田県や青森県の方まで流されてしまう。 


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上のおっさんの写真は、実は、青森県北津軽郡中泊町にある「徐福の里公園」に立っている徐福の像ですよ。



。。。んで、一体どう言う訳で徐福さんたちは日本へやって来たのでござ~ますか?

あのねぇ~、徐福と彼の船団が日本へやって来たのは紀元前210年から紀元前200年頃なのですよ。 秦の始皇帝が長寿の神薬(不老不死の薬)を欲しがったので、それで徐福が日本へ行けば手に入れることができると願い出て旅立ったのですよ。 それから80年経った頃の事として『史記』には次のような証言が載せられている。


海の上で大神に会いました。
神は「西の皇帝の使者か」というので、「そうです」と答えました。
「何を求めるのか」と訊くので、「延命長寿の薬です」と答えました。
神は「汝の秦王の礼物が少ないので手にいれることができないのだ」と答えました。
ついで東南の蓬莱山に私を連れて行きました。
霊芝(れいし)でつくられた宮殿を見ました。
使者は銅色(あかがね)で龍の形をしており、光が上がり天を照らしていました。
「何を献上すればいいですか」と尋ねますと、「育ちのいい少年少女といろいろの道具、技術を献上すれば神薬を得られるだろう」と言いました。
始皇帝は大いに喜びその通りにしました。
徐福は海の向こうの平野で水の豊かな地に着き、王となって帰りませんでした。

そこで秦の民は悲しみ、嘆きあい、乱を起こそうというものが十戸のうち六戸になった、という。




出典:『史記』 巻118・列伝58




徐福さんは、どうして秦の国に帰らなかったのでござ~ますか?



あのねぇ~、初めから帰る気がなかったのですよ。

どうして。。。? それでは、秦の始皇帝に嘘を言って船出をしたことになるではござ~ませんかァ!

あのねぇ~、上の引用文の中には徐福が帰らなかったので「秦の民は悲しみ、嘆きあい、乱を起こそうというものが十戸のうち六戸になった」と書いてあるけれど、因果関係は逆なのですよ。

どういうことでござ~ますか?

あのねぇ~、秦の始皇帝が不老不死の薬を欲しがっている。。。 つまり、始皇帝が我侭な政治を行うようになっていたのですよ。 だから、当時、秦の国は乱れ始めて、乱があちこちで起こり始めた。 それで、難民が出始めていたのですよ。

つまり、5、000人もの難民を従えて日本に逃亡するのでは とても不可能と見て 徐福さんは計略を思いついたのでござ~ますか?

そうですよ。 始皇帝の欲しがる不老不死の薬が 日本へ行けばゲットできると申し上げれば渡航の許しが出るに違いない、と考えたわけですよ。

それで、まんまと 5、000人以上を引き連れて日本へ逃亡したのでござ~ますか?

その通りですよ。 考えてみてください。 あの有名なメイフラワー号だって、清教徒がイギリスでの迫害に耐えかねてアメリカへ集団で逃亡したのですよ。

 


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つまり、徐福さんの一行も秦の滅亡を予感し、戦乱を逃れる逃避行だったとデンマンさんは言うのでござ~ますか?



その通りですよ。 秦が滅んだ600年後 4艘の遣唐使船で出かければ2艘が沈むというのが常識だった。 そのような危険が当時の航海にはつき物だった。 徐福さんがやって来たのは遣唐使よりもずっと以前の時代ですよ。 それにもかかわらず、命の危険も省(かえり)みずに未知の航海に乗り出す理由には、「どうせ戦乱に巻き込まれて秦で殺されてしまうのであれば、一か八かの勝負にかけてみよう!」と思ったに違いない。

それで、徐福さんは5、000人以上の難民と共に船出したわけでござ~ますか?

その通りですよ! 紀元前のボートピープルです。



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呉という国は、上の地図に書き込んだように、その寿命は、せいぜい50年です。
日本の長い歴史の中では、ほんの一瞬というような短い間なのに、呉人たちは、日本の文化に大きな影響を残しているわけです。
そのことは前にも書いたように、漢字の読みの呉音というかたちで、日本語の中に消しがたい足跡を残しています。
しかも、呉人のことをすっかり忘れ去っても、『呉服』という言葉をいまだに使っているように、『呉』は日本語にすっかり定着しています。

これとちょうど同じように、その当時の呉人の血は、間違いなく我われの体の中に、流れているわけです。
50年と言えば、一人の人間の一生の長さです。
一人の呉人がやってきたぐらいでは、これほどの影響はないでしょう。
ということは、国が滅んだ後に、相当数の呉人が日本へやってきたはずです。
一体、幾人の呉人がやってくると、これほどの影響が日本に残るのか?
ちょっと考えてみてください。

聖徳太子が生まれるのは、この呉の国が滅んでから、約300年後です。
しかし、見逃してならないのは、この300年というのは、大陸はもちろん、朝鮮半島も、日本も含めて、激動の時代でした。
中国では、下の年表に示すように、西晋、東晋を経て南北朝時代に入ります。


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隋が中国を統一するまでに、なんと、11王朝が起こっては滅びます。
しかも平穏に王朝が交代するというようなことはありません。
必ず戦乱がつき物です。
すると、当然のことながら難民が出ます。
これは何も、古代にかぎったことではありません。
ベトナムからの難民騒ぎを覚えているでしょうか?


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サイゴン(現ホーチミン市)が無血陥落(1975年4月30日)してベトナム戦争は終わりました。
しかし、その後の迫害を恐れる者、よりよい生活や自由を求める者などが小船に乗って次々とべトナムをあとにします。
いわゆる「ボートピープル」と呼ばれる大量の難民の出現です。

漂流中を漁船や貨物船、タンカーなどに救助された難民が、1977年5月28日の37人を皮切りに、日本へもやってきました。
1989年以降はベトナム難民を装った中国人の偽装難民も出現し、同年9月には、鹿児島に回航した149人もの“難民”を収容する施設がなく、神戸に再回航するというような事態も発生しました。

現代においても、このような事態が出現するわけですから、古代において、しかも、もっと身近な、中国沿岸、あるいは朝鮮半島からの、たび重なる難民の数は、相当なものだったことが容易に想像されます。
280年に呉が滅んでから、663年に百済が滅びるまでの間は、おそらく、日本史上で最も渡来人が数多く日本へやってきた時期だったでしょう。




『日本人はどこから来たの?』より
(2013年10月1日)




つまり、歴史的には徐福がボートピープルの先陣を切ったのですよ。




『日本へ、紀元前のメイフラワー号』より
(2014年1月28日)




でも。。。、でも。。。。、津川美里さんは経営学を勉強しているのに、どうして徐福伝説に興味を持ったのでござ~ますかァ?



あのねぇ~、美里さんは、やっぱり歴史に興味があって、実は、徐福に関する歴史小説を書き始めたのですよ。。。

あらっ。。。 マジで。。。?

そうです。。。 そういうわけで、徐福に関する記事を探し求めていたのです。。。 2年前にも美里さんは、上の記事を読んだことがあるのです。。。

。。。で、今回、歴史小説を書き始めたので、改めて読んでみたということでござ~ますかァ?

そういうことです。。。

でも。。。、でも。。。、デンマンさんは、どうしてそんな事まで ご存知なのですか?

もちろん、美里さんが僕にメールを書いてよこしたからですよ。。。 それに、「卑弥子さんにもよろしく」と書いてありました。。。

マジで。。。?

あのねぇ~、昔の人は “信じる者は救われる!” と言ったのです。。。 だから、卑弥子さんも素直に信じて、ルンルン気分で幸せになってねぇ~。。。



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【卑弥子の独り言】


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ですってぇ~。。。 あなたは、 どう思いますか?

デンマンさんの言う事を信じますかァ~。。。?

ええっ。。。 「そんな事は、どうでもいいから、もっと他に面白い話をしろ!」

あなたは、そのように あたくしにご命令なさるのでござ~ますか?

いけすかないお方ァ~。。。

分かりましたわ。

あなたが、そのように言うのであれば、ちょっと面白い映像をお目にかけます。

次のクリップは嫌いなプレゼントをもらってムカついている子供たちの映像です。

面白いから、じっくりと見てくださいまし。。。

 


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どうでした?

ええっ。。。 「もう過ぎてしまったクリスマスのことなど どうでもいいから、何か他に もっと面白いことを話せ!」

あなたは、あたくしに向かって、更にご命令なさるのでござ~ますか?

いけすかないお方ァ~。。。!

分かりましたわァ。。。 あなたが、そうおっしゃるのだったら、まずジューンさんの次の写真をご覧になってくださいまし。。。

 


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千夜一夜物語の衣装を着たジューンさんに魅せられて、女性に成りすます男性が たくさん居るのでござ~ますわァ!

ええっ。。。 信じられないのですかァ?

じゃあ、ちょっと次のYouTubeのクリップを見てくださいまし。。。

 


(xdress02.jpg)



 

いかがでござ~ますかァ~?

男性が女装していると思いますかァ?

あたくしは、素直に信じることができませんわァ~。。。

どうですかァ~? けっこうなものでしょう!?

いつまでも見とれていても仕方がありませんわよゥ。

あなたのために古代史の面白い記事を用意しました。

ぜひ お読みください。

では。。。

天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。
 

天智天皇は暗殺された 

定慧出生の秘密 

藤原鎌足と長男・定慧 

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?


今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?


マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?


とにかく、次回も興味深い記事が続きます。

だから、あなたも、また読みに戻ってきてください。

じゃあ、またねぇ~。。。


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ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
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■ 『きれいになったと感じさせる

下着・ランジェリーを見つけませんか?』


『センスあるランジェリー』



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ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。

卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。




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『宝暦の恨みを明治維新で』

『デウキと紅葉@行田』

『薄い陰毛と紅のボートピープル』

『江戸の閨房術』

『ずるがしこい現代人』

『春画@源氏物語』

『千早振る』

『あれっ、松本清張』

『キスと源信』

『伎楽は呉から…?』

『紺瑠璃杯に魅せられて』

『神聖娼婦 マリア』

『安徳帝は生きていた』

『白石川の桜』


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『ブログ村のマリア様』

『萌える済子女王』

『ピンク桃色@徒然』

『富沢金山の桜』

『ピンク桃色村』

『紫式部@徒然』

『絵里香@ペルー』

『ペルシャ人の楊貴妃』

『ん?佐伯今毛人』

『文学と歴史とウソ』

『百人一首ミステリー』

『芭蕉と遊女再び』

『映画とロマン@仙台』

『源氏物语中的性描写』

『忘れられた歴史ロマン』


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『おばさんパンツ@サンホセ』

『聖徳太子のチューター』

『オナラの曲芸』

『死海』

『漱石とオナラ』

『絵里香さん』

『美女とオナラ』

『アンバパーリー』

『ゆっくりと愛し合う』

『見ちゃだめ!』

『二重マチ付きズロース』


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『麻生元総理』

『ネットのバカ女を捜して』

『額田王の歌』

『聖女と娼婦』

『済子女王@萌える』

『ん?堀内亜里?』

『松平春嶽が黒幕?』

『旅行者的早餐』

『なぜ蝦夷なの?』

『プリキュアとヒトラー』

『戦争絶対反対よね』

『怨霊の歴史』

『色欲@歴史』

『紫式部と敗戦』

『ラピスラズリと源氏物語』


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『性と愛@古代史』

『仙台を離れて』

『美人とブス@大奥』

『絵の中のウソ』

『阿倍仲麻呂@ベトナム』

『バイクガール』

『六条御息所』

『卑弥子さんの大学』

『元寇と捕虜』

『マキアベリにビックリ』

『痴漢が心配』

『びた一文』

『卑弥子@ブカレスト』

『エロい源氏を探して』

『ラピスラズリの舟形杯』

『平成の紫式部』

『隠元豆と国性爺合戦』

『おばさんと呼ばれて』


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『女帝の平和』

『アタマにくる一言』

『悪女レオタード@昌原市』

『スウィートビーン』

『ガチで浦島太郎やし』

『ご苦労さま』

『デンマンのはなし』

『卑弥呼の墓』

『室生犀星と人間学』

『松平春嶽ダントツ』

『英語は3語で伝わる』

『くだらない物』

『漢字で体操』

『面白い漢字テスト』

『放屁女に罰金』

『アヤメとカキツバタ』

『日本の閨房術』

『大団円』

『ペルシャ人@Anzio』



軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
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ヴィクトリア女王とアブドゥル


 

ヴィクトリア女王とアブドゥル

 


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デンマンさんは、どういうわけで ヴィクトリア女王とアブドゥル というタイトルにしたのですか?


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小百合さんは覚えてないのですか。。。

何をですか?

小百合さんはエアカナダの飛行機で成田からバンクーバーにやって来たのですよ。。。

そうですわ。。。

先日、バンクーバーのチャイナタウンで3時のオヤツの時間に小百合さんとジャスミンティーを飲みながら話しをしましたよねぇ~。。。

 


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『拡大する』




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『この店の紹介と評判』


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『チャイナタウンとオペラの話』

 



ジャスミンティーと関係あるのですか?



いや。。。 ジャスミンティ-とは直接関係ないのですよ。。。 チャイナタウンの「新城餅家餐室(New Town Bakery & Restaurant)」でジャスミンティ-を飲みながら話をしている時に、エアカナダの飛行機の中で観た映画の話になった。。。

ええ。。。 確かに映画の話になりましたわ。。。

その話をするうちに、前回、2018年の2月に小百合さんがやって来たときにエアカナダの飛行機の中で観た映画の話になった。。。 そのことについて、かつて小百合さんは次のようなメールを書いたのです。。。



(sayuri5.gif)


件名:

帰りの飛行機では

3本 洋画を見ました。

♪┌(・。・)┘♪



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日付: Mar 15, 2018, 10:17 PM
差出人: "sayuri1234@yahoo.co.jp"
宛先: "denman9876@gmail.com"


バンクーバーに行く飛行機の中では
“Zookeeper's Wife”というタイトルの映画だけしか見ることができませんでした。


(zookeep7.jpg)

パイロットが飛ばしすぎて7時間半でバンクーバーに着いてしまったのです。

帰りはジェット気流に逆らって飛ぶので
成田まで9時間半ほどかかりました。

なので、帰りは 映画を3本 観ることができました。

一つ タイトルを忘れたけど、このタイトルを忘れたやつを
もう一度観たい。

エアカナダで調べたけれど、見つけることができませんでした。
見つけ方が悪かったのかな?


(novit05b.jpg)

教会? あるいは修道院の中の映画で
一人エッチがでてきて 隣の人が見るかと思うと
ゆっくり 観てられませんでした?

あとで考えると、ばかばかしいと思いましたが、
その時は、かなりビビリました。
ヤバイ!と思って、他の映画を開いたのでした。

「VICTORIA and ABDUL」
これは フランスとインドの話 昔の場面でよかった。



 

「Like Our Parents」
これは子供と親の話。

子供って 親のように 似た癖や生き方にながれていくのかな?



タイトルが合ってるか わからないけど。。。

ところで、全部観ることができなかった教会 か修道院の 映画。
あとで 時間のあるときに調べてみてね。

女の子の一人エッチがでてくるので、
デンマンさんならば夢中になってネットで調べて
絶対にタイトルを突き止めることができると思います。
うふふふふ。。。

では。。。

 

小百合より


(sayuri15.gif)




『タリアセン夫人と洋画』より
(2018年3月24日)




デンマンさんは、すぐにこうして私信をネットで公開してしまうのですわァ~。。。 プライバシーの侵害ですゥ。。。



小百合さん。。。 そういう堅苦しいことを言わないでくださいよう! 小百合さんの身元が判らないように、充分に偽装工作がなされているのだから。。。

でも。。。、でも。。。、ネットやコンピューターに詳しい人ならば、すぐに私の身元など突き止めてしまうのですわァ~。。。

大丈夫ですよ! ウィキリークスの広報人、編集長として有名なジュリアン・アサンジも、小百合さんの身元を突き止めようとして、突き止められなかったのだから。。。

 


(assang01.jpg)



 



マジで アサンジさんは 私の身元が突き止められなかったのですか?



そんな事よりも、映画の話ですよ。。。

そうでしたわァ。。。 うふふふふふふ。。。 つまり、私がメールの中で "VICTORIA and ABDUL" を観たと書いたので、今日のタイトルをヴィクトリア女王とアブドゥルとしたのですか?

そうですよ。。。 日本語版では『ヴィクトリア女王 最期の秘密』というタイトルになってます。

 


(vic003.jpg)



 



。。。で、どういうわけでこの映画を取り上げる気になったのですか?



理由は2つあるのですよ。。。 その一つは小百合さんが間違って「これは フランスとインドの話 昔の場面でよかった」と書いていたのですよ。。。

つまり、私の間違いを指摘して恥をかかせるために、ヴィクトリア女王とアブドゥル を持ち出してきたのですか?

やだなあああァ~。。。 小百合さんに恥をかかせるためじゃありませんよ。。。 あのねぇ~、人間は神様じゃないのだから、誰でも、うっかりして間違うことはあるのですよ。。。 ヴィクトリア女王がフランスの女王だった思う人はいませんよう。。。 たぶん、小学生でもヴィクトリア女王がイギリスの女王だったと知っていると思うのですよ。。。

。。。で、第2の理由は何なのですか?

あのねぇ~、小百合さんが観て「これは イギリスとインドの話 昔の場面でよかった」と書いたから、僕もバンクーバー市立図書館でDVDを借りて観たのですよ。。。

マジで。。。?

その証拠をここに見せますよ。。。

 


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『拡大する』

『実際のページ』


 



あらっ。。。 2018年9月13日に観て、コメントを書き込んだのですわねぇ~。。。



そうです。。。 そのコメントを訳したので読んでみてください。。。




デンマンのコメント

 

Directed by Stephen Frears in 2017 based on the book of same name by Shrabani Basu, this British docudrama dipicts the unusual friendship between Queen Victoria and her Indian Muslim servant Abdul Karim.

Abdul Karim (1863 – April 1909), known as "the Munshi", served the queen during the final fifteen years of her reign, gaining her maternal affection over that time.

The close platonic relationship between Karim and the Queen led to friction within the Royal Household, the other members of which felt themselves to be superior to him.

The Queen insisted on taking Karim with her on her travels, which caused arguments between her and her other attendants.

It is an unbelievably hilarious, extraordinarily amusing and profoundly engaging drama you wouldn't want to miss.




シャラバニ・バスによる同名の本に基づいて、2017年にスティーヴン・フリアーズが監督したこのイギリスのドキュドラマは、ヴィクトリア女王とイスラム教徒の従僕であるインド人アブドゥル・カリムとの異例の友情を描いている。

"ムンシ(師、を意味する)"としても知られるアブドゥル・カリム(1863年-1909年4月)は、ヴィクトリア朝の最後の15年間、女王に仕え、その間、女王とは息子のように親しい関係だった。

しかし、カリムと女王の密接な間柄は、王室内に波紋を広げた。

なぜなら他の侍従や従僕は誰もがカリムよりも優れていると思い、女王のカリムに対する特別扱いを妬(ねた)んだためだ。

女王は旅行にはカリムを一緒に連れて行くことを主張した。

そのことは、侍従や従僕の間に更に議論を引き起こした。

信じられないほど滑稽でもあり、異常とも言えるほど面白く、心に深く残る魅力的なドラマで、見逃したくない映画です。




なるほどォ~。。。 デンマンさんにとって信じられないほど滑稽でもあり、異常とも言えるほど面白く、心に深く残る魅力的なドラマだったのですか?



そうです。。。 小百合さんもよかったと書いていたけれど、実際、見るだけの価値のある映画でした。。。

。。。で、デンマンさんはアブドゥルをどう思いましたァ?


アブドゥル・カリム

(1863 – April 1909)


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アブドゥル・カリムは「ムンシ(師、を意味する)」としても知られるヴィクトリア女王に仕えるインド人である。
彼はヴィクトリア治世の最後の14年間、彼女に仕え、その間ヴィクトリア女王から息子のように信頼され慕われた。

カリムはイギリスのインドのジャーンシー近くの病院助手の息子として生まれた。
ヴィクトリアのゴールデンジュビリーの年である1887年に、カリムは女王の従僕になるために選ばれた2人のインド人のうちの1人でした。
ヴィクトリアは彼を気に入り、彼に「ムンシ」の称号を与えた。
さらに彼を秘書に任命し、彼のためにインドに土地を与えるほど厚遇した。

カリムと女王の密接なプラトニックな関係は王室内では大きな問題となりました。
なぜなら、誰もがカリムよりは優れていると感じ、厚遇を受けるのは自分だと信じていたからです。
女王は旅行にはカリムを一緒に連れて行くことを主張したので、この件についても他の侍従や従僕たちの間に議論を引き起こした。

 


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1901年のヴィクトリアの死後、彼女の後継者であるエドワード7世は、カリムをインドに戻し、ヴィクトリアと交わした手紙類を没収し破棄した。

カリムはその後、46歳で亡くなるまで、ヴィクトリアが彼のために手配していたアグラの近くの地所で静かに暮らした。




出典: 「Abdul Karim (the Munshi)」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



アブドゥルは誠実で真面目で、その上ユーモアのある人ですよ。。。



それなのに、エドワード7世は、どうしてあれほどアブドゥルを嫌って憎んだのですか?

それは当然ですよ。。。 エドワード7世は若い頃、遊び人で、母親であるヴィクトリア女王の顰蹙(ひんしゅく)を買っていた。。。 その当時、39年前に治世最初の首相だったメルバーン子爵を、26年前に最愛の夫アルバート王配を、3年前に寵臣ジョン・ブラウンを、と信愛を寄せた男性たちを次々に喪い、ヴィクトリア女王は落ち込んでいたのですよ。。。 だから、遊び人の馬鹿息子のエドワード7世は彼女にとって、目の上のタンコブだった。。。 そのような時に誠実で真面目で、その上ユーモアのあるアブドゥルが現れたのですよ。。。 当然、彼女の母性本能が再びよみがえって、アブドゥルを贔屓(ひいき)にした。

つまり、 エドワード7世はアブドゥルに対して嫉妬したのですか?

嫉妬と言うよりも、エドワード7世はムカついたでしょうねぇ~。。。 なぜなら、息子の自分よりもアブドゥルを実の息子のように厚遇していた。。。 だから、母親が亡くなったら、エドワードはアブドゥルを追い出し、ヴィクトリアと交わした手紙類を没収し破棄したのですよ。。。 アブドゥルが悪いんじゃない! エドワード7世の身から出たさびですよ。。。 もう少し母親孝行をしておけば、ヴィクトリア女王もエドワードをないがしろにはしなかったのですよ。。。

そうでしょうか?

とにかく、権力を持っている人間が ある一人の人間を気に入って、贔屓にするのは絶対によくないのですよ。。。 例えば、唐の玄宗皇帝が楊貴妃をあまりにも可愛がり過ぎたので、部下が頭に来て皇帝に反抗して、結局、楊貴妃を殺させた。。。 

 


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アブドゥルは殺されなかっただけ、まだいいほうですよ。。。



いくらなんでもエドワード7世は、そこまではしないでしょう!

ちなみに、小百合さんも3人の子供たちは平等に可愛がらないといけませんよ。。。 そうじゃないと、子供の間に波風が立ちますから。。。

つまり、この事を言うために、長々とヴィクトリア女王とアブドゥルを持ち出してきたのですか?

そうです。。。 小百合さんの幸せのためです。。。 (微笑)



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【卑弥子の独り言】


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ですってぇ~~

あなたもデンマンさんのお話を聞いて白けたでしょう?

ええっ。。。 「そんなことは どうでもいいから他にもっと面白い話をしろ!」

あなたは、あたくしに そのようにご命令なさるのでござ~ますかァ~?

分かりましたわァ。。。 あなたがそのようにおっしゃるのであれば、

元旦にバンクーバーで第99回寒中水泳があったのでござ~ますわよう。

その模様をお見せしますわねぇ~。。。

 


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ええっ。。。 「寒中水泳など つまらんから、もっと面白い話をしろ!」

あなたは、さらに、そのような強い口調で あたくしにご命令なさるのですかァ~?

分かりましたわァ~。。。

個人的なお話ではありますけれど、

次の検索結果を見てくださいまし。。。

 


(gog60409a.png)

『拡大する』

『現時点での検索結果』

 

「卑弥子 ヴィーナスのえくぼ」と入れてGOOGLEで検索する殿方が多いのでござ~ますわァ。

つまり、あたくしの“ヴィーナスのえくぼ”を目当てにやって来るのですわよう。

うふふふふふふ。。。

あなたも、ビックリするでしょう?

ジムに毎日通って“ヴィーナスのえくぼ”をゲットしたのですわァ。

 


(buttdimp5.jpg)

 

どうでござ~ますかァ?

ええっ。。。 あたくしのお尻だとは思えないのでござ~ますかァ~?

どうしてよう?

ええっ。。。 スタイルがよすぎると、おっしゃるのござ~ますかァ~?

あたくしが十二単を一枚、一枚脱いでゆくと、

最後には上のようなおヌードになるのですわよう。

信じてくださいましなァ~。。。

 

ところで、小百合さんが なぜ「軽井沢タリアセン夫人」と呼ばれているのか?

ご存知でござ~♪~ましょうか?

なぜ。。。?

実は簡単な事なのですわよう。

 


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小百合さんは軽井沢に別荘を持ったのですわ。

小さな頃から軽井沢に住むことが夢だったのですってぇ~。。。

分からない事ではござ~ませんわァ。

そもそも小百合さんが軽井沢に興味を持ったのは、朝吹登水子のエッセーなどを読んだことがきっかけだったとか。。。

現在、朝吹登水子の山荘、睡鳩荘(すいきゅうそう)は軽井沢タリアセンに移築されて公開されています。

 


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それで、小百合さんは軽井沢タリアセンを訪れては睡鳩荘に足を運んで少女の頃の事を思い出すのが楽しみなんですってよ。

そういう訳で、デンマンさんが小百合さんのことを「軽井沢タリアセン夫人」と呼ぶようになったのですわ。

 

軽井沢・雲場池の紅葉



軽井沢のイルミネーション



秋の旧軽井沢銀座ぶらり散歩



 

とにかく、明日もデンマンさんが興味深い記事を書くと思いますわ。

だから、あなたも、お暇なら、また読みに戻ってきてくださいまし。

じゃあねぇ~~。


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ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

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こんにちは。ジューンです。

日本のハーブティーは、なんといっても桜湯だそうですけれど、


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カナダ、アメリカ、イギリスではハーブティーとして

ローズティーが好まれています。

普通、ローズヒップティーと呼ばれます。

ローズヒップ(rose hip)とは

バラ科バラ属の植物の果実。

つまり、バラの実です。

ローズヒップ生産のため、バラの特定品種、

特にRosa canina(ドッグ・ローズ)が栽培されています。

ハイビスカスとブレンドしたハーブティとして飲用されることもあります。

また、ローズヒップオイルは食用油として、

ジャム、ジェリー、マーマレードにも用いられるほか、

スキンケアにも用いられます。

こんなエピソードがありました。

第二次世界大戦中、

イギリスはドイツ海軍Uボートの海上封鎖により

オレンジの輸入がストップしたのです。

ビタミンCの補給ができなくなったのです。

それで、英国の学童たちは生垣に生えている

ローズヒップの採集を命じられました。

ローズヒップティーにして飲んで

ビタミンCを補給したのですって。。。


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なんだか信じられないようなお話ですよね。

ところで、英語の面白い話を集めました。

時間があったら覗いてみてください。

■ 『あなたのための愉快で面白い英語』

では、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょう。

じゃあね。



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大伴家持の野心



 

大伴家持の野心

 


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デンマンさん。。。 今日は珍しいことに あたくしのためにタイトルを選んでくださったのですわねぇ~?


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そうです。。。僕のブログにしばしが協力してくれる卑弥子さんのために『万葉集』の編者であり、数々の歌を載せている大伴家持を取り上げたのですよ。

あたくしは京都の女子大学で腐女子たちに「日本文化と源氏物語」を講義していますけれど、『万葉集』にもことの他に興味を持っておりますわ。。。

だと思いました。。。 そういうわけで大伴家持を取り上げたわけです。。。

でも、『伊勢物語』でも、『竹取物語』でもなく、なぜ『万葉集』なのでござ〜ますか?

実は、バンクーバー市立図書館で借りていた本を読んでいたら次の箇所に出くわしたのですよ。。。

 




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焼太刀(やきたち)を

砺波(となみ)の関に

明日よりは

守部遣(や)りそへ

君を留(とど)めむ



【現代語訳】

焼太刀を研ぐという

砺波の関に

明日からは

番人を置いて

あなたにはゆっくりと
留まっていただきましょう





『万葉集』巻18に収められた大伴家持の歌である。

「天平感宝元年五月五日、東大寺の占墾地使の僧・平栄等を饗す。時に守(かみ)・大伴宿禰家持の、酒を僧に送る歌一首」という詞書が添えられている。

大伴家持はこの時の越中守、平栄は(略)天平宝字三年(759)の鳴戸開田地図に連署した一人である。(略)

東大寺は僧・平栄をその墾田地の占定のために北陸道へ派遣したのである。

時の政権の中枢には左大臣橘諸兄があり、間もなく紫微中台が新設され、藤原仲麻呂がその長官に就任しようという時期である。
諸兄は聖武天皇による東大寺建立の時期の宰相であった。

かつて諸兄邸に赴いたこともある名門大伴氏の若き当主家持は、同年改元後の5月、越中守の任にあって平栄を迎え、そのために饗宴を催したのであろう。

(中略)

天平宝字3年11月14日付で、越中国の多くの東大寺領荘園図に署名した平栄は、同日他の僧および国司と共に「越中国砺波郡石粟村官施入田地図」にも署名した。
この地図には「奈良麻呂地」とあり、また他の場所と異なって造寺司の上毛野真人や算師’の署名がない。

奈良麻呂は橘諸兄の子であり、藤原仲麻呂打倒を謀って失敗し、殺された。
かつて諸兄邸で席を同じくした家持は、この時、因幡守として山陰道にあった。


石粟村は橘奈良麻呂の没官地が施入されたものである。

 

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




(55−58ページ)
『古地図から見た古代日本』
著者: 金田章裕
2017年5月1日 第1刷発行


 



『古地図から見た古代日本』という、文学とは全く関係ないような ご本の中に大伴家持の歌が引用されているのですわねぇ〜。。。



そうです。。。一見、文学とは何ら関係ないような本の中に大伴家持が顔を出す。。。

その事に意味があるのでごさ〜ますかァ〜?

意味があるのです。。。 なぜなら、大伴家持は歌人として有名だけれども、実は、政治にも深く関わっていた。

そうなのですか?

上の文章の中でも奈良麻呂は橘諸兄の子であり、藤原仲麻呂打倒を謀って失敗し、殺された。かつて諸兄邸で席を同じくした家持は、この時、因幡守として山陰道にあった、と書いてある。

そのことが大伴家持の政治活動と関係あるのでござ〜ますか?

大いに関係あるのです。。。でも、その事を説明するには、まず柿本人麻呂の次の和歌を読んで欲しいのですよ。

 


東(ひむがし)の

野に炎(かぎろひ)の

立つ見えて

かへり見すれば

月傾(かたぶ)きぬ


 


(kaki104.jpg->shoko07.jpg)

 



東方の野には

曙(あけぼの)の光が

さしそめるのが見えて

西を振りかえると

月が傾いて

淡い光をたたえている




『万葉集』日本古典文学大系による現代語訳



 



何度読んでみても、とりわけ心が揺さぶられるような素晴らしい歌ではないのですよ。



それはデンマンさんの個人的な意見でござ〜ますわ。

あのねぇ~、卑弥子さんも、もう一度マジで読んでみてくださいよ。 いったい、どこに『万葉集』に載せるほどの魅力があると言うのですか?

だから。。。いいと思った人が昔に居たのですわよう。

でもねぇ〜、その良さを『万葉集』日本古典文学大系を書いた人は全く理解してないのですよ。 だから、月並みな説明をしているだけ。。。 しかも「東方の野に 曙の光が見えて 西を振りかえると 月が傾いて淡い光をたたえている」というような、正に月並みなことしか書いてない。 バカバカしい! こんなバカバカしいことしか書けないから、日本のミーちゃんハーちゃんは万葉集など読まないのですよ。

デンマンさんは、なんだか上の和歌の本当の素晴らしい意味が分かっているようなことを言ってますわねぇ〜?

そうですよ。。。僕は上の和歌の真意を理解しているのです。

マジで。。。?

このような時に冗談やウソが言えますか!?

分かりましたわ。 それで、その真意って一体どのようなものなのでござ〜ますか?

あのねぇ~、それを説明するには、ちょとばかり歴史を知らないと理解できないのですよ。 卑弥子さんのためにここに書き出しますから読んでみてね。

 


高市皇子(たけちのみこ)

生年:654年(白雉5年)?
没年:696年8月13日(持統天皇10年7月10日)

日本の飛鳥時代の人物で、天武天皇の皇子(長男)である。
後皇子尊(のちのみこのみこと)と尊称される。

672年の壬申の乱勃発時、高市皇子は近江大津京にあり、挙兵を知って脱出し父に合流した。
若年であったが美濃国の不破で軍事の全権を委ねられ、乱に勝利した。

679年に天武天皇の下で吉野の盟約に加わり、兄弟の協力を誓った。
この後には他の皇子とともにしばしば弔問に遣わされた。
686年に持統天皇が即位すると、太政大臣になり、以後は天皇・皇太子を除く皇族・臣下の最高位になった。

天武天皇の第一皇子で、胸形尼子娘を母とする。
母の父は胸形君徳善である。
正妃は天智天皇皇女御名部皇女(元明天皇の同母姉)で、この間の子が長屋王である。
他に子供は鈴鹿王、河内女王、山形女王。
また万葉集によれば異母妹但馬皇女が邸内にいたという。
これが事実とすると但馬皇女は高市皇子の妻または養女であった可能性がある。
また、異母姉で弘文天皇妃の十市皇女が急死した際に情熱的な挽歌を詠んだために、十市皇女に対して好意を抱いていた(または、恋人、夫婦であった)のではないかとの説もある。

壬申の乱

大海人皇子は高市皇子に、「近江朝では、左右大臣と智謀の群臣が一緒に議を定めている。今朕はともに事を計る者がない。幼少の子供がいるだけだ。どうしたものか」と言った。
高市皇子は腕まくりをして剣を握りしめ、「近江の群臣は多いといえども、どうして天皇の霊に逆らえますか。天皇独りであっても、ここに臣高市、神祇の霊を頼り、天皇の命を請け、諸将を率いて征討します。これをどうやって防げましょうか。」と答えた。
大海人皇子は誉めて高市の手をとり背を撫でて、「慎め、怠るな」といった。
そこで鞍馬を与え、軍事をすべて委ねた。

高市皇子は和蹔(わざみ)に帰り、大海人皇子は野上に行宮を作った。
和蹔は和蹔原(和射見が原)のことで、後の関ヶ原盆地を指す。
不破関はその西方の入り口、野上は東の端にある。
各地から来た大海人皇子の軍勢は、和蹔に集結して高市皇子に掌握されたと考えられる。

28日に大海人皇子は和蹔に出向いて軍事を検校して帰った。
29日にも和蹔に行き、高市皇子に命令を与え、軍衆に号令して、また野上に帰った。
日付は不明だが、6月末か7月初めに、敵の小部隊が玉倉部邑を衝いたが、出雲狛が撃退した。

7月2日、大海人皇子はそれぞれ数万の二つの軍を送り出した。
一方は伊勢から倭(大和)に向かって大伴吹負軍の増援となり、もう一方は不破から出て近江に直に入った。
これ以後の戦闘で、高市皇子の名は見えない。
近江進攻軍とともにあり、指揮の実際は諸将に委ねたとみるのが自然だが、なお和蹔にあってさらに遠方から来る軍を受け入れたとみることも不可能ではない。

7月23日に大友皇子(弘文天皇)が自殺したことで、壬申の乱は終わった。
8月25日に、大海人皇子は高市皇子に命じて、近江の群臣を処罰させた。

天武天皇の時代

乱の終結した直後、高市皇子を除く他の皇子たちはまだ幼く(最年長の忍壁皇子でも10歳前後)、天武天皇の皇親政治のもと、高市皇子が重要なポストを占めていたことは間違いないだろう。
『日本書紀』天武天皇4年(675年)11月4日の条には既に、高市皇子より以下、小錦より以上の大夫らに衣、袴、褶、腰帯、脚帯、机、杖を賜う」とある。この時点で皇族・臣下の序列としては既に最高位だったのかもしれない。

天武天皇8年(679年)5月6日に、天皇、皇后(持統天皇)、草壁皇子、大津皇子、高市皇子、川島皇子、忍壁皇子、志貴皇子は、吉野宮で互いに助け合うことを約束した(吉野の盟約)。
10日に六皇子が大殿の前で天皇を拝した。
天武天皇が自らの死後に壬申の乱のような皇位継承争いが起こることを恐れたためとされる。

この頃から高市皇子は天武天皇の皇子の中で3番目とされるようになった。

皇女を母にもつ草壁皇子、大津皇子に次ぐ。
母親の身分による序列では10人中8番目。

太政大臣

天武天皇が亡くなった直後、皇太子につぐ皇位継承資格を持つと見られていた大津皇子が謀反の罪で死刑になった。
続いて皇太子の草壁皇子が持統天皇3年(689年)4月13日に薨去した。
そのためそれまで天武天皇の皇后として政務を執っていた鸕野讚良皇女が翌年(690年)1月1日に即位した。持統天皇である。
この年の7月5日に全面的な人事異動があり、高市皇子は太政大臣に任命された。このときから薨去まで、高市皇子は皇族・臣下の筆頭として重きをなし、持統政権を支えた。

持統天皇4年(690年)10月29日、高市皇子は多数の官人を引き連れて藤原宮の予定地を視察した。

持統天皇5年(691年)1月13日、高市皇子の封が2000戸を増し、前のとあわせて3000戸になった。持統天皇5年(691年)1月4日、高市皇子の封が2000戸を増し、前のとあわせて5000戸になった。

持統天皇7年(693年)1月2日に浄広壱の位に進んだ。

持統天皇10年(696年)7月10日薨去。『延喜式』諸陵によれば墓は「三立岡墓」で、大和国広瀬郡にあり、東西6町南北4町で守戸はなし。だが、高松塚古墳の被葬者を高市皇子とする説もある。

挽歌

万葉集巻第2の199~202番に柿本人麻呂作の高市皇子への、万葉集中最長の壮大な挽歌が収められている。


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ここに「高市皇子尊」「後皇子尊」と尊称されている。
この尊称から高市皇子が立太子されていたのではないかとの説がある。
また柿本人麻呂がこれほど壮大な挽歌を寄せていることから、この2人は親交があったのではないかと言われている。

高市天皇説

上記の挽歌、高市皇子の長男・長屋王の邸宅跡から発見された「長屋親王宮鮑大贄十編」の木簡、政治情勢、壬申の乱における功績、母の実家の勢力、莫大な資産などから彼が天皇であったという説もあるが、はっきりとはしていない。(参考:九州王朝説)

高市皇子の歌

•万葉集巻第2 156~158番(高市皇子作の十市皇女への挽歌)
自作の歌はこの3首のみ

(注: 赤字はデンマンが強調
写真はデンマン・ライブラリーより)




出典:「高市皇子」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



つまり、上の和歌の本当の意味と高市皇子が関係しているのでござ〜ますか?



もちろんです。 だから高市皇子の略歴を持ち出したのですよ。

もしかしてデンマンさんは高市皇子が天皇になっていたと考えているのではありませんか?

確かに、そのような説があるのですよ。 上の略歴を読んでも天武天皇の子供の中では「壬申の乱」で高市皇子が一番活躍したのです。 だから、天皇になっていたとしても不思議じゃなかった。

天武天皇の長男だったのに、どうして天皇になれなかったのですか?

高市皇子のお母さんが天皇の娘ではなかったからですよ。 母親の身分による序列では10人中8番目だった。 でも、実力はナンバーワンだった。

それで柿本人麻呂が高市皇子を尊敬していたのですか?

そうですよ。 だからこそ、万葉集の中で最長の挽歌を高市皇子のために柿本人麻呂が詠んだのです。 つまりねぇ、高市皇子を天皇にしたいと思っていた人がかなり居たということですよ。

実力主義でなかったので高市皇子が天皇になれなかったのですわね?

いや。。。そう言う訳でもない。 実際、天武天皇が天皇になたのは「壬申の乱」というクーデターによって天智天皇の長男である大友皇子を破って天皇になったのですよ。 要するに実力によって天皇になったということですよ。 だから、高市皇子が天皇になっても不思議じゃなかったのです。

でも、そうならなかったのはなぜですか?

天武天皇の第一夫人の力が強かったのですよ。 クリントン夫人のようなものです。

 


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クリントン夫人って、それほど実力があったのでござ〜ますか?



クリントンが大統領になたのもクリントン夫人がついていたからですよ。 夫人が居なかったらまず大統領にはなれなかったでしょう!?

。。。で天武天皇の第一夫人って誰ですか?

天武天皇のすぐ後で持統天皇になった鸕野讚良皇女ですよ。

つまり、クリントン夫人のような、でしゃばっている夫人が居たために高市皇子は天皇になれなかったのですか?

その通りですよ。 持統天皇は自分の子供に天皇になって欲しかった。 だから、自分の子供が天皇になる間だけ自分が天皇になって時間稼ぎをしたというわけですよ。

つまり、その間に柿本人麻呂を含めたグループが高市皇子を天皇にしようという動きがあったのですか?

その通りです。

でも、失敗してしまったのですか?

その通りですよ。

どうしてデンマンさんは、そうだと思うのですか?

あのねぇ、そういう動きに参加していたために柿本人麻呂は持統天皇に睨(にら)まれて左遷され、一生を棒に振ってしまったのですよ。

マジで。。。?

もちろんですよ。 柿本人麻呂の略歴を読んでみてください。

 


柿本人麻呂


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660年頃 - 720年頃


柿本人麻呂は、飛鳥時代の歌人。
名は「人麿」とも表記される。
後世、山部赤人とともに歌聖と呼ばれ、称えられている。
また三十六歌仙の一人で、平安時代からは「人丸」と表記されることが多い。

出自・系譜

柿本氏は、孝昭天皇後裔を称する春日氏の庶流に当たる。
人麻呂の出自については、父を柿本大庭、兄を柿本猨(佐留)とする後世の文献がある。
また、同文献では人麻呂の子に蓑麿(母は依羅衣屋娘子)を挙げており、人麻呂以降子孫は石見国美乃郡司として土着、鎌倉時代以降益田氏を称して石見国人となったされる。
いずれにしても、同時代史料には拠るべきものがなく、確実なことは不明とみるほかない。

彼の経歴は『続日本紀』等の史書にも書かれていないことから定かではなく、『万葉集』の詠歌とそれに附随する題詞・左注などが唯一の資料である。
一般には天武天皇9年(680年)には出仕していたとみられ、天武朝から歌人としての活動をはじめ、持統朝に花開いたとみられることが多い。
ただし、近江朝に仕えた宮女の死を悼む挽歌を詠んでいることから、近江朝にも出仕していたとする見解もある。

賀茂真淵によって草壁皇子に舎人として仕えたとされ、この見解は支持されることも多いが、決定的な根拠があるわけではない。
複数の皇子・皇女(弓削皇子・舎人親王・新田部親王など)に歌を奉っているので、特定の皇子に仕えていたのではないだろうとも思われる。
近時は宮廷歌人であったと目されることが多いが、宮廷歌人という職掌が持統朝にあったわけではなく、結局は不明というほかない。
ただし、確実に年代の判明している人麻呂の歌は持統天皇の即位からその崩御にほぼ重なっており、この女帝の存在が人麻呂の活動の原動力であったとみるのは不当ではないと思われる。
後世の俗書では、持統天皇の愛人であったとみるような曲解も現れてくるが、これはもとより創作の世界の話である。

『万葉集』巻2に讃岐で死人を嘆く歌が残り、また石見国は鴨山での辞世歌と、彼の死を哀悼する挽歌が残されているため、官人となって各地を転々とし最後に石見国で亡くなったとみられることも多いが、この辞世歌については、人麻呂が自身の死を演じた歌謡劇であるとの理解や、後人の仮託であるとの見解も有力である。
また、文武天皇4年(700年)に薨去した明日香皇女への挽歌が残されていることからみて、草壁皇子の薨去後も都にとどまっていたことは間違いない。藤原京時代の後半や、平城京遷都後の確実な作品が残らないことから、平城京遷都前には死去したものと思われる。

代表歌

•天離(あまざか)る 鄙(ひな)の長道(ながぢ)を 恋ひ来れば 明石の門(と)より 大和島見ゆ

東(ひむがし)の 野にかげろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ

•ま草刈る 荒野にはあれど 黄葉(もみぢば)の 過ぎにし君が 形見とぞ来し

•近江の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ

また、愛国百人一首には「大君は神にしませば天雲の雷の上に廬(いほり)せるかも」という天皇を称えた歌が採られている。

官位について

各種史書上に人麻呂に関する記載がなく、その生涯については謎とされていた。
古くは『古今和歌集』の真名序に五位以上を示す「柿本大夫」、仮名序に正三位である「おほきみつのくらゐ」と書かれており、また、皇室讃歌や皇子・皇女の挽歌を歌うという仕事の内容や重要性からみても、高官であったと受け取られていた。

人麻呂にまつわる異説・俗説

その通説に梅原猛は『水底の歌-柿本人麻呂論』において大胆な論考を行い、人麻呂は高官であったが政争に巻き込まれ刑死したとの「人麻呂流人刑死説」を唱え、話題となった。
また、梅原は人麻呂と猿丸大夫が同一人物であった可能性を指摘する。
しかし、学会において受け入れられるに至ってはいない。
古代の律に梅原が想定するような水死刑は存在していないこと、また梅原がいうように人麻呂が高官であったのなら、それが『続日本紀』などになに一つ残されていない点などに問題があるからである。
なお、この梅原説を基にして、井沢元彦が著したものがデビュー作『猿丸幻視行』である。

『続日本紀』、元明天皇の和銅元年(708年)4月20日の項に柿本朝臣猨(エン、さる?)の死亡記事がある。
この柿本サルこそが、政争に巻き込まれ、皇族の怒りを買い、和気清麻呂のように変名させられた人麻呂ではないかとする説もある。
しかし、当時、藤原宇合(うまかい)・高橋虫麻呂をはじめ、なまえに動物・虫などのを含んだ人物は幾人もおり、「サル」という名前が蔑称であるとは考え難いことはすでに指摘されている。
このため、井沢元彦は『逆説の日本史』で、「サル」から人麻呂に「昇格」したと述べている。
しかし、「人」とあることが敬意を意味するという明証はなく、梅原論と同じ問題点を抱えている。
柿本サルについては、ほぼ同時代を生きた人麻呂の同族であった、という以上のことはわからないというべきであろう。

(注: 赤字はデンマンが強調
写真はデンマン・ライブラリーより)




出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



上の略歴に手がかりがあるのでござ〜ますか?



そうですよ。 人麻呂は高官であったが政争に巻き込まれと書いてあるでしょう? 僕は人麻呂が刑死したとは思わないけれど、間違いなく政争に巻き込まれ、持統天皇ににらまれて左遷されたと思っているのですよ。

その根拠は。。。?

あのねぇ、『万葉集』を編纂したのは大伴家持なのです。 大伴家持も柿本人麻呂も日本では「歌人」として知られているけれど、当時の文人は中国の伝統に則(のっと)って、現在の感覚で言えば政治家としての活動もしていた。 その政治家としての活動の部分が日本史では取り上げられてない。 脱落している。 特に柿本人麻呂の略歴からは政治的活動はすっぽりと脱落している。

大伴家持の場合には政治的活動も略歴の中に書かれているのですか?

書かれてますよ。 だから、そのことで僕は『万葉集』は単なる歌集ではなくて、政治的批判の書であると次の記事の中で書いたことがある。

 


(temple53.jpg)

『万葉集の謎と山上憶良』

 (2006年7月1日)


 



つまり、柿本人麻呂が高市皇子を天皇にするための政治的活動をして、それが持統天皇の知るところになって、人麻呂は左遷されて一生を棒に振ったとデンマンさんは信じているのですか?



そうですよ。

持統天皇はそのような事をする人なのですか?

する人なのです。 子供の頃に不幸な事件が度重(たびかさ)なってぇ心にトラウマを受け、権力に人一倍こだわるようになってしまった不幸な女性なのですよ。 その事で僕は次の記事を書いたのです。 ぜひ読んでみてください。

 


(bond010.gif)

『古代のある女の悲劇』

 (2006年7月3日)


『愛と怨霊』

 (2007年6月9日)


『いにしえの愛とコミュニケーション』

 (2007年1月8日)


 



。。。で、柿本人麻呂の詠んだ「かぎろい」の和歌は、実は、政治批判の歌だとデンマンさんはおっしゃるのですか?



その通りですよ。

 


(kaki104.jpg->shoko07.jpg")

 

東(ひむがし)の

野に炎(かぎろひ)の

立つ見えて

かへり見すれば

月傾(かたぶ)きぬ


 



上のつまらない和歌が『万葉集』の中に柿本人麻呂の代表的な歌として載せられている。 なぜだと思いますか?



どうしてでござ〜ますか?

万葉集を編纂した大伴家持が歴史の真相を後世の我々に知って欲しかったからですよ。

その歴史の真相ってぇ何ですのォ~?

だから、高市皇子を天皇にするための政治的活動があったということですよ。

でも、そのような事を歴史の時間に先生は言いませんでしたわ。

多分、そのような事を言った人はあまり居ないでしょうね?

でも、デンマンさんはマジで柿本人麻呂が高市皇子を天皇にする政争に巻き込まれたと信じているのですか?

マジで信じています。

。。。で、上の和歌の真意はどのようなことになるのですか?

次のようになるのですよ。

 



(shoko07.jpg->shoko05.jpg)

実にきれいな日の出です。
この太陽が天照大神(あまてらすおおみかみ)のシンボルです。
そしてまた女帝・持統天皇のシンボルでもある。

どうして。。。?

あなたは、きっとそう思うでしょうね。
天孫降臨(てんそんこうりん)は、天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫である瓊瓊杵尊(邇邇藝命・ににぎ)が、葦原中国平定を受けて、葦原中国の統治のために降臨したという日本神話の説話です。
なぜ、この説話を持ち出してきたのか?と言えば、持統天皇がちょうど同じようにして孫に皇位を継がせている。
その事を正当化するために「天孫降臨」を『古事記』や『日本書紀』に書かせたことも十分に考えられます。

政治家としての持統天皇は、天武天皇から我が子の草壁皇子、そして孫の珂瑠(軽)皇子(かるのみこ)に皇位を伝えることに拘(こだわ)った。
持統天皇は草壁皇子が天武天皇の後を嗣(つ)ぐことを望み、夫に働きかけて草壁皇子を皇太子に就け、夫の死後に草壁皇子のライバルであった大津皇子を陰謀によって排除した。

天武天皇の葬礼が終わったあとに草壁皇子を即位させるつもりだった。
しかし、その実現前に皇子が死んだために、やむなく自分が即位して孫の珂瑠皇子が文武(もんむ)天皇として皇位につくまでの時間稼ぎをした。

系図で見ると次のようになります。

 


(keizu03.gif)

 

つまり、珂瑠(軽)皇子が文武(もんむ)天皇として輝く。
それが上の日の出の光景です。

でも、「壬申の乱」を見れば、誰でも高市皇子の活躍を無視するわけにはゆかない。
だから、天武天皇の長男であり、実力もナンバーワンの高市皇子が次期天皇になるのが当然だと思った人が居たとしても不思議じゃない!
その一人が柿本人麻呂だった。
高市皇子が次期天皇になるように支援し協力したのです。
だから持統天皇に睨(にら)まれて左遷されてしまった。

 


(kaki105.jpg->shoko07.jpg)

 

「かぎろい」とは太陽が昇る前の上のような光景です。


ここで私の「曙光説」を挙げてみたい。 私にとっての「かぎろひ」とは、太陽が地平線下約8°から6°にあるあいだで、数分間持続する空の現象の動的過程である。 時間でいえば、日本の各地、季節を平均して、日の出前約40分から数分間ほどになる。 このとき、東の空では、地平線上にまさに暗黒の天と地を切り裂くように、鮮やかな赤い光の帯が真横にあらわれる。

その上に橙色や黄色の帯がつづく。 光の帯はみるみる発達して、その幅も明るさも増し、さらに空気が澄んでいるときには、東の空高く、のし上がるように高度にして50°ぐらいにもおよぶ明るい大きな円形の発光が見えることがある。 その色は透明な赤橙色ないしはサーモン・ピンクで、まさに「炎」ないしは「炎が立つ」というのはこういう光景を指すのではないかと思われる。

「かぎろい」の歌には、火のようにゆれた燃え輝くものに直面したときに湧きいでる歓喜の心情が率直に歌われていると思う。 日の出前40分ころの東の空で一瞬一瞬にあらわれる劇的な変化こそ、それにこたえうるものと思う。

(注: 赤字はデンマンが強調)




19ページ 『空の色と光の図鑑』 株式会社 草思社


火のように揺れ、燃え輝いている「かぎろい」こそ、人麻呂の眼には、持統天皇の野心と陰謀に映る。
当然、人麻呂はムカついているのです。

そして、西を振りかえると月が傾いて淡い光をたたえている。
つまり、高市皇子が次期天皇になるという望みは完全に絶たれてしまった。
やがて沈んでしまう月のように。。。
要するに歌の意味は次のようになるのですよ。

 


東(ひむがし)の

野に炎(かぎろひ)の

立つ見えて

かへり見すれば

月傾(かたぶ)きぬ


 


(kaki003.jpg->kaki005.png)

 


ああ、何ということだ
持統天皇の野心と陰謀は
ついに、ここまで剥(む)き出しにされ
大津皇子は自殺に追いやられてしまった。

この分では高市皇子が皇位につくこともあるまい。
命を永らえることさえ危(あや)ういのだ。

高市皇子の運命は、今、まさに沈もうとする
月のようではないか…。



 

確かに持統天皇は野望を実現させたけれど、
まさか自分が死んだあとに、天皇の実権が藤原氏に移るとは想像もしていなかったに違いない。

庇を貸して母屋を取られる

藤原不比等は持統天皇以上の野望を胸に秘めていた。
持統天皇に協力していると見せかけて、
実は、藤原氏は天皇から実権を奪い取ろうと着々とその計画を進めていた。

天皇にはなれなかったけれど、高市皇子は実際に実力を持った人物だった。
その実力は長男の長屋王に引き継がれてゆく。

 


(keizu901.png)

 

藤原氏に対抗して天皇を中心とした政治を行おうとした長屋王は、藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)の陰謀に遭って自殺しなければならなかった。
これが世に言う「長屋王の変」です。

高市皇子は持統天皇の野望に破れ
その子の長屋王は藤原氏の陰謀によって自滅しなければならなかった。
このようにして藤原氏の政権は確立されていった。


 



ずいぶんと長ったらしい説明ですわ。 柿本人麻呂の和歌に上のような歴史的事実が込められているという根拠があるのですか?



ありますよ。 あのねぇ~、柿本人麻呂の和歌を選んだのは万葉集・編集長の大伴家持なのですよ。 この人は万葉集の最後に自分の歌を載せている。

 



(yakamo3.jpg)

 

新しき 年の初めの 初春の

今日降る雪の

いやしけ吉事(よごと)


 



新しい年の始めの初春の

今日降る雪のように、

これからの世には

よい事がいっぱいありますように…。



 



これは天平宝字3(759)年の元旦に詠んだ歌なのですよ。 でもねぇ、大伴家持の願いとは裏腹に、このあと家持には良い事は起こらなかった。 むしろ悪い事が待っていた。



どのような。。。?

あのねぇ~、この歌を詠んでから26年後の延暦4(785)年8月28日に、大伴家持は奥州の多賀城で68歳の生涯を閉じたのです。 ところが、藤原氏は家持が死んだ後も、そっとしておいてはくれなかった。

大伴家持が亡くなってからって。。。死んでからでは何もできないでしょうに。。。

でも藤原政権はしつこいのですよ。。。翌年、京都で藤原種継(たねつぐ)暗殺事件が起きた。

その事件と大伴家持が関係あるのでござ〜ますか?

大いに関係がある。 権力を握る藤原氏によって大伴家持は、その事件の首謀者の一人に仕立てられてしまったのですよ。 しかも、大伴家持の遺骨は掘り返されて隠岐(おき)の島に流刑にされてしまった。

わざわざ遺骨を掘り起こして隠岐(おき)の島まで持っていったのですか?

そうなのですよ。 現在から見れば常識では考えられないような事をした。 つまり、それほど大伴家持は睨まれていた。

なぜ。。。?

だから、大伴一族は藤原氏に抵抗する集団と考えられていた。

どうして。。。?

なぜなら、大伴家持のお父さんの大伴旅人(たびと)は長屋王に協力していた。 当然のことだけれど、長屋王の父親・高市皇子や、その協力者・支援者だった柿本人麻呂の事なども大伴家持は、お父さんの旅人から聞かされていた。

つまり、大伴家持は柿本人麻呂が高市皇子を天皇にしようという政治活動に参加していたこと、それがもとで持統天皇に睨まれて左遷されてしまった事などをお父さんの旅人から聞かされていたとデンマンさんは主張するのですか?

その通りですよ。 だからこそ、一見つまらなそうに見える柿本人麻呂の和歌を大伴家持は『万葉集』に取り上げたのですよ。

要するに、何百年後に生きているデンマンさんのような歴史馬鹿に、歴史の真実を知ってもらおうとして『万葉集』の中に柿本人麻呂の「かぎろい」の和歌を取り上げたのでござ〜ますか?

そうです。。。それが大伴家持の野心なのですよ。。。 とにかく、歴史の事実をはっきりとは書けなかった。 だから、柿本人麻呂は当たり障りのない「かぎろい」を詠む事によって歌の中に歴史の真実を読み込んだのですよ。 僕の言おうとしていることが卑弥子さんにも分かるでしょう?

もちろん、デンマンさんのお話を聞けば、そうなのかな?とも思いますけれど、歴史的には証拠がないのでしょう?

あのねぇ~、歴史にハマッている僕の歴史的仮説ですよ。 この記事を読んでくれる人の中に上の説明を読んで、そのような事も大いにあったかも知れないと思ってくれる人が居れば、こうして卑弥子さんと話した甲斐があるのですよ。



(laugh16.gif)


【卑弥子の独り言】


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ですってぇ~。。。
あなたはデンマンさんの説明に納得できましたかァ?

ええっ。。。 歴史には興味がないのォ~?

そんな事を おっしゃらないでくださいましなァ~。。。

じゃあ、あなたにも興味がある話題を。。。

どうして小百合さんが「軽井沢タリアセン夫人」と呼ばれるのか?
あなたは ご存知でござ~♪~ますかァ?

実は簡単な事なのですわよう。
小百合さんは軽井沢に別荘を持ったのですわ。
小さな頃から軽井沢に住むことが夢だったのですってぇ~。。。
分からない事ではござ~ませんわァ。

そもそも小百合さんが軽井沢に興味を持ったのは、朝吹登水子のエッセーなどを読んだことがきっかけだったとか。。。
現在、朝吹登水子の山荘、睡鳩荘(すいきゅうそう)は軽井沢タリアセンに移築されて公開されています。


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それで、小百合さんは軽井沢タリアセンを訪れては睡鳩荘に足を運んで少女の頃の事を思い出すのが楽しみなんですってよ。

そういう訳で、デンマンさんが小百合さんのことを「軽井沢タリアセン夫人」と呼ぶようになったのですわ。

軽井沢・雲場池の紅葉



軽井沢のイルミネーション



秋の旧軽井沢銀座ぶらり散歩



とにかく、明日もデンマンさんが興味深い記事を書くと思いますわ。
だから、あなたも、お暇なら、また読みに戻ってきてくださいまし。
じゃあねぇ~~。


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頼朝の死の謎


 

頼朝の死の謎

 


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デンマンさん。。。 今日は源頼朝の死の謎に迫るのでござ~♪~ますかァ~?


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そうです。。。 いけませんか?

でも、どういうわけで急に 頼朝の死の謎 を持ち出したのでござ~♪~ますかかァ?

実は、バンクーバー市立図書館で借りていた本を読んでいたら次の箇所に出くわしたのですよ。。。



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歴史の表層だけを見れば、頼朝と政子は典型的な成功者夫婦であり、誰よりも幸せだったと思われるだろう。
だがその内幕は、そんな生易しいものではなかった。
 
寿永2年(1183)、長女の大姫が6歳の時、頼朝は勃興してきた木曽義仲と手を組み、平家を倒そうとする。
この時、義仲は嫡男で11歳になる義高を人質兼大姫の婿として鎌倉に送ってきた。
だが翌年、この関係も破綻し、義仲は頼朝の弟の義経らによって討伐された。
 
この一報を受けた義高は鎌倉から逃れようとするが、追捕を受けて討ち死にを遂げてしまう。
これによりショックを受けた大姫は心を病み、寝ては起きての生活の末、20歳で死去することになる。
その2年後には次女の乙姫も病死し、政子は二人の女子に先立たれてしまった。
 
しかもこの頃から、頼朝の表立った政治活動が見られなくなる。
実は鎌倉幕府の正史とも言える『吾妻鏡』は、頼朝の死に至る2年余が欠落し、この間、頼朝に何が起こったかを伝えるものは皆無なのだ。
 
この欠落期間、それまで朝廷権力の吸収に余念がなかった頼朝と鎌倉幕府は、なぜか無為無策を続け、朝廷勢力の挽回を許してしまう。
 
それが承久の乱につながっていくのだが、その理由は分かっていない。
しかも建久10年(1199)の頼朝の死去は落馬によるものとされ、少なくとも病床に伏していたわけではないことが分かってくる。
 
では、馬に乗れるほど健康であるにもかかわらず、頼朝はなぜ無為無策に陥ったのか。
鎌倉幕府の文士(吏僚)たちは、いったい何をしていたのか。
これこそは歴史の謎と言っていいだろう。
 
 
 
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
 


 
103-104ページ 『日本史の新常識』
編者: 文藝春秋
2018年11月20日 第1刷発行
発行所: 株式会社 文藝春秋




なるほどォ~。。。 「頼朝の死に至る2年余が欠落し、この間、頼朝に何が起こったかを伝えるものは皆無」ということは、何か異変が起こっていたということですわねぇ~。。。



でもねぇ~。。。 「頼朝の死去は落馬によるものとされ、少なくとも病床に伏していたわけではない」のですよ。。。 つまり、馬に乗れるぐらいには元気だったというわけです。。。

それにもかかわらず、死ぬまでの2年余りの間、鎌倉幕府の正史とも言える『吾妻鏡』には、何の記載もないということでござ~ますか?

そういうことですよ! 不思議と言えるでしょう! ミステリーですよ。。。

やっぱり、秘密が隠されているのでござ~ましょうか?

そうとしか考えられないでしょう!

。。。で、デンマンさんは、頼朝は馬から落ちたことが死因ではないと考えているのですか?

当然でしょう! 落馬が原因であれば、それまでの2年余りの間、鎌倉幕府の正史とも言える『吾妻鏡』に将軍の頼朝についての記述が一切無いというのは可笑しいでしょう!?

つまり、歴史に残るような、後世に知られてはまずいことが、この2年余りの間に何かが起こったということでござ~ますか?

その通りですよ! だから、仕方が無いので『吾妻鏡』には、何の記載もないのですよ!

でも。。。、でも。。。、歴史家に限らず、『吾妻鏡』を読む人がいれば、その事について奇妙に思うでしょう?

そうですよ。。。 だから上の本でも、著者が奇妙に思って書いているわけですよ。。。

。。。で、デンマンさんは頼朝の死因は何だと思うのでござ~ますかァ?

もちろん、僕には僕なりの死因についての考えがあります。。。 でも、ここで言う前に、これまでにも諸説があるのですよ。。。 それを書き出します。。。


頼朝の死因

 

各史料では、相模川橋供養の帰路に病を患ったことまでは一致しているが、その原因は定まっていない。
『吾妻鏡』は「落馬」、『猪隈関白記』は「飲水の病」、『承久記』は「水神に領せられ」、『保暦間記』は「源義経や安徳天皇らの亡霊を見て気を失い病に倒れた」と記している。
これらを元に、頼朝の死因は現在でも多くの説が論じられており、確定するのはもはや不可能である。
死没の年月日については、それ以外の諸書が一致して伝えているため、疑問視する説は存在しない。

 

■落馬説

 


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建久9年(1198年)重臣の稲毛重成が亡き妻のために相模川に橋をかけ、その橋の落成供養に出席した帰りの道中に落馬したということが『吾妻鏡』に記された死因であり、最も良く知られた説である。
その死因が『吾妻鏡』に登場するのは、頼朝の死から13年も後のことであり、死去した当時の『吾妻鏡』には、橋供養から葬儀まで、頼朝の死に関する記載が全く無い。

これについては、源頼朝の最期が不名誉な内容であったため、徳川家康が「名将の恥になるようなことは載せるべきではない」として該当箇所を隠してしまったとする俗説があるが、『吾妻鏡』には徳川家以外に伝来する諸本もあり、事実ではない。
なお、死因と落馬の因果関係によって解釈は異なる。

落馬は結果であるなら脳卒中など脳血管障害が事故の前に起きており、落馬自体が原因なら頭部外傷性の脳内出血を引き起こしたと考えられる。
落馬から死去まで17日あることから、脳卒中後の誤嚥性・沈下性肺炎の可能性がある。

 

■尿崩症説

落馬で脳の中枢神経を損傷し、抗利尿ホルモンの分泌に異常を来たして尿崩症を起こしたという説。
この病気では尿の量が急増して水を大量に摂取する(=「飲水の病」)ようになり、血中のナトリウム濃度が低下するため、適切な治療法がない12世紀では死に至る可能性が高い。

 

■糖尿病説

『猪隈関白記』の「飲水の病」とは水を欲しがる病であり糖尿病を指すとする。
しかしそのような症状があったという記録はなく、可能性は低い。そもそも糖尿病は直接の死因となる病気ではなく、合併症が死因となる病気である。
仮に糖尿病による死だとしたら、当時の人間がそれが死因と認識して「飲水の病」と記録に残すとは考えにくい(藤原道長も「飲水の病」から糖尿病説があるが、これが原因で死去したとの記録は無い。また晩年視力が低下したとの記録があることから、これが糖尿病の合併症ではないかと推測されている)。

 

■亡霊説

『保暦間記』に記されている。
当時は亡霊や祟りが深く信じられている時代であり、信心深い頼朝には義経や安徳天皇の亡霊が見えたのであろうと言う。
医学でいう意識障害のような失調症があったと捉えることもできる。

ただし「亡霊を見た」という記述をそのまま鵜呑みにするだけでは学説とは言えず、現代医学でいう所での疾患名が特定されないことには意味は無い。
原因と結果は逆であり、何らかの病気で意識が混濁した頼朝が亡霊を見た可能性も否定できない。

 

■溺死説

史料は「飲水の病」「相模川橋供養」「水神の祟り」「海上に現れた安徳天皇」など水を連想させる語が多く、溺れたことが死に繋がったのではと見る。
また相模川河口付近は馬入川とも呼ばれており、頼朝の跨った馬が突然暴れて川に入り、落馬に至ったことに由来するとも伝わる。
溺死説の場合、「飲水の病」は川に落ち溺れ、水を飲み過ぎたことを意味すると見る。

 

■暗殺説

 


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頼朝は子の源頼家や実朝と同じく何者かに暗殺されており、その事実を隠すべく『吾妻鏡』への記載を避けたとする。
或いは北条氏に水銀を飲まされて死んだとも言う。
だがいずれも特に根拠はない。

 

■誤認殺傷説

愛人の所に夜這いに行く途中、不審者と間違われ斬り殺されたとする。
ただし証拠以前に、斬り殺した人間、遭いに行く予定の愛人が誰か特定できないことには、学説として成り立たない。




出典: 「源頼朝」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




あらっ。。。 やっぱり、『吾妻鏡』を読んで奇妙に思った人がたくさん居たと見えて、いろいろな説があるのでござ~ますわねぇ~。。。



そういうことです。。。

。。。で、デンマンさんは上の説のどれが事実だったと思うのでござ~ますか?

それに答えるには、まず『吾妻鏡』とは、いったい誰が書いたのか? それを調べるのが先決です!


吾妻鏡

 


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『吾妻鏡』または『東鑑』は、鎌倉時代に成立した日本の歴史書。
鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記という構成で、治承4年(1180年)から文永3年(1266年)までの幕府の事績を編年体で記す。

成立時期は鎌倉時代末期の正安2年(1300年)頃、編纂者は幕府中枢の複数の者と見られている。
後世に編纂された目録から一般には全52巻(ただし第45巻欠)と言われる。

編纂当時の権力者である北条得宗家の側からの記述であることや、あくまでも編纂当時に残る記録、伝承などからの編纂であることに注意は必要なものの、鎌倉時代研究の前提となる基本史料である。

 

北条得宗家

得宗(とくそう)は、鎌倉幕府の北条氏惣領の家系。
徳崇、徳宗とも(読みは同じ)。

幕府の初代執権の北条時政を初代に数え、2代義時からその嫡流である泰時、時氏、経時、時頼、時宗、貞時、高時の9代を数える。

「得宗」とは2代義時に関係する言葉で、研究者によって義時の別称、戒名、追号など意見が異なる。
近年では「徳崇」の当て字・略字で、禅宗に帰依した5代時頼が、浄土宗系の宗派を信仰していた義時に贈った禅宗系の追号の可能性が指摘されている。

義時流、得宗家という呼び方もある。
史料においては北条氏嫡流の当主を「得宗」と指した例は少なく、行政用語であったとも考えられている。




出典: 「源頼朝」 & 「得宗」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




つまり、北条得宗家の者が書いたのですわねぇ~。。。



そういうことですよ。

。。。と言う事は、北条氏にとって都合が悪いことが起こったわけですか?

その通りです。。。

。。。つうことわあああァ~。。。 頼朝に愛人ができて、その愛人の夫が北条得宗家の者だったのでござ~ますわねぇ~。。。 それで、その愛人の夫が復讐のために、頼朝を暗殺したのですわねぇ~。。。 そうでしょう?

卑弥子さんは、なかなか察しがいいですねぇ~。。。 実は、その愛人の名が 北条卑弥子 なのですよ。。。

 


(himiko92c.jpg)

 



マジでござ~ますかあああァ~? あたくしの北条系統の祖先なのですかあああァ~? つまり、■誤認殺傷説 ですかあああァ~?



いや、それは 真っ赤な嘘 です! この時、愛人は確定できなかったし、妻を寝取られた殺人犯も居なかった!

こういう真面目なお話のときに 真っ赤な嘘 をつかないでくださいなァ~!。。。 それでは。。。、それでは。。。、頼朝の死因は何でござ~ますかァ~?

■暗殺説 ですよ!

。。。で、その犯人は。。。?

北条時政の命令を受けた北条得宗家の者ですよ。。。 だからこそ、『吾妻鏡』には真相が書けずに、落馬が原因であるかのように書き入れたのですよ。。。

でも。。。、でも。。。、その証拠でのあるのでござ~ますか?

実際に手を下した殺人犯の名前までは分かっていないけれど、■暗殺説 を裏付けるような証拠があるのです。。。

マジで。。。?

ここで僕が、書き出すと長くなるので、次のクリップを見てください。。。

 


(yoritomo3.jpg)


(yoritomo4.jpg)


(yoritomo5.jpg)



 



信じられませんわ!



じゃあ、もう一度じっくりと上のクリップを見てください。。。



(foolw.gif)


【卑弥子の独り言】


(himiko22.gif) 

ですってぇ~。。。 

あなたは、上の暗殺説を信じることができますかァ~?

ええっ。。。 「そんな事は、どうでもいいから、もっと他に面白い話をしろ!」

あなたは、そのように あたくしにご命令なさるのでござ~ますか?

いけすかないお方ァ~。。。

分かりましたわ。

では、話題を変えて 天の川の不思議に迫るクリップを お目にかけますわ。。。

 


(milkyway2.jpg)



 

どうでした?

ええっ。。。 「夜眠れなくなるから、そういう動画は見せるな! 気分直しに何か他に もっと面白いことを話せ!」

あなたは、あたくしに向かって、更にご命令なさるのでござ~ますか?

いけすかないお方ァ~。。。!

分かりましたわァ。。。 あなたが、そうおっしゃるのだったら、まずジューンさんの次の写真をご覧になってくださいまし。。。

 


(senya020b.jpg)

 

千夜一夜物語の衣装を着たジューンさんに魅せられて、女性に成りすます男性が たくさん居るのでござ~ますわァ!

ええっ。。。 信じられないのですかァ?

じゃあ、ちょっと次のYouTubeのクリップを見てくださいまし。。。

 


(xdress02.jpg)



 

いかがでござ~ますかァ~?

男性が女装していると思いますかァ?

あたくしは、素直に信じることができませんわァ~。。。

どうですかァ~? けっこうなものでしょう!?

いつまでも見とれていても仕方がありませんわよゥ。

あなたのために古代史の面白い記事を用意しました。

ぜひ お読みください。

では。。。

天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。
 

天智天皇は暗殺された 

定慧出生の秘密 

藤原鎌足と長男・定慧 

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?


今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?


マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?


とにかく、次回も興味深い記事が続きます。

だから、あなたも、また読みに戻ってきてください。

じゃあ、またねぇ~。。。


(hand.gif)


 

ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
(30june.jpg)


■ 『きれいになったと感じさせる

下着・ランジェリーを見つけませんか?』


『センスあるランジェリー』



(surfing9.gif)



(sayuri5.gif)

ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。

卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。




(maria05.jpg)

『ブログ村のマリア様』

『萌える済子女王』

『ピンク桃色@徒然』

『富沢金山の桜』

『ピンク桃色村』

『紫式部@徒然』

『絵里香@ペルー』

『ペルシャ人の楊貴妃』

『ん?佐伯今毛人』

『文学と歴史とウソ』

『百人一首ミステリー』

『芭蕉と遊女再び』

『映画とロマン@仙台』

『源氏物语中的性描写』

『忘れられた歴史ロマン』


(costa04b.jpg)

『おばさんパンツ@サンホセ』

『聖徳太子のチューター』

『オナラの曲芸』

『死海』

『漱石とオナラ』

『絵里香さん』

『美女とオナラ』

『アンバパーリー』

『ゆっくりと愛し合う』

『見ちゃだめ!』

『二重マチ付きズロース』


(miya08.jpg)

『麻生元総理』

『ネットのバカ女を捜して』

『額田王の歌』

『聖女と娼婦』

『済子女王@萌える』

『ん?堀内亜里?』

『松平春嶽が黒幕?』

『旅行者的早餐』

『なぜ蝦夷なの?』

『プリキュアとヒトラー』

『戦争絶対反対よね』

『怨霊の歴史』

『色欲@歴史』

『紫式部と敗戦』

『ラピスラズリと源氏物語』


(annasalleh.jpg)

『性と愛@古代史』

『仙台を離れて』

『美人とブス@大奥』

『絵の中のウソ』

『阿倍仲麻呂@ベトナム』

『バイクガール』

『六条御息所』

『卑弥子さんの大学』

『元寇と捕虜』

『マキアベリにビックリ』

『痴漢が心配』

『びた一文』

『卑弥子@ブカレスト』

『エロい源氏を探して』

『ラピスラズリの舟形杯』

『平成の紫式部』

『隠元豆と国性爺合戦』

『おばさんと呼ばれて』


(zurose2.jpg)

『女帝の平和』

『アタマにくる一言』

『悪女レオタード@昌原市』

『スウィートビーン』

『ガチで浦島太郎やし』

『ご苦労さま』

『デンマンのはなし』

『卑弥呼の墓』

『室生犀星と人間学』

『松平春嶽ダントツ』

『英語は3語で伝わる』

『くだらない物』

『漢字で体操』

『面白い漢字テスト』


(hama10.jpg)

『放屁女に罰金』

『アヤメとカキツバタ』

『日本の閨房術』

『大団円』

『ペルシャ人@Anzio』

『紀元前のメイフラワー号』

『あたまにくる一言』

『更級日記の作者も見た』

『平安のスバル』

『行田市長選挙@黒い霧』

『日本のエロい文化』

『女のオナラ』

『紫式部と宮本武蔵』



軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
(godiva05.jpg)


(byebye.gif)

大久保独裁政権


 

大久保独裁政権

 


(ookubo2.jpg)


(ookubo3.jpg)


(himiko92.jpg)




(himiko22b.gif)

デンマンさん。。。 どういうわけで急に 大久保独裁政権 を持ち出してきたのでござ~ますかァ~?


(kato3.gif)

実は、バンクーバー市立図書館で借りていた本を読んでいたら次の箇所に出くわしたのですよ。。。

 



(hamuro2.jpg)

 

幕末、イギリスの外交官アーネスト・サトウは『一外交官の見た明治維新(下)』の中で、今日の情勢を聞くために薩摩屋敷の西郷を訪ねた時のことを次のように書いている。

西郷は、現在の大君の政府の代わりに国民会議を設立すべきであると言って、大いに論じた。

私は友人の松根青年から、反大君派の間ではこうした議論がきわめて一般的になっていると聞いていたが、これは私には狂気じみた考えのように思われた。

サトウは西郷の開明的な意見にひどく驚いているが、島津斉彬がしようとしていたことが、幕府だけでなく諸藩の合議で国を動かしていこうということだったとすれば、西郷が国民議会を口にすることは異とするに足りない。

だからこそ、西郷は廃藩置県に断を下し、封建制度を一掃することもできたのだ。

 (44-45ページ)




今回の旅でよく聞いたのは、小倉処平(おぐらしょへい)という名だ。
いまでも飫肥(おび)では、
「小倉さんは偉かった」と言い伝えられている。

小村寿太郎も藩校時代に小倉に見出され、東京へ出る道を開いてもらった。
いわば恩人である。

その小倉が政府に使えて出世しなかったのは、明治10年(1877)の西南戦争の際、一隊を組織し薩軍に身を投じ、戦死したからだ。

 


(ogurashohei.jpg)

【小倉処平 (1846~1877)】

小村寿太郎とは親戚関係にあり、終生、師と慕われた。
江戸で儒学者の安井息軒に学び、藩校振徳堂の師範となる。
明治になると、小村らを長崎に留学させる。(略)

英仏に留学したが、征韓論争を知って帰国。
副島や西郷隆盛らが下野すると、飫肥に戻る。

1874年の佐賀の乱では、敗れた江藤新平らが頼ってきたのを土佐へ逃がし、罪に問われた。

後に大蔵省に勤めたが、1877年に西南戦争が起こると、帰郷して薩摩軍側に加わった。


 (85-87ページ)

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




『曙光を旅する』
著者: 葉室麟
2018年11月30日 第1刷発行
発行所: 朝日新聞出版


 



つまり、上の記事を読んで明治維新政府は大久保独裁政権だと思ったのでござ~ますかァ?



もちろん、そればかりじゃないのだけれど、上の文章を読んで、ますます大久保が独裁政権を築こうとしていたという思いを強くしたのですよ。。。

それはどうしてですか?

かつて、僕は次の記事を書いたのですよ。。。

 


(ass350.gif)

『放屁女に罰金』

 



でも、このオナラをして罰金を取られた女性と大久保独裁政権が関係あるのですか?



大いに関係があるのです。。。 卑弥子さんも、もう一度読んでみてください。。。

 


放屁した女を邏卒が連行し、

罰金75銭を支払わせた




(onara13.jpg)

 


(police2.jpg)

 

罰金だ!


 

現代では公共の場において放屁することはあまり良くないとされる。
日本では「屁=汚い・臭い」など良いイメージを持たない者が大多数であるからである。

車の中やバス、満員電車など人が密集する可能性の場所で屁をすることは、面白半分でも、多くの人に不快感を与える恐れが強い。
誰もいない場所やトイレでするのが一般のマナーとされている。

1873年(明治6年)2月8日、東京・押上の土手において放屁した女を邏卒が連行し、罰金75銭を支払わせた。

これに憤慨した女は罰金額が法外であるとして警視庁に抗議。

1872年(明治5年)の東京違式詿違条例では立小便や落書きといった現在の軽犯罪にあたる行為などを規制していたが、放屁に関する規定はなく罰金刑は不当なものであった。

このことは当時の新聞で議論を呼び、放屁の規制も条例に加えるべきとする意見と生理現象であり規制すべきでないとする意見とに分かれた。

のちに司法卿の江藤新平は通達を出し、放屁は規制の対象外として罰金も返還された。

また、当時開業したばかりの鉄道では客車内での放屁に罰金を科す旨の掲示があった。

俗説では、欧米諸国等では放屁は比較的失礼とされず、ゲップのほうが失礼とされるが、文化圏、階層、個人などにもよる。

マラウイ共和国では、「公序良俗を遵守する」という目的で、2011年2月、公共の場所での放屁を禁止する法案が提出された。




出典: 「屁」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 




あらっ。。。 今から150年近くも昔のことではござ~♪~ませんかァ!



とにかく、オナラをぶっぱなして罰金をもらった女性が居たということですよ。。。

でも。。。、でも。。。、その女性は音を立てずに すかしたのかもしれませんわァ~。。。

すかしたのじゃなくて、ぶっぱなしなのですよう!

どうしてデンマンさんは見てきたようなことをおっしゃるのでござ~ますかァ~?

あのねぇ~、もし、すかしたのだとすれば、この女性は「いいえ、あたくしは、そのようなハシタナい真似はいたしませんわァ。。。 ほらっ。。。 御覧なさい。。。 あたくしの前を行くあの男がすかしたのですわァ」と、言い逃れをするのですよ。。。

なるほどォ~。。。 でも。。。、でも。。。、その時、罰金のチケットを書いたお巡りさんは、どうして見逃さなかったのですか?

あのねぇ~、この当時の警察官(巡邏、邏卒、あるいは巡査)になる人は薩摩藩の下級武士が多かった。。。 当然、男尊女卑の考え方が当たり前だった。。。 当時の東京では、特に江戸っ子と言われた人たちは、巡査になった薩摩の田舎侍を馬鹿にしていた。

どうして。。。?

江戸が東京になり、薩摩の田舎侍が巡査になって「コラ、コラ、。。。 そこで立ち小便しちゃダメだ!」とえばりくさっていたから、江戸っ子は、心の中じゃ不満タラタラだった。

つまり、このオナラをぶっ放した女性は江戸生まれの姉御肌(あねごはだ)の女で、巡査を馬鹿にしていたのでござ~ますかァ?

まず間違いないでしょう! 巡査も、そういうことをウスウス察していたから、女が自分のすぐそばでオナラをぶっ放すのを耳にしたら、まるでこの女が自分を馬鹿にしていると思ってムカついたわけですよ! しかも、この女がデブで、ブスで、しかも人を小バカにしたような表情をしていたから、なおさら見過ごすわけにはゆかなかった。。。

 


(busu02.jpg)

 



それで、罰金刑にすることにしたわけですか?



それ以外に考えられないでしょう!?

要するに、明治になった頃は、巡査になった旧薩摩藩の下級武士は馬鹿にされていたのですわねぇ~?

そういうことです。。。

つまり、この事を言うために、わざわざオナラをぶっ放したデブで、ブスの女を持ち出してきたのでござ~ますかァ?

もちろん、それだけじゃありませんよ!

他に何を言いたいのでござ~ますかァ?

のちに司法卿の江藤新平は通達を出し、放屁は規制の対象外として罰金も返還された」と書いてある。

つまり、江藤新平・司法卿は、オナラをぶっ放したデブで、ブスの女の味方だったのですわねぇ~。。。

そういうことです。。。 庶民の味方だったのですよ。。。

 


江藤新平


(eto01.jpg)

天保5年2月9日(1834年3月18日) - 明治7年(1874年)4月13日)

政府内における急進的な民権論者であり「牛馬ニ物ノ返弁ヲ求ムルノ理ナシ」として牛馬解放令とも呼ばれた司法省達第二十二号(娼妓解放令)、民衆に行政訴訟を認めた司法省達第四十六号などが知られる。
また官吏の汚職に厳しく新政府で大きな力を持っていた長州閥の山縣有朋が関わったとされる山城屋事件、井上馨が関わったとされる尾去沢銅山事件らを激しく追及、予算を巡る対立も絡み2人を一時的に辞職に追い込んだ。

だが、その一方で英仏を範とする西欧的な三権分立の導入を進める江藤に対して行政権=司法権と考える伝統的な政治的価値観を持ちプロイセン王国(後のドイツ帝国)を範とする政府内の保守派(大久保利通たち)からは激しく非難された。

また急速な裁判所網の整備に財政的な負担が追いつかず、大蔵省の井上馨との確執を招いた。

明治6年(1873年)には朝鮮出兵を巡る征韓論問題から発展した政変で西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・副島種臣と共に10月24日に下野。
明治7年(1874年)1月10日に愛国公党を結成し1月12日に民撰議院設立建白書に署名し帰郷を決意する。

大隈・板垣・後藤らは江藤が帰郷することは大久保利通の術策に嵌るものであることを看破し慰留の説得を試みる。
しかし江藤はこれには全く耳を貸さず1月13日に船便で九州へ向かう。

江藤は直ぐには佐賀へ入らず2月2日、長崎の深堀に着きしばらく様子を見ることになる。
この一方、大久保は江藤の離京の知らせを知った1月13日には佐賀討伐のための総帥として宮中に参内し、2月5日には佐賀に対する追討令を受けている。

 

佐賀の乱

2月11日、江藤は佐賀へ入り、憂国党の島義勇と会談を行い2月12日、佐賀征韓党首領として擁立された。
そして、政治的主張の全く異なるこの征韓党と憂国党が共同して反乱を計画する。

2月16日夜、憂国党が武装蜂起し士族反乱である佐賀の乱(佐賀戦争)が勃発する。
佐賀軍は県庁として使用されていた佐賀城に駐留する岩村通俊の率いる熊本鎮台部隊半大隊を攻撃、その約半数に損害を与えて遁走させた。

大久保利通の直卒する東京、大阪の鎮台部隊が陸続と九州に到着すると、佐賀軍は福岡との県境へ前進して、これら新手の政府軍部隊を迎え撃った。
政府軍は、朝日山方面へ野津鎮雄少将の部隊を、三瀬峠付近へは山田顕義少将の部隊を前進させた。
朝日山方面は激戦の末政府軍に突破されるが、三瀬峠方面では終始佐賀軍が優勢に戦いを進めた。

また朝日山を突破した政府軍も佐賀県東部の中原付近で再び佐賀軍の激しい抵抗にあい、壊滅寸前まで追い込まれている。
しかし、政府軍は司令官の野津鎮雄自らが先頭に立って士卒を大いに励まし戦い辛うじて勝利する。
この後も田手、境原で激戦が展開されるが政府軍の強力な火力の前に佐賀軍は敗走する。

江藤は征韓党を解散して逃亡し、3月1日に鹿児島鰻温泉の福村市左衛門方に湯治中の西郷隆盛に会い、薩摩士族の旗揚げを請うが断られた。
続いて3月25日、高知の林有造・片岡健吉のもとを訪ね武装蜂起を説くがいずれも容れられなかった。

このため、岩倉具視への直接意見陳述を企図して上京を試みる。
しかしその途上、現在の高知県安芸郡東洋町甲浦付近で捕縛され佐賀へ送還される。
手配写真が出回っていたために速やかに捕らえられたものだが、この写真手配制度は江藤自身が明治5年(1872年)に確立したもので、皮肉にも制定者の江藤本人が被適用者第1号となった。

4月8日、江藤は急設された佐賀裁判所で司法省時代の部下であった河野敏鎌の最初から死刑ありきの暗黒裁判ともいうべき不当な裁判によって裁かれることとなった。
4月13日に河野により除族の上、梟首の刑を申し渡され、その日の夕方に嘉瀬刑場において処刑された。

判決を受けたとき「裁判長、私は」と言って反論しようとして立ち上がろうとしたが、それを止めようとした刑吏に縄を引かれ転んだため、この姿に対して「気が動転し腰を抜かした」と悪意ある解釈を受けた。
その後、江藤の首は嘉瀬川から4km離れた千人塚で梟首された。

 

逸話

明治政府に仕えていた頃、40人ほどの書生の面倒を見ていたといわれ、そのため、死後に借金が残った。

江藤が出した意見書は非常に画期的で民主的である。

その代表として「国の富強の元は国民の安堵にあり」という意見書の一文がある。

江藤が処刑された後、佐賀では「江藤新平さんの墓に参拝すると百災ことごとく去る。」と城下の人々にいわれ、参拝客が多かった。
そのため、県庁が反乱の萌芽を恐れ柵を設けて参拝を禁止した。
従って、夜間に参拝する者がいたという。




出典: 「江藤新平」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



あらっ。。。 江藤さんは、マジで民主的な方だったのでござ~♪~ますわねぇ~。。。



そうなのですよ。。。 三権分立を唱え、あまりにも民主的な政府を目指すので保守派の大久保利通から毛嫌いされた!

。。。で、大久保利通に殺されたのでござ~ますか?

そうです。。。 殺されたようなものですよ。。。 江藤新平が消されたのは大久保利通の策謀によるものです。 大隈・板垣・後藤らも江藤が帰郷することは大久保利通の術策に嵌るものであることを看破し慰留の説得を試みた。。。 でも、江藤は大久保と対決するつもりだった。。。 それで佐賀に帰ったのです。

つまり。。、つまり。。。、坂本龍馬の暗殺の黒幕も大久保利通だ、とデンマンさんは断定するのでござ~ますか?

そうです。。。 坂本龍馬と江藤新平はどちらかといえば、民主主義・共和主義をよりよく理解している人物だった。。。 だから、保守派には憎まれた。。。 大久保利通は保守派の中でも特に権力志向の強い人物で、自分が“お山の大将”にならないと気がすまない人だった。

そうなのでござ~ますか?

“坊主憎けりゃ袈裟まで憎い”と言うけれど、大久保利通は徹底的に江藤新平を憎んだ。。。 “死人に鞭(ムチ)打つ”ほどだった。 もちろん、鞭は打たなかったけれど、それほど憎んだ。 だから、大久保利通が撮影させた獄門に処せられた江藤新平の写真がいまだに伝わっている。

あらっ。。。 そうなのでござ~ますか?

見たかったら、次のリンクをクリックしてみてください。


(gokumon.gif)

『大久保利通が撮影させた

 江藤新平の獄門首』
 (別窓)




板垣は江藤とも懇意にしていたけれど、江藤よりも坂本龍馬の死をより惜しんだ。。。 つまり、それほど坂本龍馬という人物は大久保利通の先を見ていた人物だった。。。 だから、大久保に恨まれて暗殺されてしまった。




『放屁女に罰金』より
(2019年1月16日)


 



つまり、大久保さんは自分と考え方が違う人間を徹底的に排除したのですわねぇ~。。。



そういうことです。。。 もちろん、大久保さんは自分では日本を西欧列強と並ぶような国にしたいと考えていた。。。 金銭欲に関しては淡白だったけれど、権力に関しては貪欲で、とにかく自分流にやろうと硬く決心していた。。。

西郷さんと袖(たもと)を分かつことになったのも、大久保さんの権力欲でござ~ますかァ?

端的に言ってしまえば、そういうことです。。。 西郷さんは、どちらかと言えば大久保さんよりも江藤新平さんに共感するようなタイプだったのですよ。。。

。。。で、小倉処平さんは。。。?

1874年の佐賀の乱では、敗れた江藤新平らが頼ってきたのを土佐へ逃がし、罪に問われたほどだったから、当然、小倉さんの考え方は江藤さんと同じように開明的な思想を持っていた。。。 後に大蔵省に勤めたが、1877年に西南戦争が起こると、帰郷して小倉さんは薩摩軍側に加わった事実からも判るように、大久保独裁政権には馴染めずに、敢えて西郷さんの軍に加わって戦死したのですよ。。。 生きていたら小村寿太郎以上の仕事をした人ですよ。。。

惜しい人を死なせてしまったのですわねぇ~。。。

歴史に“もし”はないけれど、大久保さんに言わば殺されてしまった、坂本龍馬、西郷さん、江藤さん、小倉さんが生きていたら、日本はもっと ましな国になってましたよ。。。



(foolw.gif)


【卑弥子の独り言】


(himiko22.gif) 

ですってぇ~。。。

あなたも、大久保さんに言わば殺されてしまった、坂本龍馬、西郷さん、江藤さん、小倉さんが もし生きていたら、日本はもっと ましな国になっていたと思いますか?

ええっ。。。 「そんな事は、どうでもいいから、もっと他に面白い話をしろ!」

あなたは、そのように あたくしにご命令なさるのでござ~ますか?

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では。。。

天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。
 

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なぜ、蝦夷という名前なの?

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ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。

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(costa04b.jpg)

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